2/8 幸せなハプニング
「よし」
僕は自分の服装を鏡越しにもう一度見直した。普段あまり服装に頓着する方ではないのだが今日は気にしようと昨日から気持ちを強く込めていた。
今日は久しぶりに神様さんのバイト先であるメイドカフェに行ける日である。それもこれも学校がテストで早く終わってくれたおかげだ。
今日はのんびり出来るぞ、と僕の顔がどんどん緩んでくる。いかん、これじゃ久しぶりの気持ち悪い奴になってしまうではないか。僕は深呼吸して、己のだらしなさを戒めた。
「あれ、兄さん、出かけるんですか?」
玄関の扉を開けようとした時、部屋から出てきた右左が二階の階段近くから声をかけてきた。
右左の機嫌を損ねないように、しかしうまくことを遂行する必要がある。僕はあははと笑いながら、扉のノブに指を掛けた。
「明日もテストですよね、大丈夫ですか?」
「いや、そんなに遅くなるつもりはないよ。ちゃんと夕食も作って、勉強もする。まあ息抜きってとこかな」
僕の苦し紛れの返答に右左は疑いの眼差しを当然のごとく見せてくる。これは僕と右左の関係にひびが入る決定的な瞬間かもしれない。
が、やはり右左はいい子であった。ふうと息をこぼすと、僕に優しく微笑み、柔らかな声色で僕に一声掛けてきた。
「兄さんにはいつも食事や家事でサポートしてもらってますから。たまには思い切り羽を伸ばしてきて下さい」
「右左……ありがとう」
「感謝するのは私の方です。それじゃ、私、部屋に戻りますね」
右左はそれだけ言うと自室へと戻っていった。
危機は去った。ため息をこぼしながら僕は家を出た。
時間は十二時を回っていない。ここから電車に乗って、店のある駅に着くと開いているか開いていないか辺りの時間になる。
差し入れとかいるだろうか。いや、何も持っていかない方が、客としては正しい在り方だ。店で食事をしよう。僕はそう決めてやってくる列車に飛び乗った。
各停でわずか五駅ほどの距離。それが妙に長く感じる。店に行くのはこれで二回目だが、大丈夫だろうか。
不安を抱えながら列車の外から流れるビル群を見つめる。流れる景色が止まった。気付かない間に、僕は目的の駅に到着していた。
駅前にある大型の商業ビル。その脇を抜け、雑居ビルが立ち並ぶ道を歩いて行く。サラリーマンだろうか、ワイシャツをきっちりと着こなした人が缶コーヒーを飲んで休憩している。
そんな中を通り抜け、僕は先日と同じ店に明るい時間の内に訪れる。それはちょっとした異世界のようで、不思議な高揚感を与えてくれるものでもあった。
……着いた。
そして僕はため息をこぼした。シャッターが閉まっていた。スマートフォンを取り出し、店のウェブサイトを見る。今日は定休日じゃないはずなんだが。そして開店時間に差し掛かっている。
「あれ? 先日お帰りになって下さったご主人様ですよね?」
きょとんと。そんな表現が似合う声色が僕に投げかけられた。くるりと振り向くと、メイド服に身を包んだ女性が、僕を見ていた。
ああ、覚えがある。神様さんの代わりに僕に接客してくれたもう一人のメイドさんだ。
僕は頭を下げ、彼女の様子を窺った。
「今日執事長が体調不良で、ここへ来られないんです。それで私が代わりに準備をしているんですけど、開店時間をずらすしかなくて……」
「あの、双葉さんもう来てますか」
「双葉ちゃんならもう来て、中で掃除してますよ。お知り合いなんですか?」
「あ……ええ、そうです。一応言っておきますと、ナンパ目的の人達と違って、ちゃんとメールアドレスと電話番号も知ってますから」
変な付き纏う客と誤解されたくない。そう思って力説すると、彼女は途端にくすりと笑い出した。
「ご主人様、せっかくですから中で掃除や開店準備を手伝って頂けませんか?」
「え、え?」
「今日は執事長がいないので料理は他のご主人様達には調理師免許の都合上出せないんですけど、まかないということなら双葉ちゃんに作ってもらって、食べていただけるかと思います」
神様さんの料理。一体何を作るのだろうか。そもそも彼女は料理が出来るのか。謎は深まるが、興味は引かれる。
十秒ほど考え込んだ後、僕は彼女の目を見て、こくりと頷いた。
「そうですか、ありがとうございます。それでは扉から入って頂いて、あとの指示は双葉ちゃんに聴いて下さい」
と、彼女はシャッターの降りた店先で、掃除や看板立てに勤しみだした。
本当に店に入っていいのだろうか。少し心配になるが、僕は意を決して店に入った。
「きみかさん、どうかし――えっ?」
「……掃除の助っ人です。許可はもらってます」
照れくさくなり、変な挨拶になる。その事実を一番理解出来ていないのが、話をまったく聞いていないメイド服姿のもう一人の店員、つまり神様さんだった。
彼女は手にしていた雑巾を握りしめ、僕の方を見つめる。これは全くもって意味が分からないという表情だ。そもそも、彼女に今日店に来ると言っていない。テスト中の思いつきでここへ来たということ自体、卑怯そのものだ。
「あの……来る前にはちゃんと言ってくれなきゃ。今日はイレギュラーで店がまだ開いてないけど、普段なら開いてるから、ね?」
「いや、何となく来たくなったんだけど、そしたら店の開店時間が遅くなるって話されて。それでどうしようか悩んでたら掃除手伝ってほしいって言われたんだ。その対価が神様さんの作るまかないだって言われて、昼も食べてないからまあいいかな……というところなんだけど、どうだろう」
僕のたどたどしい言葉に、彼女は難しい顔をしていた。
だが今のこの店の人手が足りない状況はいかんともしがたい。神様さんは納得したように、僕にうん、と返事をした。
「まかない作ってあげるけど、一生懸命やってもらうからね」
「分かった。何すればいい?」
「テーブルを布巾で拭くのと床をモップで磨くの、あとは窓拭きとかかな。それ以外のことが出てきたらまたしてもらう。私はコーヒー豆挽いたりとかお店に出すものの方するから」
「了解、頑張ってやる」
そして僕は、彼女から布巾を受け取って、早速窓拭きに取りかかった。
神様さんが書いたのだろうか、店の中にある掲示板代わりの看板に可愛らしい字で「本日執事長体調不良のため、食事が出せません! ごめんなさい!」と書かれていた。
だが僕はこの状況で、少し頑張れば食事にありつける。しかも神様さんが作ってくれたものだ。この千載一遇のチャンスに、頑張らない奴はいないだろう。僕は窓を磨きながら、次に行うモップ掛けのことに意識を移していた。
窓拭きが終わり、モップ掛けに移行する。カウンターで焙煎されているコーヒーの香ばしい匂いがふわりと店を包んだ。
意外と店長がいなくてもこの店回るのかな? 僕が疑問を浮かべている間も、神様さんはロースターに目をやっていた。そう言えばここのコーヒーサイフォン使ってるんだったか。美味しいんだけど結構面倒なんだよな、あれ。そして僕はコーヒー派ではない悲しさがある。
モップ掛けを一通り終わらせ、テーブルを布巾で拭く作業に入ろうとした時、シャッターで半分隠されている店の扉が開いた。もう一人のメイドさんであるきみかさんが外から戻ってきた。
「双葉ちゃんお疲れー」
「あ、きみかさん、お疲れ様です」
「開店時間三時にしておいたよ。さすがにその時間帯なら何とかなるでしょ」
彼女のその言葉に神様さんは気まずそうな表情を覗かせた。
「あの、私五時で上がりですけど……きみかさん大丈夫ですか?」
「出すものは紅茶、ハーブティー、ホットケーキ、コーヒーくらいだから私一人でも何とかなるって。それより、そこのご主人様に労働の対価として見合うだけのまかない差し出してあげてね」
僕もここの手伝い要員として認められたのか、少しだけ彼女の言葉遣いがフランクになった。
「分かりました。ねえ、オムライスでいい?」
うわっ。思わずそんな言葉が漏れそうになった。オムライスと言えばメイドカフェの定番メニューではないか。もうちょっとひねりのあるものでも出してくれればいいのに。
とはいえ神様さんに作れるものがそれだというのなら仕方ない。僕は黙って頷いた。
「OK、ぱっと作っちゃうね」
と、料理を開始した途端、彼女の顔が明るくなった。
テーブルを拭きながら、彼女の料理の様子を観察する。卵を軽く手に取り片手で簡単に割る。緊急用に用意しているのだろう、保存の利くパックご飯を一パック開けて電子レンジで温めている間にも、彼女のフライパンを前にしたてきぱきとした動きは衰えることがない。
熱された鉄板の上に乗る卵へ、ご飯を放り込んでケチャップを絡める。その腕前は「もしかしたらそれしか作れないのではないか」という疑惑を一蹴するに充分だった。
――間違いなく、僕よりも料理がうまい。
何だろうか、彼女に今まで一度も嫉妬したことがないのに、たった一つそれだけで何故か悔しい思いが漂ってくる。というより、彼女を支えられる人間になりたいと思っているのに、それは必要ないよと言われているようで、そこが悔しさの元なのだと感じながら、最後のテーブルを拭き終わった。
神様さんはにこにこしながら掃除を終えた僕の元へ特製オムライスを持ってくる。手元にはケチャップのチューブがある。
「ケチャップは好きな量かけてね」
「あ……うん」
「どうしたの? 元気ないけど」
「いや、大丈夫」
そう言えば、メイドカフェでお馴染みのケチャップをかけて魔法のなんたらかんたら、あれをやるのかどうか、僕は知らない。そのことに神様さんも気付いたのか、笑いながらケチャップのチューブをぽんと僕の目の前に置いた。
「この店は過剰なサービスはしません」
「……それって、普通の喫茶店じゃない?」
「うーん……まあ一応メイドカフェだよ、ここは。それより冷めない内に食べてよ」
彼女に急かされ、僕は出来たてのオムライスにスプーンを差し込む。そのまますくい上げ一口、オムライスを舌に乗せた。
「……これは美味しい!」
ふわっとした卵が、味の付いたご飯を絶妙な具合で包んでこれ以上ない舌触りを与えてくる。味の方も、即興で作ったとは思えないほど酸味と甘味のバランスがよく、これはオムライス専門店に負けない味だと僕をうならせた。この味を店で出さないのは惜しいことだが、彼女のオムライスを独占しているという優越感が、僕を更に笑顔にしていた。
「美味しいって言ってくれて良かったあ。あのね、家でも結構料理するんだ。やっぱり何かやってないと暇っていうか。少しくらい役に立つようなことがないと困るかなって思って」
……あれ? 僕は何をしてたんだろう。一瞬、自分の中の時間が止まっていた。頭を整理して何をしていたか紐解く。そうだ、彼女のはにかむ笑顔に暫時見とれていたのだ。
神様さんのお姉さんも春日第一に通うくらい凄い人だけど、この人はこの人でやっぱり凄い人なのではないだろうか。そう考えると自分の凡人具合が嫌になってくる。
複雑な気持ちに陥りながら、僕は極上のオムライスをどんどん食していく。自分で言うのも何だが、料理を含めた家事は割と得意だという自負がある。その一角を崩されたことで、神様さんを見る目がまた変わったのも事実だ。
「ねえ、何の料理が得意なの?」
「得意な料理かあ……何だろう。レシピさえ渡してもらえたら大抵のものは作れるよ」
「……料理専門学校行ってたとか?」
「ないない。お母さんの側で料理作り見てたら出来るようになっただけ。お姉ちゃんはそういう時勉強とかしてたから、料理は得意じゃないけどね」
予想通り、人葉さんは料理が不得手らしい。
活発で、頭がいいけどそれをひけらかすこともない、不得手なことの多い人葉さん。
のんびりしていて、色んなことに気が回るけど、余計なことは絶対にしない神様さん。
正反対の性格に見える二人が姉妹なのに、僕は自然と「そうだろうな」と思えるようになっていた。
ぼんやり考えながら、オムライスを崩していく。すると、僕達を遠目に眺めていたきみかさんが神様さんに声をかけた。
「双葉ちゃん、私、奥の方の掃除してくるから、ご主人様のお相手頼むね」
「え、えっ? ちょ、ちょっと待って下さい、私が――」
「いいのいいの。たまにはしっかり話でもして。それじゃご主人様、しばらくご歓談を」
彼女はどこか含み笑いをするような顔で、その場から立ち去った。一方、残された僕と神様さんは、急に言葉を失ってしまった。
困った僕は、急場凌ぎの言葉を一生懸命手探りでたぐり寄せ、その割に小さな声でぽそりと呟いた。
「……まあ何だろう、久しぶりと言えば久しぶり」
「……そうだね。毎日メールしてるけど、こうして面と向かって会うと、何かイメージががらっと変わる感じはあるよね」
「前に来た時はじっくり見られなかったけど、こうして見ると本当に普段の感じと違うんだなって思う」
僕が真面目にとつとつと語ると、彼女はそれがおかしかったのか、口元を緩めて頬杖を突いた。
「オムライス、食べさせてあげようか?」
「い、いや……それはちょっと……」
「冗談。そういうの、喫茶店でやったら法律に引っかかるんだって。執事長の厳格な教え」
彼女はまたおかしげに口を緩める。それは人葉さんの僕をからかって遊んでいる様子とは違った。自分の中にある僕をくすぐって、それを笑わせているような、そんなイメージだ。
「執事長って結構若い人だけど……何してた人なんだろう」
「あの人の見た目の若さに騙されたら駄目だよ。あの人、もう五十越えてるんだから」
「……嘘。三十半ばかと思ってたのに」
「サラリーマンやって、喫茶店の経営からメイドカフェやったのが最初。その次にサラリーマン時代の関係で依頼が来て町おこしにやったんだって。それが終わったから今度はこの街でメイドカフェのやり直し。変わった経歴の人だなって私も思うよ」
僕はへえ、と驚きのため息をこぼした。すると不思議なことに、全然違うことが頭をもたげてくるもので、僕はテーブル越しに正面に座る神様さんにふと質問をしていた。
「バイトの面接とか、どうだったの?」
「働ける時間と働きたいかっていうことを聞かれたくらいかな。履歴書見て色々大変そうだねとは言われたけど」
「どこでこの店知ったの?」
「ハンバーガー屋さんとかも候補にあったんだけどね。家のパソコンで調べてたらこの店を見つけて、近いし受けてみようかなって。……ちょうど色々あったし」
彼女の顔がふいに寂しくなる。そうだ、あの時委員長ともめて、彼女の明るさに影が差したあの頃だ。
僕はあの頃、幻想の中にいる彼女を追い求めた。だが現実は、本物の彼女を強さに向かって走らせていた。幻想の中にいる彼女よりも、ずっと素敵なことだったのに、僕はそれを知らなかった。
今となれば、僕の愚かな振る舞いで色んな人を傷つけたのだと分かる。だから、神様さんだけは、守り抜きたい。この自分の、大きくない手で。
「でも今は楽しいよ。時々イベントとかもあったりするしね」
「イベント……?」
「ウィッグ付けていつもと違う服でイメージ変えた接客したり。ご主人様達に楽しんでいただけるように色々努力してるの」
彼女の笑顔を見ると、ほっとする。労働は苦だ。だがその労働を楽しいと思えるのだから、それは間違いなく幸せなんだろう。
それでも、この店で目立つ彼女にアプローチをかける男がいないか、僕はそっちの方ばかり心配していた。
「誰かに声かけられてないの?」
「この間もそれ聞いてたよね……。声かけられることはかけられるよ」
「ん……」
「でも、それに応えてたら、今こうして二人で話すなんてないとか思わない?」
彼女の言葉は説得力があった。そりゃ確かに、他に恋人作ってたら、こんな行為裏切り以外の何ものでもない。まあ、一応長い付き合いの僕だから、こういう接客も許されるというだけではあるのだが、安心は出来る。
「二時半になったら、お店出て」
「……最後までいるの、駄目かな?」
「駄目。特別な接客してるなんて言われたら、後々面倒だし。でも、二時半までは、ここで相手するから、ね?」
あやすような声で、彼女はささやきかける。そんな風に言われたら、断ることなんて出来ないじゃないか。
僕は結局、困ったように笑って、彼女のその提案を黙って受け入れた。まだたくさん時間はある、面と向かってどんな話が出来るのだろう。
人葉さんのことでも聞いてみるか? そう思ったが、いや、やめておこうと僕の心がブレーキを踏んだ。あの人はあの人で、神様さんに聞くような相手じゃない。今ここで聞ける話、それが重要なのだ。
僕は残っていたオムライスを一気にかき込んだ。すると、柱の影から何度もこちらを伺ってきていたきみかさんが、ハーブティーの用意を始めた。
「ご主人様、ハーブティーをお入れいたしますね。双葉ちゃんもハーブティーでいい?」
「あ、そんな気を遣ってくれなくていいですよ。オムライス食べさせてあげたんだし」
「でも、話をしてたら喉も渇くでしょ。ちょっと待ってて。すぐに二人分用意するから」
掃除なんて、ちょっとやっただけなのに随分といい待遇だ。もしまた手伝える機会があったら、今度こそ無報酬で手伝おう。
結局、その後出たハーブティーをちょこちょこと飲みながら、僕と神様さんは電話越しにしている話と大差ないことを延々と喋っていた。きみかさんが気を遣ってシャッターを降ろしてくれていたので、外からは僕達の姿は見えなかった。それも気を楽にさせてくれた大きな要因だろう。
で、僕はここに来て何をするつもりだったんだろう。当初の目的をすっかり忘れ、僕は首をひねりながら夕方になる前の街を抜け、家路についた。




