2/7 食事と彼女と流れない時と
夕暮れ時の街を歩く。この時間帯でも冬という時期は周囲を暗くさせる。
右左と鍋か。結局昨日考えた献立を変えることなく、僕はスーパーへ向かおうとした。
……が、見知った姿の人物が視界に入った。厳密に言えば見知ってしまった人、だが。
「おー早いねー」
そこにいたのは、昨日と同じ、春日第一の制服を着た神様さんの姉だった。
もう僕は騙されませんよ。そう言わんばかりに僕は平然とした顔で彼女の側に近づいた。
だが彼女は笑顔を見せる。神様さんと似た温度の、真っ直ぐな笑顔だ。
「どうしたんですか。春日第一はもっと離れたところにありますよ」
「別に来たっていいじゃない。君に会いに来たんだよ?」
この間会った時も思ったが、ストレートな表現が好きな人だ。神様さんもそういう側面があるが、ここまで婉曲せずに物事をはっきり口に出来るのもある意味凄い。
どこかへ行くか。そう思って一歩を踏み出すと、彼女は早足で僕の側についた。そして下から僕の顔を覗き込んできた。
「双葉に話したんでしょ」
「何で知ってるんですか」
「双葉の機嫌悪かったもん。ああ、これは聞いたんだなってすぐに分かった」
なるほど、余計なことは言っていないが神様さんの機嫌は充分に損ねてくれたわけか。
といって、そこまでの怒りが沸くわけでもない。何故僕を興味対象に入れるのか、それが分からないと僕も接しようがない。
それじゃ。頭を下げて素通りしようとすると彼女は昨日のように、ぴたりと僕の横に付いてきた。
「何ですか」
「付いていっていい?」
「……そりゃ嫌とは言いにくいですけど」
「ありがと。そうそう、私は二宮人葉。よろしくね」
自己紹介されても困るものは困るのだが。僕は困惑したまま、スーパーの方へ歩き出した。
今日は腕は組んでこない。だがその代わりに体が密着する距離感で歩いてくる。これ、神様さんでなくても世間の人から見たら充分に誤解されるものだろう。僕は死んだ魚の目で彼女に歩幅を合わせた。
「んーなんかテンション低い。私のこと嫌い?」
「いや、そうじゃないんですけど……」
「まあ双葉のこと好きだもんね、君。双葉がどう思ってるのかは知らないけど、毎日メール電話とかマメだよねー」
彼女の不意を突いた一撃に僕ははっと振り向いた。何を言ってるんだこの人、そう言いたげに横を見ると、彼女はにやにや笑いながら僕の腕にしがみついた。
「さて、私の気持ちはどうでしょう」
「……知りませんよ。あと神様……双葉さんに余計なこと言わないで下さいね」
「双葉に嫌われるのが怖い?」
「そりゃ。ていうか僕の気持ちを知ってるのに接してくるのが理解出来ません」
僕が無愛想に反論すると、彼女は得意げに笑って、僕の目を下から覗き込んだ。
「私も結構君のこと気に入っちゃったんだよね。妹から男奪うってのもどうかと思うけど、まあ私は双葉みたいないい子じゃないし」
本気なのか嘘なのか、判別しかねる軽い口調で彼女は告げる。
妹から男を取ると言っても僕は神様さんの男ではない。もしかすると、お姉さんである人葉さんと仲良くすれば、神様さんも祝福してくれるかもしれない。
――それを僕が受け入れられるか?
あるわけない。僕はその思いを抱えつつ、絡んだままの人葉さんを振りほどかずそのままスーパーへ歩いていった。
「ここのスーパー結構もの揃ってるよね」
入った瞬間に彼女が言ったのは、そんなどうでもいいことだった。ただ割と大型スーパーなこともあって、上階に行けば家電製品も買えるという割と便利な店だ。
「人葉さんに聞きたかったんですけど」
「何?」
「春日第一でトップって双葉さんから聞きました。本当ですか?」
僕の質問に彼女は砕けた笑いと共に一瞥した。まるで、脇にあるトマトが赤を失い青にでもなったかのように。
「本当だけど、人間としては最低レベル」
「……そうとは見えませんけど。男遊びでもするんですか」
「そういうのはないよ。面白くないことを面白くないって空気読まずにはっきり言っちゃったりね、そういうところ。ていうかカス一でトップだからって人生何にも変わんないよ」
学業の話になると、彼女は途端につまらなさそうな、吐息を交えた声に変わった。
春日第一でトップなら、順当に行けばこの日本のどの大学だって行ける。だが彼女はその手の話を「つまらない」で一蹴する。
何が嫌なんだろう。ほんの少しだけ、彼女に対する興味が沸いてきた。
ひとまず、カートのかごに鍋の材料を放り込む。脇から観察してくる人葉さんは、スーパーのテーマソングに歩幅を合わせながら、口を挟んできた。
「妹さんと食べるの?」
「そうですけど、随分と僕の家庭環境に詳しいですね」
「そりゃまあ、双葉が楽しそうに喋ってくれたからね。勝手に情報が入ってくるようなもんよ」
なるほど、情報源はそこか。責めたくとも責められない部分が出てきた。
ただ妹のかなりデリケートな部分の話をしたこともなければ、そこを彼女に知られたこともない。多分、人葉さんが知っているのは表層的な部分だろう。僕は気に留めることもなく先へ進んだ。
並んで歩いているのに、会話がない。体の密着度に反比例するその距離感は、何とも言えない居心地の悪さを覚えさせる。
「君、今私のこと考えてる」
肉を手にしようとした時、彼女がぽそりと呟いた。虚を突かれた思いで振り向くと、彼女は少し伏し目がちな目で黙っていた。
何を言えばいい? 僕が困惑していると彼女は顔を上げ、にまあと笑った。その姿は、まるで神様さんそのもので、僕は一瞬、彼女が二宮人葉ではなく、二宮双葉なのではないかと錯覚した。
「私のこと、可愛いって思った顔だ」
「あの、からかうのやめてください。そういうの苦手なんで」
「苦手じゃないでしょ。君の場合不得手っていうの。双葉が素直な子で良かったねー」
と、彼女は返す刀でまた僕をからかう。神様さんと知り合った頃、明るくて真っ直ぐな人だと思ったが、この人はこの人で、明るいながら猫の目のようにころころ感覚の変わる人だ。簡単に言えば変人の類だろう。変人だから春日第一でトップを維持出来るのだろうが。
「ねえ、君は双葉が自分が神様だって言ってること、どう思ってる?」
人葉さんが珍しく神様さんのことについて訊ねてきた。そうですね、と一拍置いて白菜を手にしながら、僕は真剣な顔で答えた。
「最初は何言ってるんだ、この人って思ってました。神様っぽい力がちょっとあるのも知ってます。でもそれ以上に、僕の嫌な心を救ってくれる神様なんです、あの人は」
僕の言葉に人葉さんは笑いもせず、表情を変えることを一切しなかった。
端から聞いたら、まるで教祖と信者のような関係だろう。でも彼女は、僕にとって、僕だけの神様なのは否定しようがない。
彼女が僕に啓示を与えてくれたことなんてない。ただ僕は側にいてくれて、恋をさせてくれるだけで充分、神様だと思える。僕は知らなかったが、きっと世の中の恋をしている男女も、相手に対してそんな程度の気持ちを持っているに違いない。それを「神様」と表現するか「好きな人」と表現するかの違いだ。
「双葉が羨ましいな」
「え……?」
「そこまで情熱を持って好きって思ってもらえる人がいるなんて。やっぱり、あの子に私勝てないのかな」
そう呟く彼女の目は寂しげだった。それはまるで、委員長に言いくるめられた時の、自分を責める神様さんの横顔に似ていた。
その時僕は察した。この人は有数の高校である春日第一に通っているけれど、まったく満たされてない人なんだと。何かしてあげるべき人なのではないかと思った。
でもその具体的な方法が思いつかない。ましてや付き合うなど言語道断、あり得ない話だ。
それでも僕の中に、この人を助けたいという朧気な感情が芽生え始めていた。ただ神様さんと人葉さんの両立は難しい。
「人葉さん、誰か気になる人とかいないんですか?」
「君」
「……まあそう返してくると思ってましたけど。あと神様さんと仲よく出来ないんですか?」
「私は双葉可愛がってるよ。双葉が勝手にこっちを嫌ってるだけで」
本当か嘘か分からない言葉が出てくる。神様さんが一方的に相手を嫌うなんてないから、この人の軽い調子が肌に合わないのだろう。
椎茸をぽんとかごに入れ、後は何が必要だったかと考え出す。その脇でちらちらと、人葉さんのことも脳裏に過ぎる。
「神様さんに余計なこと、本当に言わないでくださいね」
「そしたら何かいいことあるの?」
「そうしてほしくないってだけです。一応、今日であなたのことは友人くらいには思えてきましたから」
僕が額を人差し指で押さえながら呟くと、彼女はぱっと満面の笑みを浮かべ絡みつく腕の力を一層強くさせた。
「やった、友人だよ、友人。友達ってこと! 嬉しいな」
「……そんなに喜ぶことですか。まあ僕はあんまり友人作る方じゃないんで、珍しい行動だと自分でも思いますけど」
彼女は小金が入ったかのようにはしゃぐ。そんなに僕と友達になれたことが嬉しいのだろうか。そんなことは僕には分からないけど、彼女の喜ぶ姿を見ていると、無情に突っ返さなくてよかったなと思えた。
「ねえねえ、今度家行っていい?」
「あの、気が早すぎませんか? そもそも妹いるんで」
「じゃあうちに来ようよ。サービスたくさんするよ?」
「結構です。それで神様さんにうがった見方されたら本当にどうやっていくんだろうって悩まなきゃいけなくなりますから」
僕の困り顔すら彼女は楽しいのか、横から僕の頬を突いてくる。昨日今日知り合った相手に随分とスキンシップを取る人だ。人間性が最悪ではなく、常識的判断が最悪なのではないか。黙ったまま僕は陽気な音楽の流れるスーパーの中を進んでいった。
肉の鍋にするため、それに合わせた野菜をかごに入れていたが、この冬という季節柄魚も悪くないと思えた。ただ昨日焼き魚を出したばかりである。二日続けてメインの食材が同じでは僕の作る食事に一切文句を言わない右左でも少しばかり嫌な顔をするだろう。
どうしたものか。ここは初志貫徹、肉にしよう。そう思う最中ほど、横から口を出してくる人がいる。
「魚は頭がよくなるんだぞ。魚にしよう」
「あの、昨日も買い物に付き合ってくれてましたよね。そこで僕が何を買ったか覚えてないんですか?」
「覚えてるよー。納豆、卵、漬物、あと何だっけ」
「わざとらしいです。鯖ですよ。焼き魚にするために買ったの、忘れたわけじゃないでしょう」
僕が困り顔で告げると、彼女はいたずらがうまくいったとばかりに含み笑いをした。
僕の淡々と受け答えする姿勢は彼女にとってちょうどいい玩具なのか、どうもこうしたふざけた態度を取られ続ける。実害はまったくないので、遊びたければいくらでもというところだが、それを神様さんの前でされる、もしくは耳に入れられるとなるとかなり困るなと思わず思索にふけってしまった。
「そもそも頭がよくなるなら、二宮家では魚が主食ですよね」
「ううん、私魚苦手だし」
「……じゃあそれを人に押しつけないで下さい」
僕の呆れた声へ、彼女の高笑いが返ってくる。
神様さんと初めて会った頃はどうだっただろう。そう言えば、僕が彼女をからかい、彼女はいちいちそれにリアクションを取ってくれていた覚えがある。因果応報。まさかそれを姉にされるとは思っても見なかった。
「ねえ、君、双葉と知り合ってまだ半年経ってないって本当?」
「そうですね。ここへ来たのが九月の半ばくらいなんで、その位だと思いますよ」
「ふうん……どうしてここへ来たの?」
「家庭の事情で引っ越してきました。元々はこの街に住んでたんですけど」
その会話に、僕は多少驚いていた。神様さんは何でもかんでも家庭で話していたのかと思ったが、僕のそういったところを全く話していなかったことに義理堅さを覚えた。
「そっか、大変なんだね」
「そんなに大変でもないですよ。元々一人でやってくことが多かったんで」
「そうじゃないよ」
「はい?」
「半年もしない内に双葉に入れ込んだり、そういう心の方の話」
何というか、からかい方に特定の法則が見られる。神様さんのことを切り出され、僕があたふたするのを見たい、そういう感じだ。
こちらが反撃しないと、どんどんドツボにはまっていく。僕は無言の姿勢を撤回し、彼女と向き合った。
「神様さんと学校の話とかしないんですか」
「ん? あんまりしないかな。まあ双葉だってやめたくてやめたわけでもないし、そこで学校の話を嬉々としてするほど私も悪人じゃないよ」
「そうですか。あの人、学校行ってないこと、やっぱりコンプレックスになってるんですか」
「そうだね、コンプレックスかどうかで言えば、多分そう。不便だよね。人と違う力があること、小さい頃から知ってるから友達も作りにくくて。いつもすぐにみんな離れていっちゃう。だから双葉にとって、君は特別な存在なんだよ」
からかうような言葉ではない、落ち着いたトーン。僕はそれに浮かれるわけでもなく、そうですか、と静かに返していた。静かに返したというより、気の利いた言葉が分からなかったと言う方が正しい。
何を言えばいいのか分からないまま、僕は自分の本能に赴くままの言葉を発していた。
「僕の妹のこと、どれくらい知ってます?」
「君がすごく可愛がってるってくらいしか双葉からは聞いてないな。どうかしたの?」
「僕の妹、不登校だったんです。僕と同じ学校。一頃は家で引きこもったりして、友達も何もかも捨てたような生き方だったんです」
僕の淡々とした言葉に、茶化した言葉は入らない。僕は彼女が聞いてくれているということを認識すると、改めて言葉の続きを発した。
「色々あったんですけど、今、学校に戻ろうとしてるんです」
「退学したんじゃないんだ」
「休学ですね。どうして休学にしてたのか、何か少し希望があったのか、未練だったのかそこは分からないですけど」
彼女は僕を見ない。今僕の目を見られたら、僕の心が木端微塵に崩れ去るのを理解しているのだろう。この人は、無邪気に見えて気を使える人なんだ、僕は僅かだが口を緩めた。
「学校戻るのに抵抗はないの」
「抵抗はないみたいです。でも全部、僕が悪いんです」
「どうして」
「妹が一人で大変になるのが分かっていたのに、両親が離婚した時、妹の側にいることを選ばなかった。きっと、休学もそれが原因なんだと思います」
と、僕が静かな言葉を呟くと、いきなり後頭部に鈍く激しい痛みが襲った。
はっと横を向く。そこには激昂したような目で僕を睨む人葉さんが握りこぶしを作って仁王立ちしていた。
「なーにが自分が悪い、だ。ふざけんなっ!」
「え、え……?」
「君ん中では君が妹の世話を出来なかったからこんなことになったって思ってるかもしれない、それは分かる。でも君の妹は君がいなきゃ何にも出来ない愚図なのか? 違うだろ!」
その言葉に僕ははっとさせられた。
そうだ、右左が休学を選んだのも自分の選択だが、右左が学園に戻るのを決断したのも、最終的には右左の決意だ。
僕は右左が何も出来ない子だと、深層心理の部分で考えていたのかもしれない。それは右左にとってとても失礼なことで、右左を過小評価していたと言える。
やっぱりこの人は、神様さんの姉だ。普段はベクトルが違う方向へ向いているけれど、大事な時には同じ方向を向く。
厄介な人だという気持ちは変わらない。ただ、この人と知り合えて良かったと思う感情が芽生え始めたのも事実だった。
少しおかしくなって、僕はくすくす笑うのを手で隠した。それを見た人葉さんは何がおかしいと言わんばかりに僕をじっと見てくる。
「いきなり笑い出して、変なものでも吸い込んだ?」
「違いますよ。やっぱり人葉さん、神様さんのお姉さんなんだなって思って」
「どこが」
「僕が弱気になるところを喝破してくれるところです。妹のことも、人葉さんに話してなかったら僕はまだ悲惨な子扱いしてたかもしれません。でも、今日のことで少しずつだけどそういうのをしなくなるような気がするんです」
僕が笑うと、人葉さんは一度頷いて、僕の背中をぱしんと叩いた。そして僕の前にくるっと出てくると、にっこり笑って僕の目を吐息がかかりそうな間近から直視してきた。
「双葉には負けないつもりだから」
「人葉さんも充分立派だと思いますよ。ていうか、春日第一でトップの時点で充分立派だと思いますけどね」
「さあ、それはあんまり関係ないと思うな。私が私であること、それを証明するのが一番重要だと思うし」
彼女の存在証明。その言葉の意味が分からず、僕は一瞬きょとんとした。それでも目の前の人葉さんは笑みを絶やさない。
そこの部分を無意味にせっついても意味はないだろう。僕はその会話が満足だったと言わんばかりに、野菜と肉の載ったカートを推した。
「いつか妹さんと君の三人で鍋を食べたいねえ」
「いや、なんで妹がいるんですか。それなら神様さんも呼べばいいじゃないですか」
「はあ……まあなんというか、双葉に聞いた通りの人だな、君は。でもま、気に入った。これからもよろしくね」
と、彼女はまた僕の腕元に絡んできた。これ自体は慣れてきたが、これからすぐのレジでの支払いでは面倒なんだが、と僕は眉をひそめた。
こういう神様さんと違う元気な部分が、人葉さんの持つ性格で魅力なのだろう。さすがいきなりこの街で、うちの学生にナンパされてただけはある。
結局この日、普段の買い物よりも少々時間がかかってしまい、近くとはいえ人葉さんを駅まで送ったため、家に帰る頃には外は真っ暗になっていた。