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2/5 僕の心配、妹の心配、好きな人の心配

 家に着き、鍵を開けると、扉の向こうから駆けだしてくる足音がした。

「兄さん、お帰りなさい」

 僕より先に扉を開き、その先から愛い笑顔の妹が僕を出迎えてくれた。

「右左、勉強はかどってる?」

「はい。今は二年の途中までやってます。て言っても、私、来年一年からですから、あんまり意味はないんですよね」

 それもそうである。そのまま年齢のブランクなしに大学へ行くのなら、他の手段もあるが、右左はまず高校に戻りたいらしい。

 高校と言えば、今日見たのは春日大第一附属高等学園の制服だ。右左はあれに憧れるのだろうか。少し聞いてみることにした。

「右左、春日第一知ってる?」

「知ってますよ。どうかしたんですか?」

「いや、あそこすごい進学校な訳だろ。僕は右左が受験した時どのくらいの偏差値だったとか知らないし、行きたかったかどうかも知らない。そこどうだったんだろうって」

 右左は少し含んだように口元を緩めて、こくんと頷いてから僕に返答した。

「担任の先生にはどうだって言われました。でももう、その頃から自分の心の限界が見えててどこに入っても長続きしないのは分かってました」

「……それでうちを選んだのか」

「結局、休学しましたけどね。そういう意味では選択を間違えなかったと思います。女子校の雰囲気っていうのもあまり分かりませんし」

 右左ははにかんでダイニングの方へ向かう。僕も扉を閉め、暖房のぬくもりが感じられる右左の向かったダイニングへと歩き出した。

「それにしても春日第一のこと聞くなんてどうかしたんですか?」

「いや、まあ別に」

「兄さんが女性なら行けたかもしれませんね」

「むりむり。あそこの名前全国レベルだぞ」

 と言いながら、かつて住んでいた街で通っていた高校は、家の近所というだけで選んだ失態を思い出した。もっとも、真面目にやっていても真面目にやらなくてもこの学園に来たのだ。そしてその選択が神様さんと僕を引き合わせてくれたのだから、僕はこの学園にこれ以上望むものはない。

 しかし、神様さんといえばあの謎少女である。確かに見た目は神様さんだった。胸のふくよかさも間違いなく彼女のものだ。

 もしかして、また幻視が見えるようになったのか?

 いや、それはない。そんなことになるような、妙なテンションの高さを僕は今日一日感じていない。

 彼女は神様さんが演技をしていたのか。そんな風にも思えない。とりあえずメールでも送っておこう。

 僕は上着を脱いで、自室へ駆けだした。

 しかし、彼女が神様さんの偽物だとすると、彼女は今日バイトである可能性が高い。この時間帯にメールを送って大丈夫だろうかと思うが、彼女の通勤時間はいつも五時までだ。この時間帯ならメールを見てもゆっくり返信する余裕があるだろう。

『神様さんへ

 今日神様さんによく似た人と会いました。春日第一の制服を着てて、僕に妙に接してきたんだけど、心当たりある?』

 これでいいや。

 あとは夕食を――

 僕が動き出そうとした瞬間、部屋の中に甲高い電子音が鳴り響く。

 この聞き慣れた音は、電話の着信音だ。僕は慌てて携帯を手にする。その発信者を見ると予想通り「神様」となっていた。

 そんな急ぐことなのだろうか。僕は今日会った彼女同様、首を傾げながら携帯を手にした。

「もしもし」

「あ、こんばんは。そのいきなりなんだけど、メールのこと、本当なの?」

 嘘を書いたつもりはないし、そんな突飛なことを考える想像力もない。僕はベッドに腰掛けて、彼女に答えた。

「本当だよ。神様さんにうり二つの人が、駅前で学年下の奴らに絡まれてて、それ助けたら待ってたって言われて」

「で、何かあった?」

 彼女は殊更何かを知りたがっている。が、腕を組んだまま一緒に買い物したなんて言ったらこれから先の関係に大きなひびが入りそうだ。僕はあえてそのことを黙り、買い物の事実だけ言うことにした。

「付いてきていいかって聞いてきたから、一緒に夕飯の買い物はしたよ」

「……あいつ……」

「あいつ?」

「きみにはうちの家族の話してなかったよね」

「まあそうだね」

「私が双葉って名前の理由も知らないでしょ」

 そう言えば、気にしたことがなかったが、彼女は普通次女に付けるような「二」を連想させる文字が名前に埋め込まれている。

 もしかして――その予想は、彼女の口からすぐに正解だと教えられた。

「私、双子なの。一卵性双生児。で、そっくりな姉がいるんだけど……」

「僕に突っかかってきたのはその人なわけ」

「そう。最近妙に私のこと聞いてきたりしてたから変だとは思ってたんだけど……」

 神様さんの口調が分かりやすいくらい苛立ってる。彼女は僕に何かなかったか気になるのか、しきりに僕の動向を窺ってきた。

「本当に何にもなかった?」

「なかったよ。神様さんもバイトで何かなかった?」

「こっちは何もないよ……。ただお姉ちゃん、気持ちが強いっていうか執着心が強いっていうか、気にしたものは徹底的に迫るから……ああ考えただけでイライラする」

 彼女は本当にいらついているのだろう、普段のどこか朴訥とした話し方が消散したようにカリカリした声を発する。

 昔と違って今は少しくらい彼女を神様だと思ってはいるが、今の彼女はとてつもなく人間くさく思えた。要するに、普通の人が発する普通の人のリアクションだ。

「お姉さん、春日第一に友達いるの?」

「違うよ。本人が春日第一に通ってるの。てかそんな嘘ついたんだ……」

「自分は神様さんだって言ってたから、春日第一の制服を借りた設定じゃなきゃおかしくなるからね。しかし頭いいんだなあ、すごいな」

 僕が感嘆したように吐息を漏らすと、神様さんは電話の向こうで暫時無言になった。

「いや、そんな人が姉だから神様さんだって頭いいと思うよ。少なくとも僕はそれで救われてるし」

「フォローありがと。まあお姉ちゃんが頭いいのは確かなんだけどね。あの春日第一で学年トップだし。ただ今回のことに関しては嫌な予感しかしないなあ」

 神様さんは不安を隠しきれないように、歯切れの悪い言葉を紡ぐ。僕もあの人が何を考えて僕に接してきたのかまったく分からない。興味のあるなしで言えば多分あるんだろうが、それでも妹の知り合いといきなり腕組みをするような突飛な考えは普通はしないだろう。

「心配しなくても、僕は神様さんの味方だよ」

「……そう言われるとちょっとだけ嬉しいかな」

「大丈夫、嘘じゃない」

「でも本当にお姉ちゃんには気を付けてね。何考えてるのか本当によく分かんない人だから」

 彼女との会話にもう少し付き合っていてあげたいのだが、右左にそろそろ夕食を提供しなければならない。それにしても変な話に巻き込まれたな、と思いながら僕は彼女に謝罪の言葉をかけた。

「ごめん、そろそろ夕食なんだ。またお店の方行くよ」

「ありがと、来る時はメールで教えてくれたら、少しくらいは接客出来るから」

「分かった。それじゃ」

 ゆっくりと電話を切る。話していると、彼女の顔が思い出されて、彼女とそっくりな姉のことはほとんど忘れていた。忘れてはいけないはずなのに、神様さんの熱量に押されて、それ以前の出来事が全部かき消えていく。

 自分でもこの入れ込み具合はちょっとまずいと思う。ただそれをセーブ出来ないところに、自分のアイデンティティがある気がした。これで以前に恋していたのが妹なのだから、ちょっとやばい奴のレベルを悠々達成している。かなりやばい奴までにはまだ届いていないことだけが唯一の救いか。

 そんなことを考えながら、階段を降りてダイニングへと向かう。右左は黙ってニュースを見ていた。

「右左、今から夕食作るね」

「ありがとうございます。何とかこなせてますけど、一人で勉強するのってかなり疲れますね」

 右左は珍しく大きなため息をこぼして、テレビを消す。家の中にいるせいか、冬なのに右左はいつも通り薄手の服に袖を通している。

「まあ、勉強は大変だよな」

「やめた方が自由とか考える人もいますけど、違いますね。誰かが教えてくれて、誰かと一緒に学ぶ環境って、凄く恵まれたことなんだって本格的に勉強を再開して分かったことです」

 生真面目な右左らしい言葉が返ってきた。ここまでしっかりした考えをした少女を、親の都合とは言え僕は離れ、孤独にさせた。もし僕が電話の一本でもよこすようなよい兄であったらどんな人生になっていただろう。それが今も僕を苦しめる。

 鯖の切り身に軽く塩を振りかけ、アルミホイルを用意する。グリルに放り込んで、その間にサラダでも作って、買い置きしておいた納豆や漬物、タイマーですでに出来上がった白米を並べれば粗食の完成である。我ながら面白みのない夕食だ。

 右左が僕を避けるということもなくなったので、明日は鍋にでもするか。魚を焼きながら、明日の献立を考えるというのは、どれだけ生産性のあることなのだろうか。

 少しして全ての調理が終わった。食卓に皿を並べていくと、右左が一礼して食事に箸を伸ばしだした。

「兄さん、来年から三年ですけど何かあります?」

「何かって言われてもなあ……。今仲のいい人間と同じクラスになってもならなくてもあんまり変わりそうにないし」

「そうですか。最近兄さん、外に行くことが多いから何か楽しいことが増えたのかなって思ってました」

 ミミに続き、クリティカルで僕の心臓を突き刺してくる人間がまた一人現れた。しかも色々あったとは言え一時は付き合っていたような人物からこういうことを言われるのは非常にきつい。僕はミミの時と同じく、平静を装いながら静かに答えた。

「まあ交友関係は広がったのかな」

「そうですか。私も学園に戻るようになったら、紹介してもらえますか?」

 右左がそれをどういう意図で告げてきたのか分からないが、僕は否定も肯定も出来ずただ黙して食事に逃げた。

 右左が僕に恋人として接してほしそうな目で見てくることは極端に減ってきたと思う。それは多分、僕が右左を妹としか見ていないことを、右左が勘付いたのではないかと考えている。

 どちらにしろ、僕には右左を極端に愛する資格はもうない。自ら手放したのだ、惜しくはない。

 その分、神様さんという人を何とかして自分と結びつけたいのに、うまくいかない。毎日割と密なコミュニケーションを取っているつもりなのに、向こうの友達感覚が邪魔をするのか、電話やメールを終えるとベッドの上で眠りに落ちている。

「右左」

「はい?」

「来年、どんな子達と一緒になるのかは分からないけど、右左のこと、学校ですごく話題になってるし、歓迎されてる。だから自信を持って、また一から始めたらいい」

 右左と目を合わせられず、そんなことを呟く。すると右左はその一言が嬉しかったのか、大きな声で僕に答えた。

「はい! 私、頑張ります!」

 僕は顔を上げた。右左は神様さんのような真っ直ぐな笑顔で僕を見ていた。

 寂しげで孤独で、世間から離れようとしていた右左の姿が見えない。そこにいたのは、新しい未来に希望を見出した、一人の明るい少女だった。

 そう、それでいい。そんな右左だって、魅力的だ。僕は恋をしないけれど、右左に似合う人が必ず現れる。そんなことを確信するには充分過ぎる笑顔だった。

 ほっとすると、腹が減っていたのを思い出した。人間、色んなことに囚われるとそんな当たり前のことも忘れるのだなと、僕はちょっとだけ笑って食事にありついた。

 今度はいい兄でいられますように。

 しかし、僕が兄であるように、神様さんも妹なのか。お姉さんのあの妙な積極性は、神様さんと方向性が違って多少言葉に困る部分がある。

 近いうち、またあの人に会いそうだ。この予感は否という程当たる予感がした。

 僕は右左の成長を喜びつつ、新たな脅威に対し当惑しながら残った食事を一気に食べきった。

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