再会した友人達
転入の挨拶という通過儀礼を終え、僕は学園の購買に向かい、これから戦場を生き抜くための装備一式を調えにいった。
広大な敷地に、複雑な建物の配置。分かりやすい四角やH形の校舎ならいいのに、色々分断されていてややこしい。何度も無駄足を踏んでは元の位置に戻る。諦めかけたその時、何やら業者らしき段ボール箱を抱えた人物が別棟に入っていく姿が見えた。これはもしや。その推測は見事に当たった。こじんまりとした窓口の奥に並べられている教科書や筆記具の数々。長き大冒険の果てに、幻の購買部を発見することに僕は成功したのだ。
僕が行くと、若い頃はなかなか綺麗だったんだろうというおばさんが愛想良く声をかけてくれた。何でも僕の制服が違うので、すぐに予約を入れている転入生だと分かったらしい。
ただし、商品はまだ届いていないので、また来てね。
何となく予想はついていたが、この展開はちょっとテンションが下がる。図書館で本を読む気が違う方向へ行き、僕は敷地内を散歩しだした。
グラウンドには砂。建物はシンプルなコンクリート。それ以外の広い場に緑。
右左は僕の作った夕食を食べてくれた。空になった皿が流しに置いてあった、それが根拠だ。一応疑ってかかり、ゴミ箱も見たが、捨てている様子はなかった。
木陰の石段に座り、何ともない思考を延々と続ける。気付いた時には昼を告げる一際長いチャイムが敷地中に広がった。学園指定のものではない空の手提げ鞄を手に、僕は少しずつ黄色の混じりだした緑を抜け、コンクリートの世界に戻った。
職員室で待てとのことだが、一体誰がいるのだろうか。この街で生まれ育ったので、幼い頃からこの学園のことは知っている。だが当時の僕が、誰がここに進学しそうだとか分かるわけもなく、また過去の人々の名前もぱっと思い出せない。
それでも向こうは覚えてくれている。
確かに、ありがたいことである。
職員室前で立つ僕を、教師や学生達が次々と見てくる。確かにこの格好は統一された世界じゃ珍しいだろうが、何もそこまで目を見張るほど面白いものでもないだろう。
半ば僕が当惑し出すと、階段口から現れた男女が僕を見てひそひそと話すのが見えた。彼らが僕の待ち人か、それとも野次馬か。
野次馬だな。さっきから待ち人に賭けて五連敗だから今度は野次馬に変えよう。
そういう風に思った時ほど外れるもので、現れた二人は僕に大きく手を振ってきた。
「お前、一宏だよなあ!」
体格のしっかりした、どこか軽い感じの男が僕にそう訊ねる。否定する理由もないので素直に頷いた。
「う、うわ……カズくん本当にこの街に戻ってきたんだね」
「あの……僕は確かに塚田一宏だけど、二人は?」
僕がそう言うと、男があからさまに落胆の色を見せ、大仰に手を上げた。
「生涯無二の親友を、お前は忘れたって言うのか? おいおいおい、俺泣くよ?」
「いや、小学生の頃の友人関係とかばたばたしてて覚えてない。お前誰だ」
「カズくん、こっちは野ノ崎くん。で、私が三重美咲。覚えてる?」
小柄な黒髪少女の言葉で、僕の中にすとんと理解の一語が落ちてきた。
「あーミミといっつも泣いてた野ノ崎か。そうそう、泣いてた。うん思い出した、泣くのか?」
「確かに今泣くって言ったよ! でもそれは昔のことだろうが! つーか昔のこと覚えてないってお前今その口で言っただろ! なんでそういうことだけ覚えてるんだよ!」
かつての遊び仲間、野ノ崎であろう奴が僕に怒鳴り散らす。とはいえ、何かにつけて泣いていた野ノ崎が、一般的な軽いノリの男に成長していたことは驚嘆に値する。当時の僕の印象から言えば、木星から輪がなくなるのと同じくらいあり得ない話なのだ。
もしかして、木星の輪も消えるのかな。絶対はあり得ない、僕は成長した野ノ崎を見て何故か強く納得していた。
「はぁ、カズくんが私のこと覚えてくれてて嬉しいよ」
「まあ……なんだろうな。えっと、わざわざ会いたいって言ってくれてありがとう」
真顔で軽く頭を下げると、野ノ崎が僕の肩に腕を回し、ぽんと叩いて寄せてきた。
「俺は変わったけど、お前変わってねえな」
「悪かったな」
「悪くねえよ、最高だよ」
野ノ崎の昔とは違う言い回しに、僕の顔から苦笑がこぼれた。昔と違う。でもどことなく昔と同じものの匂いがする。それをにこにこ見つめるミミも、違う顔と体つきになったのに昔と同一人物であると確かに認識できる。
野ノ崎は僕から手を離し、壁にもたれた。喜びのあとの喪失を思い出しているのか、伏し目がちになっていた。
「あの時、本当に驚いたんだぜ」
「こっちも急だったんだ。うちの親、いきなり物事決めるくせあるから」
「分かってるよ。でも別れを言えない、連絡先知らないってのは正直辛かった」
「あ、あのね、カズくん、怒ってるわけじゃないんだよ。出来たらもう一度みんなで過ごす時間を取り戻したいねとか最近野ノ崎くんと言ってたし」
僕は口をつぐんだ。あの頃、そこまで考えることが出来なかった。出来る余裕を取り戻したころには、僕は一つのこと以外、ここに置いてきたものをすっかり忘れていた。
ふと冷静に立ち返ると、この街についてから丸一日、懐かしさばかりに身をやつし、新しさを求めていない。もう一度という言葉と、新しいという言葉の違いは難しかった。
「お前、あのリフォームした家に住むの?」
「……知ってんのか」
「ああ……うん、まあな」
野ノ崎の歯切れが悪くなる。別にいいのにと、僕は一笑に付した。
「親がまたよりもどしそうで。でも親が外に出てるから、妹と二人で住むことになったんだ」
「あの……カズくん、妹さん……」
距離感を探るように、ミミが声を絞る。それも構わないと、僕はあっさりと返答した。
「個性のある生き方でいいと思うよ」
「……なんだ一宏、あのえっと……何だっけ、変わった名前の妹のこと、知ってんのか」
「そもそもここに帰るきっかけになったのがそれだし。あと、右も左も受け止めて真ん中を歩くって意味で右左って名前だ。変な名前とか言うなよ、殺すぞ」
さばさば、笑顔、最後に真顔。すると野ノ崎は一瞬びくりと顔をこわばらせた。その表情はよく泣いていたあの頃の野ノ崎そのものだ。ああ、野ノ崎は消えたわけではなかった。仮面を付けて生きているだけで本質は変わっていない。僕は妙な安堵を覚え、とてつもなく穏やかな気持ちで天を仰ぎたくなった。
「お前、そういう顔マジかどうか分かんねえからやめろよ、ほんと」
「右左についてどうこう言われるのはちょっとな、悪い」
「いや、こっちも言い過ぎた。でももったいないよな」
「何が?」
「この学校トップクラスの成績で入学してルックスもむちゃくちゃ上。なのに二ヶ月で休学、そんで引きこもり。お前、あの子のそういうの治すために来たんだろ?」
僕は野ノ先の言葉に思わず目を丸くした。
なるほど、世間ではそういう見方をされていたのか。もしかすると父や母も僕に対し、右左を元気に登校する人間に変えたいという意思を持って送り込んだのかもしれない。
「引きこもりじゃないけどなあ」
「いや、夕食食うために駅前ぶらついてるの知ってるよ。最初は噂になってたし」
「今は?」
「えーとね、同じ学年だった子も顔忘れちゃったのかな、気にされてない……っていうか」
横から補足を入れてくれたミミのトーンが下がる。
僕は大きくため息をつき、二人に小首を傾げてみせた。
「そういうの、気にするほどのことか?」
「お前は気にしないのかよ」
「別に。右左の人生で一番大事なのは幸せかどうか、それだけだ」
「引きこもりは結構不幸だと思うけどなあ、俺」
「それはあると思う。でも僕はとりあえず右左が今どう思ってるかってこと、知らなきゃいけないから。要するにそれ以前の問題」
僕の言葉が極論に聞こえたのか、野ノ崎は軽く頭を抱えていた。確かに一般的な考えではおかしいと言われるかもしれない。でも誰かの人生を真似させることが右左にとって幸せなことだとどうしても思えなかった。
僕はあの日を忘れない。理解できない右左のきょとんとした顔も、黙って去った自分も。
「優しいお兄ちゃんのところ、全然変わってないね」
「多分、昔より過保護になってる」
「よく一緒に公園行ってたもんね。……カズくんがいなくなってからああいう風になっちゃうの、私、ちょっと理解できる」
ミミは右左に同情的だった。親から聞いている話で僕も右左の今に至るまでは断片的に知っている。ただし右左が閉鎖的になってからのことで、途中まではすっぽり抜け落ちている。
何となく悲観的な方向になってきた。こういう空気はちょっとまずいなと思っていると、浮いた調子の野ノ崎が僕の腕をつついてきた。
「過保護が行きすぎて他の男に取られたら嫌だとか言い出すなよ」
「あーそれは言うと思う」
「マジかっ! じゃあ風呂に一緒に入ろうとか……」
「いいな、それ」
「おいおいおいおいおい! 妹だろ! そういうのを行きすぎるって言うんだろっ!」
野ノ崎は僕の冗談が分からなかったらしく、目をかっと開き僕の肩を掴んできた。どうやら僕には人を笑わせるセンスがないらしい。ただ野ノ崎の場を転換する能力、いわば「空気を読む」力には素直に感心した。
昔馴染みとの再会が、妹の人生への同情では空しすぎる。
よかった、そう思っているとミミが一歩前に出て微笑んだ。
「お帰り、カズくん」
お帰り。この町で初めてその言葉を告げられた。右左が何日目に言うか期待していたのだが思わぬ所に伏兵がいるものだ。
「一宏、制服出来たら、遊びに行こうぜ」
「おい……」
「じゃ、またな」
「カズくん、私もお昼食べに戻るね。今度一緒にお昼食べながら話したいから、私も約束」
ミミは僕の小指に自分の小指を絡ませ、指切りをした。そして満足したように頷き、階段の向こうへ消えてしまった。
二人が消え、僕はふと手を見つめた。感傷にひたるつもりはなかったのに、どうも昔のことばかり揺り戻されてくる。
さすがにあの二人と再会するのは予想できなかった。
野ノ崎のあの調子の良さは見習った方が多分いい。僕はこくりとうなずき、用事のなくなった校舎を後にした。