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2/12 忘れられない憎しみと後悔の味

 その日、外は小雨が降っていた。

 僕は食卓でシチューを作り終えた。右左の好きなビーフシチューである。

「あ……兄さん、もう夕食の準備済ませてるんですか」

 二階から降りてきた右左が僕に声をかける。僕は苦笑しながら、ああ、と答えた。

「この間話したけど、父さんと会うことになってさ。あの人、右左に引け目あるのか、右左連れてくるななんて言うんだから仕方ないよな」

 僕が笑っても、右左の顔は優れない。

 そりゃそうだろう。親から今日は連れてくるななんて言われて、そうですね、なんてことは右左みたいないい子でも到底言えることじゃない。

「右左、お土産何か買ってこようか?」

「いえ、いいです。……その、兄さんは大丈夫ですか?」

「僕の方なら大丈夫だよ。あの嫌な父親の話なんて適当に聞き流せばいいだけだし」

 僕の答えに、右左はますます心配そうな眼差しを見せる。でもこれが、今の僕に出来る精一杯だった。

 右左と喋っていたいのはやまやまだが、このままだと遅刻する。いくら嫌いな父であってもこちらの非を見せるのは悪手だ。

「右左、そろそろ行く。シチュー何杯でも食べてくれていいから」

「私、そんなに食べられませんよ」

 僕の冗談に右左がくすりと笑った。そう、右左にはこういう表情の方が似合う。

 僕は椅子に掛けてあったジャケットを羽織って、右左に行ってくると告げ、玄関を出た。

 傘を差す。水の跳ねる音が、無性に鬱陶しい。

 駅まで行って、切符を買って電車に乗る。普段徒歩で学校へ行っているせいか、電車を利用する機会が少ないためこの時間の電車に乗るのは不思議な気持ちがした。

 反対側の方面へ行けば神様さんのいるお店に行けるのにな。そんなことを考えても仕方ないか。父が右左のことでふざけたことを言ったら、どうしてやろうか。僕の中に、どす黒い悪意が渦巻いていた。

 乗っていた列車が止まる。開いた扉から降りて、あまり知らない駅の中を進んでいく。

 商業都市なのだろう、駅も立派で、駅から見える景色も大きなビル群に囲まれて、人の住む場所ではなく人が働く場所なのだと教えてくる。

 さて、駅を出たが、肝心のあいつはいるか――いた。僕がまだ来ないと思っているのだろう、あくびをしながら壁にもたれかかっていた。

「……父さん」

 僕が声をかけると、あくびをしていた中年の男がはっとした顔で振り向いた。

「ああ、一宏待ってたぞ。さあ、何か食いたいものはないか? 何でもいいぞ」

「別に何でもいいですよ。何ならハンバーガーでもいいです」

「おいおい、せっかくの機会を悲しい言葉で潰すのはやめような。うまい蕎麦の店やらカレーの店があるらしいんだが、まあじっくり話しなきゃいけないからな、居酒屋へ行くか」

 酒が飲めない人間を連れて酒を振る舞う店を選ぶのか。さすがここら辺の気の利かない部分は相変わらずだ。

 それでも僕はあまり言葉を交したくなかったので、はいと一言答えて父のあとをゆっくり距離を取るように歩いた。

 入ったのは、掘りごたつの個室のあるチェーンの居酒屋。父と二人で生活していた頃、このチェーン店には何度か連れて行かれたことがあるので、味の面の心配はない。ただ個室のある店を選んだということに、嫌な予感を覚えてならなかった。

『いらっしゃいませー!』

 店員の威勢のいい声が耳に響く。店はまだそれほど混んでいないのか、すぐに席に通された。

「ここらだと、ちょっと時間を間違えたら会社帰りの客で溢れるからな。タイミングがよかったな」

 出来るなら人がいっぱいで今日の話もなかったことになればよかったのに、と僕は悪態を吐きそうになった。

 席に通されると、父はメニューを見開き、適当なものと酒を注文していく。僕に何かないかと聞いてくるが、僕はいいですとはっきり断った。

「しばらくぶりだな、一宏」

「そうでもないですよ。半年経ってないくらいですから」

「その半年しない間に右左が学校に戻るって言ったんだ、お前はさすがだよ」

 父が妙に僕を持ち上げる。それが気持ち悪くて、僕を黙り込ませていた。父は運ばれてきた酒とお通しに手を伸ばしながら、僕の目を何度も見てきた。

「一宏、今日なんで右左を呼ばなかったか分かるか」

「いえ」

「だろうな。ま、別に右左がいてもいい話だとは思ったんだが、あえてな」

 父は勿体ぶって話す。扉が開き、でかい卵焼きがテーブルに置かれた。父はそれに箸を伸ばすと、またゆっくりと口を開いた。

「父さん、また出世しちまってなあ。今度はどこに行くのか全然分からない」

「なら僕はあの家にいていいということになりますね」

「まあそうだな、母さんもあそこに帰るのにはまだまだ時間がないみたいだしな」

 何が家族だ。正月も盆暮れも顔を突き合わせない、子供達に全てを任せた家のどこに家族の要素がある。好き勝手に言いやがって。

 僕は言いたい言葉を飲み込んで、父の次を待った。

「一宏、お前、進路どう決めてる」

「……まだ、具体的には詰めてません」

「だろうな。成績表が学校から送られてきてるんだが、お前、かなり成績いいじゃないか」

「前の学校より問題が易しいからだと思いますよ」

「それでもあの成績は難しいんじゃないのか。……大学、どこへ進むんだ」

 父はそわそわした様子で僕にそればかりを訊ねてくる。鬱陶しいな、そう思いながら僕は父の目を見つめず静かに答えた。

「まだ何も決めてません。専門学校に行くのも一つの手だと思いますし、こんな時代ですから就職するのもありだと思っています」

「……本気か、一宏」

「半分冗談で、半分本気です。今の僕は、右左を守らなきゃいけませんから」

 僕の目は下を向いていた。父と目を合わせられない。反抗的な態度を取っても、父の強権から逃げることは出来なかった。

 父はしばらく黙った後、僕にとつとつと語り出した。

「一宏、お前は馬鹿じゃないから大学へ行くメリットデメリットに関して今更言う必要もないだろう。ただ俺が言いたいのは、お前がその道を選んで、自己犠牲を装うことに何のかっこよさがあるということか、だ」

「かっこよさ……ですか」

「ああ、最高に格好悪いかっこつけだな。右左を守る、右左のいる街がいい、そう言って自分の人生を投げ出す自己犠牲に、お前は陶酔してるだけだ」

 悔しいが、父の言っていることは僕の反抗を潰すには充分の真っ当な反論だった。

 僕は目を閉じた。手元にある水を飲みたくなるが、それをぐっとこらえて、ゆっくりと目を開いて父の目を見た。

 大きく開いて、感情がどこにあるのか分からない、力強い僕のよく見知った父の目だ。

「何を言われようと、僕は右左を支えます」

「右左は来年一年だぞ。お前と一緒に学校通ったとしても一年で終わりだ」

「それも理解しています。でも、右左を今見捨てたら、右左は元に戻るかもしれない。僕はあの時、何にもしてやれなかった。別れるって時に泣きじゃくってた右左の手を引かずにそのまま立ち去った。あれがなかったら、右左は辛い目に合わなくて済んだかもしれないんです」

 僕は「あの日」のことを思い出していた。父と母が別れ、僕が父の側に、右左が母の側についてそれぞれ新しい生活を始めるとなった日のことを。

 右左は家族がばらばらになるのを嫌だと泣きじゃくっていた。僕はそんな右左の顔を見ず、仕方ないという気持ちだけで右左の目も見ず、父と共に家を去った。

 あの時の右左の「待って」「行かないで」という声は、今でも眠りに落ちようという時に何度もこだまする時がある。僕にとってそれほど右左を見捨てたことは罪悪だった。

「一宏、お前いつまでその過去を引きずるんだ」

「一生、引きずるつもりです。もしくは、右左が幸せになる日まで」

「お前、そう言うけど、お前は右左以外、たとえば俺や母さんがどう思ってるかは考えたことがあるのか」

「……正直、ないです。むしろあなた方に迷惑をかける方法がないか考えてるくらいです」

「嫌われてるなあ」

 と、父はぼやきながら、次に運び込まれたサラダや焼き魚に手を付ける。そりゃ嫌いか嫌いでないかで言えば、圧倒的に嫌いが先に立つ。

 それでも、今のこの話において、僕の好き嫌いは本来捨てるべきなのだ。

「なあ、一宏」

 魚を口にした父が、おもむろに訊ねてきた。

「何ですか」

「お前から見て、そんなにまだ右左は頼りないのか。まあ一年学校休んでた奴なんて、頼りないし心配になるのは当然だと思うけどな」

 どこか他人事に聞こえるその言い方に、僕は少しいらっときた。そもそも、あんた達が無責任に離婚しなきゃ、右左は幸せに過ごせていたはずなのだ。ここにアイスピックでもあれば、怒り任せに父の胸を刺していただろう。なくて良かった。僕は自分の悪運の良さに若干感謝していた。

「いいか、右左は右左だ。お前はお前。お前の幸福に右左は含まれるのか? 含まれていたとして、お前が犠牲になった幸福を右左が喜ぶのか」

 先日、人葉さんに似たようなことを言われた時、そんな嫌な思いはしなかった。それなのに今回は異様なほど鬱陶しさが過ぎる。

 気付けば料理が次々並べ立てられているのに、僕はほとんど手を付けないままだった。

「一宏、俺の話が嫌なんだろうが、ちゃんと食えよ」

「……はい」

「いいか、一宏、お前が右左の面倒を見られる間はいい。ただその内、右左の面倒を見られなくなる日が来る。その時嘆いても、過ぎた時間は返ってこない。だから、大学進学という時期を境に、結論を出す必要があるんだ、分かるな」

 分かるなと言うが、それあんたの強引な理論じゃないか、僕はそう言いかけて黙った。言ったところでこの人には僕の持つ黒く濁った汚れた炎の熱は伝わらない。

 誰のせいで右左が苦しんだのか。右左を助ける気が少しでもあったのか。何もなかったくせに偉そうなことを言う。本当に右左を大切に思っていたなら、中学の時点で何とかしてやっただろう。

 だから僕は、父も母も嫌いなのだ。無責任で、自分達の人生ばかりを謳歌しようとする、その大人としての自覚の抜けた態度が、見たくもないほど嫌いだ。

「父さん」

「何だ」

「そっちの言い分も確かに分かります。僕の人生は、僕が責任を持って歩むべきだというのも。でも、右左を今支えられるのは、僕以外いません」

 僕の静かな言葉に、父は酒の入った猪口を傾けて首をひねった。

「一年後は分からないぞ。右左も一年もすれば少しは社会に戻れるだろう」

「そうなればいいんですけどね。それと別に僕に、右左を大成させる以外大きな目標とかありません」

「右左よりも成績がいいのに、それを捨てる気か」

「責任を果たすために浪人して志望校のランクを上げますよ。学費に関して文句も言われたくないですから、バイトしながらでもいいでしょうか」

「……それくらい出してやる。しかしなんだ、お前もやっぱり、母さんの子だな。変なところで強情なところがよく似てる」

 父は呆れたような声を上げた。もっともそれは、僕からしても仕方ないと思えた。こんな偏屈な意見を言われて、真っ直ぐな子だな、なんて言える親はそういないだろう。

 それでも僕は、右左を曲げた父や母を許す気にはなれなかった。その日はいつ来るのか、想像もつかない。もしかしたら、父や母が亡くなっても、その日は訪れないかもしれない。

 こんな話をするためにここへ来たわけじゃないのに。僕の中に、一抹の寂しさが過ぎった。

「一宏、ほとんど食べてないぞ」

「小食なんで」

「まあいい。ただお前がふらふらして心配させるようなことがあれば、右左も同じようにふらつく。そこだけはよく覚えておけ」

 父は最後に、何か念を押すような言葉を告げて、無言のまま食事にありつきだした。

 僕が不安を覚えさせるような生き方をすれば、右左もまた、心配する。その理屈は分かる。その理屈は分かるのだが、一番それを言われたくない人に何の面下げて言うんだと感じてしまった。

 考えるのをやめよう。僕は無言で箸を伸ばした。

 結局それから、父と八時頃まで食事を取ったが、その間に学校に関すること、私生活に関することなど、主要な話題が漏れることはなかった。

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