2/13 したいこと、守りたい人の意味
父と別れ、家に帰っても空しさが晴れることはなかった。
右左の前で嫌な顔をするわけにはいかない。笑顔で部屋を突っ切り、風呂に入って自室にさっさと籠もった。
右左が来年学園に戻る。その間の世話が出来るとして、僕には一年しか同じ空気を共有する時間はない。
では父に告げたように、浪人をしながら右左の世話をするのか。それもまた本末転倒であることは父に告げた僕自身よく理解していた。そんなことをして、右左が喜ぶわけがない。右左が理想とする僕は、どんな形になっても、しっかりと自分の足で進むことの出来る強さを持った人間だ。右左のために浪人をしたなんて、当の右左が一番失望する。
僕の僕としての在り方。難しい問題だなあ。
そう思っていると、自然と手がスマートフォンに伸びていた。ディスプレイを見つめながら、淡々とアイコンをタッチしていく。
「もしもし?」
「あ、神様さん、お仕事お疲れ様」
気がついた時に電話を掛けた先は、僕のよく見知った神様さんだった。彼女の優しい声色を聞くだけで、さっきまでの棘の生えた嫌な心がどこかへかき消えるようだった。
「どうしたの、今日結構遅い時間だけど」
「まあ色々あってさ。あーなんか面倒くさい」
僕はそう呟き、ベッドに転がり込んだ。電話の向こうの彼女は、僕がそんな言葉を発するのが解せないのだろう、首をひねったような声で訊ねてきた。
「何かあった?」
「さっきも言った通り、色々。……まあ、父親と久しぶりに会ったんだけどさ」
「そう言えば、お父さんとは結構離れてるんだよね。でも久しぶりに会ったなら会話が弾んだんじゃない?」
「うん、嫌な方向で。妹のことを突かれてさ。妹の世話をいつまでするんだって言われた。受験のこととセットで」
僕が淡々と語ると、電話の向こうの彼女は「そっか」と同じような寂しげな声で応えてくれた。
「きみは妹さん大切に思ってるんだよね。お父さんからしたら、きみが妹さんに縛られてるように見えたのかもしれないのかも」
「そうかもしれない。でも僕は……今更振り返っても仕方ないのかもしれないけど、あの時、別れた日、妹の手を取ってやらなかったんだ。そんな僕が今更いいお兄さんだなんて、何やっても言えることじゃないよ」
僕が静かに笑うと、神様さんはしばらく黙り込んでしまった。
「ねえ、きみはどうしたいの?」
「分からない。妹の面倒を見られるように、近所の大学に進むのか、浪人して妹の面倒見ながらきりのいい瞬間を探すのか。結局僕は……強くなった気でいただけなんだって気付かされた、それが凄く鬱陶しくてさ」
僕の口からため息が漏れる。それは電話越しによく聞こえたのだろう、彼女のため息が交互に聞こえてきた。
こんな弱いところ、見せたくなかったな。僕は仰向けになったベッドから見える白い天井を見つめながら、静かに目を閉じた。
「きみは強いよ」
「……そうかな」
「きみは私に勇気をくれた。弱かった私に、一歩進み出す力をくれて、これから先の二歩三歩のことを考えさせてくれるようになった。弱いだけの人なら、そんなこと出来ないよ」
彼女は落ち着いた声で語る。思っても見なかった言葉。その言葉が胸にしみて、閉じた目頭が徐々に熱くなるのが分かった。
喉まで出かかった嗚咽。それを必死に飲み込んで、僕は彼女に何とか笑い声を聞かせた。
「本当に、僕のやりたいことって何なのかな」
「それは私には分かんないな。でも、時々同じ方向見ていられたらいいかなってことは思う」
くすぐったいような甘い声が響く。僕はそれにどう応えようか悩んで、結局何の応えも寄こさなかった。
「でも受験の悩みは大きいよね。お姉ちゃんでも悩んでるくらいだし」
「あの人、受験で悩んでるの?」
「うん。本人は変わったことやりたいって言ってて、周りを困らせてるみたいだけど」
「でもあの人くらい頭が良かったら留学とかも考えられるよね」
「うん。でもそのためにはまず大学入らないと駄目だし、どこの大学に入るかも問題だし。そもそもあの人、将来何になりたいとか一切言わないんだよね」
ああ、予想通りの人葉さんの姿が想像できる。自分のプライベートな部分だけはひた隠しにしながら生きる、そういう人だ。
せめて妹くらいには本当の部分見せてあげなよ、そう言いたいが、今、電話越しに僕と話しているのは神様さんである。それを愚痴っても仕方ない。
変わった人のところには、変わった人が集まる。そんな些細なことを思い知らされると、さっきまで考えていた刺々しい感情が少し抜け、心に笑いが沁みていった。
「神様さんのバイト、どう?」
「いつもと変わらず。もうすぐイベントなんだよねー。一回やったけどやっぱり緊張するなあ」
「イベントって、何かコスプレとかして接客するんだよね。面白そうだから行ってもいい?」
僕は軽い気持ちで電話越しに提案をしてみる。その少しばかり熱を帯びた声が、彼女の耳を震わせると、彼女は不機嫌な声で返してきた。
「駄目。来ないで」
「え、ええ……?」
「そういうキャラを作って接客してるところ、あんまり見られたくないって言うか……私は私なりに頑張るから、その日は来てもらわなくても大丈夫」
要するに、恥ずかしいのか。僕ははあ、とため息をついてなるほど、と応えた。
「まあいいよ。その分、普段どうでもいいこと……たとえば電話とか、そういうのに付き合ってもらってるわけだから」
僕がそういうと、彼女は暫時無言になり、「そうだね」と軽く答えた。
この時間を僕は将来どんな風に思い返すのだろう。あの時は若かったなと振り返るのか、今も続く大事な道だったのかと思うのか。
でも間違いなく言えるのは、今の僕にとって、これ以上無いほど大切な時間だ。
「そう言えば人葉さん、部屋の前通った時に神様さんの電話してるの聞こえてるって言ってたよ」
「ってお姉ちゃん私の会話聞いてたの!?」
「いや……会話の中身は聞いてないみたいだけど、声が聞こえてくるって。そういう風に長電話する相手がいなかったから結構不思議みたいなことも言ってた」
当惑する僕が淡々と言葉を並べると、神様さんの声は途切れてしまった。
さすが、姉であり神様さんの天敵のような性格をしている人葉さんだ。この人を困らせる方法をよく知っていると僕も無言になってしまった。
「……あの人が悩んでも、絶対に助けない」
「ま、まあ神様さん、悪意があるわけじゃないから許してあげようよ」
「……まあきみがそう言うならそれでもいいよ。会話盗み聞きしてるわけでもないし」
僕はそうだね、と答えてから心の中で「その表情が普段の会話に漏れてるんだけどね」と呟いた。だがそれを口に出来るわけでもなく、ごろりと転んだベッドから白で彩られた天井を見上げていた。
「まあ色々言ってるけど、私は私で、お姉ちゃんのこと、心配なんだよね」
「そうなの? あんまりそういう感じに見えないけど……」
「仕方ないよ。あんまり仲良く過ごしてないからね。でも、私が学校辞めた時にお姉ちゃん凄く心配してくれたのは知ってるし、お姉ちゃんが今自分の進路で悩んでるのも知ってる。だから何か力になってあげられる時がないか、それは気にしてることなんだ」
ああ、やっぱり彼女はいい人だ。たった一言で言い表せる感情が、心の奥で複雑かつ有機的に絡み合っていく。それが僕に戸惑いと高揚を覚えさせていた。
「ねえ、きみももしお姉ちゃんから何か悩み事とか相談されたら、協力してくれないかな」
「いいけど、力になれるかな」
「あの人、一人で虚勢張ってる人だから。本当は凄く弱いんだよ。だから、お願い」
そういう神様さんも時々虚勢張ることがあるじゃないか。そう笑い飛ばしそうになりながら僕は色んなことを思い出した。
誰だって、強さも弱さもある。それがいい場面で作用することもあれば、悪い時に作用することもある。ただそれだけのこと。それだけのことが、人生というランダムなゲームの上では自分の思った通りに動いてくれない。そのことを、きっと人葉さん以上に神様さんはよく知っている。だから、僕は素直に彼女の提案を受け入れることにした。
「分かった。任せて」
「ありがと。今日はちょっと眠いから、電話、この辺にしとくね」
「ごめん、眠かったのに引き留めて」
「いいのいいの。普段学校生活ある人間引き留めて長電話させてるのは私の方なんだし。それじゃ、またね。お休み」
そして、電話は切れた。
僕のしたいこと。神様さんのしたいこと。人葉さんのしたいこと。
そして、右左のしたいこと。
どれもこれも僕は何も知らなくて、どうしようも出来ない。でも、どうしようも出来ないと思っていたら、一番信頼してる人から知ることが大事だと教えられた。
そうだ、僕はまだ何も知らない。知らないから動ける。あの嫌な父に何かを言われて止まっている場合じゃない。
そのためには、僕自身の進路をきちんと決める必要がある。どこの大学に進むのか、右左のサポートを続けるのか。難しい選択だが遅くとも半年以内には決めなければならない。文句を言わせなければ、それでいいのだ。
僕がベッドから天井を見上げていると、部屋の扉が静かにノックされた。
この部屋の扉を叩けるのは一人しかいない。だがその一人が今まで僕の部屋の扉を叩いてきたことはない。僕は不思議に思いながら、扉に出た。
「あの……兄さん、夜分遅くに申し訳ございません」
そこにいたのは、済まなそうな顔をしていた右左だった。
僕は笑顔を作り、右左を見る。だが右左は俯いたまま、何か切り出す気配すら見せない。
仕方ないと思い、僕は右左に声をかけた。
「どうしたの、右左」
「あの、兄さんにお話ししようかと思ってたんですけど、電話中だったんで……」
「ああ、ごめん、色々付き合いもあるからさ。それで右左、そっちはどうしたの?」
「今日兄さんが家から帰ってきて、少し様子がおかしいなって思って……父さんに何か言われたのかなって、少し気になってたんですけど、それを言い出せなくて」
言い出せなかったのは右左のせいではない。黙って右左の追求を躱すように、風呂に逃げ部屋へ籠もった僕の責任だ。
それを右左のせいと思わせた。僕は辛くなる気持ちを抑え、右左に微笑んだ。
「なら、話、しようか」
「いいんですか?」
「本当は話はいいかなって思ってたんだけど、した方がいいかもしれないって思って」
僕は部屋に入る。右左は一礼してから、僕の部屋におずおずと足を踏み入れた。
右左は僕の部屋に足を踏み入れたことがない。初めて見る僕の部屋の光景に、ただ物珍しそうに視線をあちらこちらへ移らせていた。
「兄さんの部屋ってこうなってたんですね」
「特に面白いものもなくてごめん。趣味がないってのはこういう時辛いな」
「そんなことないです。それを言ったら私も同じだし……」
まあまあ、僕はそう言って右左をベッドに座らせ、僕自身は勉強机に並ぶ椅子に腰掛けた。
右左の表情は陰っている。久しぶりに会えるかもしれない父に、話についてくるなと言われたのだ、そりゃそんな表情にもなるだろう。
右左を呼ばなかった父の事を、僕はまだ憎んでいる。人ごとのように重要な話だと言うのなら自分から右左に切り出せばよかったのだ。そんなことも出来ずに父親面するあの人の無神経さに、僕は苛立ちを覚えた。殴りかからなかったのが奇跡と思うほどに。
僕が椅子に座り、一分、右左は俯いたまま言葉を発さなかった。
自分から切り出せる感じじゃないか。僕は静かに、今日の出来事について話し出した。
「父さんが僕を呼んだのは、来年から先、どうするかってことの話だった」
「……そうですか」
「来年は僕が右左のサポートを出来る。出来るけどそれと受験勉強をどう両立させるのか、それと来年が過ぎた後、大学はどうするのか。その話ばっかだった」
右左は目を閉じていた。そして、震える手をぎゅっと抑えると、僕に真っ直ぐ目を向け、作り笑いで声を発していた。
「兄さんには兄さんの人生があります。気にしないで、兄さんの可能性を潰さないで下さい」
それが右左の答えか。僕はそうかと思い、静かに天を仰いだ。
右左は強くなった。でもそれは比較論でしかない。本質的にはまだまだ弱い子であることは間違いない。
それを放り出して、自分の未来のためにどこかへ行く。いや、違う。僕の未来の中には、右左がしっかり組み込まれている。神様さんだって僕の人生の未来に含めたい。でも右左はそれとは違う、僕の大切な家族として、妹として組み込まなければならない少女なのだ。
だから僕は、右左を捨てて、一人どこかへ行くという選択肢を取ることは出来ない。それにこの街にいれば、神様さんにもすぐに会える。大学だって、そこそこ名の通ったところへ充分通学出来る範囲だ。
どうして最高の結果を望まなかったのか。そんなことを父から聞かされることもあるだろう。
だが僕にとって最高の結果は、右左が無事に独り立ちして、兄としての僕を必要としなくなった時なのだ。あの頃何も出来なかった僕に出来る、唯一の贖罪の機会をみすみす失うわけにはいかない。今だからこそ出来ることが、目の前に転がっている。そのチャンスを捨てろという父と、兄としての矜恃を持つ僕の争いにも見えた。
「右左、心配しなくていい。僕はいつでも、いつだって右左の味方だ。父さんや母さんがごちゃごちゃ言ってきても」
「私のせいで……ごめんなさい」
「だから謝らなくていいって。僕の一つの夢でもあるんだ。右左が幸せな人生を送る。……昔してやれなかった、大切な、大切な夢の一つだ」
僕がそう言い切ると、右左は信じられないと言った面持ちで顔を上げた。だが僕が微笑み続けているのを見ると、それが揺るがない事実だと理解したのだろう、感極まった様子で涙をぽろぽろとこぼし始めた。
「兄さん……どうして……私のことなんて……」
「前にも言っただろ。あの頃僕は右左に何もしてやれなかった。そのことがずっと後悔として残ってたし、今も残ってる。だから、右左が幸せになってくれたら、僕のその後悔もようやく晴れてくれるんだ」
僕の語る脇で、右左は涙を必死に堪えていた。
僕は右左をここまで追い詰めていた。そのことを知らずに今までに呑気に生きてきた。僕は酷い兄だったのだ。それだけが狭い空間を制する。
「この近辺で一番いい大学に行って、家から通って、右左が高校を卒業するのをちゃんと見届けたい。それじゃ駄目かな」
「そんなの……兄さんの実力で言ったら……」
「それはさっき言ったことの答えだよ。僕は右左のために頑張る。右左が幸せになれるように、それと右左が僕を必要としなくなるように」
その言葉を漏らすと、右左は少し視線を下にした。自分が兄離れする日、それが想像できないという顔だ。
ここへ来てまだ半年も経ってない。一度も喧嘩もせず、にこにことやってきた。これから先、意見の食い違いも発生するかもしれない。でも、それも右左と僕の人生なのだ。
その点において、僕と右左はまだ対等の関係に立っているとは言えない。僕は右左に大切な何かを教えるというより、教えられてばかりだ。
だから、せめて右左に何か返してから去らないと、僕の人生が捨てたものになる。僕は笑って、席を立った。
「右左、僕の方針は決まった。だから右左も元気出して学校に戻るんだ」
「……分かりました。兄さんと一緒に一年学校に通えますから、それをしっかり、自分の中で楽しめるようにまず努力します」
「あまり気負っちゃ駄目だよ。右左はそういうの、すぐに顔に出るから」
僕がからかうと、右左は苦笑しながら「はい」と答えた。やっぱり、右左はいい子だ。こんな子が学校に戻ったら、野ノ崎ではないが確かに大きな話題になってもおかしくない。
右左を幸せにしてやりたい。
でも右左と共依存になりたいという思いは、今はもうない。
僕の道に、右左はいる。でも共に歩むパートナーではない。そのことを、あの時の僕は思い知り、きっと右左も気付いていることでもあろう。
一緒に進むために、けりをつけなきゃいけなかったことだ。それでも、右左の目を僕は捉えることが出来なかった。辛い、その思いは確かにある。
僕は弱くない。そう信じることでしか進めない時もある。机の上に置いてあったシャープペンシルを掴み、とんとんと机の上を叩いてみた。人の目には捉えられない傷が、きっと机には付いたのだろう。誰も気にすることのない、ほんのわずかなミクロの世界の傷。
いつか僕も、どこかの駅で降りて、静かな森を探しながら生活するのかもしれない。
暖房の効いた部屋は、外の寒さを伝えてはくれなかった。




