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2/2 新しい世界(下)

 店の少し影になった部分に、一人の少女が寒さに耐えながらじっと立っていた。彼女は僕に気付くと少し口を曲げて僕の方へ向いた。

「遅い」

 僕と目が合うと、開口一番彼女はそんな言葉を呟いた。

「ごめん、神様さん。ちょっと遅れた」

「まあいいけど」

 僕が一歩前に出ると、彼女――神様さんは少し笑って前に歩んだ。

 彼女と知り合って半年足らず。僕の色んな世界が彼女によって開かれた。そして色んな思いを持っているのに、僕は彼女に何も言えていない。

 それでも僕は側にいられることだけで充足感を覚えていた。この人の側にいられたらどれだけ幸せだろう、そんな思いを彼女は汲み取るように、たまの休みに顔を見せてくれたりする。

 きっと彼女は、僕のことをただの友人だと思っているのだろう。でも僕にとって彼女はありがたい「神様」であった。

「いやーしかしお店で変なとこ見せちゃったな」

 神様さんは特徴的な大きな胸を持ち上げるように腕を組み、何かふむふむと頷いている。

 確かにあれは変な光景だった。見ているこっちもやきもきするくらい、尋常ではない光景だったと言える。

「普通の喫茶店でナンパとかあるのかな」

「まあそう言われてみればないとも言えないよね……。特に神様さんみたいな綺麗な人だと普通に声かけられそうだ」

「いや私普通だよ。きみの接客してたきみかさんの方が綺麗だし」

 そう言えば、あの光景に感情の起伏をすっかり奪われ、記憶の端から抜け落ちていたが、僕の接客をしてくれたもう一人のメイドさんも随分綺麗な人だった。

 ふとした疑問を手に、僕は神様さんに訊ねた。

「あの人も声かけられたりしてるのかな」

「何回か見たよ。でもうちのお店、店長がすぐさま飛び出してきて止めてくれるけどね」

「そうなんだ。でも出禁とか言ってたよね。そんなに厳しいのに声かける人いるんだ」

「人によるよ。三回で出禁になるけど、三回までならチャンスはあるって考えてる人時々いるし。まあ普通に断るけどね」

「断る理由とかあるのかな」

「色々じゃないかな。きみかさんとか今はそういうことに気を取られたくないって言ってるし、私も……」

「神様さんは?」

「まあ、色々。色々なの」

 彼女は「色々」という言葉を絞り出す際、少しむくれていた。

僕にそういう仕草を見せられても困るのだが、とは言いづらく、何となくの相づちを打ってその場を逃れた。

「そう言えば、神様さん、僕のこと名前で呼ばないよね」

 気になっていたことが口から漏れる。彼女は少し首を傾げ、僕に突きつけてきた。

「塚田くん、一宏くん、うん、どれも違和感しかない」

「だよね。……二宮さん、双葉さん、確かにしっくりこない」

 僕が困ったような笑顔をこぼすと、神様さんも同じようにくすりと唇を動かした。

 正月が明けるまで何度か会った覚えはあるけど、何もせず、年を越してからは会えない日々が続いた。

 彼女にバイトなんて大丈夫なんだろうか、そう思っていたのに、接客をてきぱきとこなしている彼女を見ると、僕のその思いが余計なお節介だったと思い知らされる。

 何の心配もない。それなのに、僕の手からするりと抜けるような、そんな少しばかりの寂しさが胸に去来する。

 暗い夜空を見上げていると、彼女は僕の方に向いて笑いながら声をかけてきた。

「何回でもお店に来てくれていいんだよ?」

「でも来てもあんまり喋れないからなあ」

「そりゃ仕方ないよ。お店の中は中だし。でも、待っててくれたら、こういう風に外で話も出来るから」

 彼女はそんな一言をこぼすと、寒風でかじかみそうな手に静かに息を吹きかけ俯いた。

 僕は彼女に何を言えるのだろう。それが見つからず、僕は夜空を見上げ無言を貫いた。

 軽く思いつくような一言も口に出来ず、ただ歩幅を合わせて進んでいると、彼女が切り口を見つけるように僕の手元にある大きなビニール袋に気付いた。

「ねえ、さっきから気になってたんだけど、それ何?」

「ああ、これ。ちょっと待って」

 と、僕は少し苦笑を交えつつ、黒色のビニール袋から先ほど本屋で入手した大きめのフィギュアの入った箱を取り出した。

「これ」

「あ、これくじの奴だよね。何回くらいやったの?」

「一回。ここ来るまでにタオルが欲しいなって思ったら、これ出て困った」

 僕が笑っていると、彼女は難しい顔でそれを覗き込んだ。どうしたのだろう、僕が困惑気味にそのくりっとした目を見ていると、その視線はすいと僕の目に移った。

「一回でこれかあ、凄いなあ。私もね、これ好きだから三回やったの。でもタオル二つとマグカップで全然駄目だったよ」

「マグカップとタオル……ハズレの定番だね」

「あ、でもどっちも使ってるからまあいいかなって。好きな作品の奴って一日のテンション上げてくれるし」

「そっか、それだと無駄にならなくていいんじゃない?」

「でもフィギュア欲しかったなあ。結構前から始まったからもう売り切れのところ多いし」

 彼女の吐いた深いため息が、白をまとって冬の寒さに溶けていく。彼女がこんな俗世にまみれたものが好きだとは思わなかった。というかただ作品が好きというだけで驚く僕も、何となく変だ。

 きっと、こんな時のために僕の絶望的な運はこれを寄こしてくれたのだろう。僕はすっと彼女にその小さくない箱の入った袋を突き出した。

「え、何?」

「これ、好きなんでしょ。あげるよ」

「え、え、え? それは無理だよ。普通に買ったらかなり高いし、君も好きだからくじ引いたんでしょ?」

「僕はタオル欲しかっただけだよ。そうだな、神様さんの汗が染みこんだタオルで手を打とうじゃないか」

「余計にいらんわっ!」

「それは冗談。それよりこれ、僕が持ってるより、本当に欲しいっていう人が持ってる方がいいと思うんだ。だから、これは神様さんのものにしてくれる方が僕は嬉しいかな」

 僕がとつとつと話すと、彼女はしばし困惑の表情を浮かべながら、歩を進める。

「なんか私がねだったみたいになっちゃうなあ」

「まあ、いっつも僕の話に付き合わせてるし、このくらいで済むならいいよ」

「……本当にいいの?」

「うん。神様さんの喜んでるとこ、見たいし」

 しばらくそんなやりとりが続くと、彼女はようやく覚悟を決めたのか、大きく頷いた。

「分かった。大切にする」

「良かった。断られてたらこれ、どうしようか悩むとこだった」

「家に飾っておけばよかったのに」

「妹に見られるとね……」

「ああ、それか……それは難しい問題だね」

 と、二人揃って白い雲のかかった吐息をこぼした。

 神様さんの家庭環境がどうなのかは知らないが、少なくとも僕の家庭環境においてフィギュアを愛でることはおろか飾ることも許されない。それは妹の作りだした理想の兄として、守るべき線を保たなければいけないということである。

 少し俯いて、妹のことを思い出す。色々あるが、彼女は彼女で必死にやっている、そのことが僕をほんのわずかだけ笑わせる。

 僕のその機微に気付いたのか、神様さんがぴょんと跳ねて僕の前に飛び出した。歩みを止めていなかった僕は一瞬彼女にぶつかりそうになったが、反射的に足を止め事なきを得た。

「色々あるって顔してる」

 そうだね、と僕は無言で一度頷いた。彼女に妹のことを深く話したことはない。それでも僕達は、何となくの共通認識を保っていた。

 冬色の街は寒さだけ与えて、心を温かにしてくれる雪を寄こしてくれない。雨の後のような冷えたアスファルトが、寒風に存在意義の呼吸を激しくさせる。

 僕は道に並ぶ自動販売機の前に立った。横にいる彼女は不思議そうな顔をする。

 コインを数枚入れ、煌々としたディスプレイの上段のボタンを押した。やや強い音と共に、温かなミルクティーの缶が取り出し口に降りてきた。

 僕はそれを手に取ると、彼女に突きつけた。彼女はぽかんとしながら、それを受け取ろうとしない。

「寒くて手が痛んだら駄目だと思う。だから」

「それくらい自分で買うよ……昔じゃないんだし」

「僕の知ってる神様さんはその昔の空気をまとってるんだ。嫌だなんて言わないよね?」

 僕が無理に押し込むと、彼女はほとほと困ったような顔のまま、それを胸に抱いた。僕はかすかに笑って、自分の分のホットミルクティーを買った。

 外気はよほど冷えているのか、大した熱を持っていないはずのホットの缶が火傷しそうなほど熱く感じられる。こんな中バイト先に向かったり、帰ったりする彼女に僕は尊敬の念を覚えていた。

「冬だなあ」

 光の灯った暗闇を見上げ、彼女が呟いた。僕も同じように夜空を見上げる。隣に誰かいて見上げる冬の空は、どれくらい久しぶりだろう。その隣という場所に、彼女がいる。僕はこの街に戻ってきた運命の数奇さを噛みしめながら、ホットティーの缶を握った。

「私ね、春も夏も秋も好きだけど、冬が一番好きなんだ」

「どうして?」

「分からない。でもこういう寒い時に何かを待つ感覚、凄く気持ちいいんだ」

 そうか、と僕は肯定するように頷いた。

「あのさ」

「何?」

「今日初めて、神様さんがメイドさんしてるとこ見たけど、すごく板に付いてた」

 僕の口から、軽いため息が漏れる。彼女がこの仕事に身を投じて一ヶ月、もっとまごついて拙い接客しか出来ないと思っていた。

 でも一ヶ月は人を成長させるには充分で、僕の中にまた見知らぬ彼女を作った。それが少し胸を痛めつけるのと同時に、彼女に対する敬意を新しく一つ生み出すという、妙な背反関係を与えていた。

「全然だよ。大きなミスしてないのが奇跡なくらい。注文も何回も頭の中で復唱してるしね」

「そんな風に見えないから凄いんだと思う。僕じゃ無理」

「そうかなあ。きみみたいな人だったら、喫茶店の店員とかすぐに慣れちゃいそうだけど」

 そういえば、神様さんは僕が学園内でどのくらいの成績だとか、その辺りのパーソナルを知らない。学園での成績を知っていてそう言われるとまあそうか、と思ってしまうけど、知らないのにそう高く評価してもらえるのは、少し嬉しい。

 そう、この人に褒められることは、特別だ。

 結局、いつもと同じ、何か言葉を紡ぐようで、紡げない、そんな道のりを二人して歩む。

「年末年始どうだった?」

 手持ち無沙汰といった彼女が、僕の顔を覗き込まず寒空を見上げて訊ねてきた。そうだね、と前置きをして、僕はどんなだっただろうとしばらく前の出来事を整理した。

「そうだなあ、大掃除をして、家事をこなして、あと妹の面倒見てた感じかな」

「そっか。妹さん、学校の方戻れそうなの?」

 少し話した妹のこと。学園に入学したのに、一ヶ月で休学した少女が、一つ年下の子達と共にもう一度学びに挑む。僕の想像ですら厳しい世界だと思うのに、それに挑もうとする妹の決意はさすがに言葉を失うレベルのものだった。

 学業面での心配はない。ただ一度人と付き合うことを忌避した子が、もう一度人との付き合いに飛び込むことの難しさに、不安というより心配を覚えていた。

「大学行くだけなら他にも方法色々あると思うんだけどね。でも一生懸命勉強してるから、一年の勉強の範囲は終わってた」

「終わったんだ、凄いね。私なんか最後の方全然ついていけない感じになってたもん」

「神様さんの場合は勉強が出来る出来ないじゃなくて、環境についていけなくなっただけだから、集中してやれば多分大丈夫と思うけどなあ」

 僕がちょっとばかり微笑んでそういうと、彼女は少し黙って伏し目がちになった。

 やっぱり、これは嫌な話題だったかな。僕はしまったなと思いながら、リカバーの言葉を必死に探す。

 ただそのリカバーよりも早く、彼女はふふと笑って僕に上目を向けてきた。

「バイト始めてから、少しだけ考えることとやりたいことが増えたんだ」

「メイドさんの道でも極めるの?」

「まさか、そういうのじゃないよ。やってみたいとは思うけどね。でももっと違う、色んな考えがあるんだ。その夢を叶えるために、今一生懸命やろうっていう準備段階」

 彼女は笑みを絶やさず、僕に真っ直ぐ告げる。その屈託のない素振りが、僕みたいな鬱屈した人間の汚れた部分を洗い流してくれる。

 そうして歩いていると、駅に辿り着いた。元々駅から大して離れていない場所にある店だ。駅の到着まで大して時間がかかる訳も無い。

 彼女は駅に着くと、大きな息を吐いて、僕の横顔をちらりと覗いた。

「久しぶりに会えたのに、ここで終わりかあ」

「まあ、どっかで食べながら喋ってもいいけど、さすがにちょっと暗くなってるし、僕としては安全を優先して家に帰ってもらいたいと思うな」

「そういうとこだよね、なかなか会えないから学園行ってなくて損したなあって思うところ」

「神様さんが学園行ってたままだったら、多分今みたいに話とかしてないよ。まあ複雑と言えば複雑だけど、また店に遊びに行くから、今日はここで」

 そういう僕も、本当は寂しかった。久しぶりに会えたというのに、ちょっとメイド服姿を見て、店から駅までの少しの間に会話を交して、それで終わりだ。コストパフォーマンスを考えると最悪としか言いようがないが、会えないわけじゃない。今日は今日で、一つの思い出として胸にしまっておこう。

 帰路につくくたびれたサラリーマンが少しばかり見えてきた駅の改札。そこをくぐり、僕はもう一度別れる前の彼女に振り返った。

「じゃあ、帰るね。きみの方も気を付けてね」

「何を?」

「寒いから風邪とかだよ。妹さんに風邪移しても駄目なんだから」

 彼女の言葉に、僕は思わず笑いを漏らしそうになった。僕のことだけでなく、妹のことまで気にかけてくれるなんて、本当に優しい人だ。

 出来れば、彼女と丸一日、ずっと時間を共に出来たらどれだけ幸せだろうか。

 そのためには、色々高いハードルが待ってるな。毎日メールしてるのに、大きな隔たりがどこかにある。

 彼女に恋人になってもらうには、どうすればいいんだろう。それを解決するのは、自分の心だと分かっているのに、僕はうだうだとその一歩を踏み出せず、駅の時刻表を見つめている。

「じゃ、またね」

「うん、また」

 彼女が僕の向かうホームの反対側へ消えていく。今日一日、どんな凄い日になるのだろうと思っていたけれど、大したことのない一日で終わった。収穫はあったのかなかったのか。

 あのフィギュアで神様さんが喜んでくれたから、それだけで最高の一日じゃないか。

 ちょっとだけ前向きな思考に切り替えると、世界が少しだけ綺麗に映って、僕の顔をわずかばかりに崩す。多分、この笑顔は端から見れば気持ち悪いものだろうとも思う。

 家に帰れば、妹の右左が僕の帰りを待っているだろう。食事のためでも、学業のサポートでもなんでもいい。右左にとって必要な兄と思ってもらえればそれで充分だ。

「神様さんかあ」

 僕はホームへの階段を上りながら独り言を呟いた。電話もメールもしてるのに、何となく離れてる感じがするなんて、寂しいじゃないか。どうしたものだろうかと、また今日も微熱にうなされるように一人家で考え込むのだろう。

 寒風が辺りに吹く。今年一年、色々考えることが増えそうだ。僕はスマートフォンを取り出し、野ノ崎への返信を暇つぶし代わりに打ち出した。

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