それは、幻想ではない
あれから僕の日々は平穏そのものに戻った。
野ノ崎やミミとは普通に付き合い、学校であれこれ言われることもだんだんと減ってきた。ただ右左が学園に復帰したいという意志自体は、どこかで漏れ伝わったようで、そのことであれこれ話を聞かれることはある。
右左の学業復帰を願い、僕は家事でサポートしていた。右左が色目を向けてこないわけでもないが、そういう時は何とか笑ってごまかしている。
僕の中で、もう右左は恋愛の対象じゃない。そして僕の好きだった人は、この世から消えた。
そこで一つ気になるのが、二宮双葉という少女の存在だ。恐らく実在しないわけではないだろうし、学園を出ていったことまでは確かだろう。だが何分あの頃の僕の頭ではどこまでそれを事実として受け止めていたのか分からない。だから、もう気にしないことにした。
そう、気にしないことにした。
それでもやっぱり、時折気になる。二宮双葉ではなく、神様さんという少女のことが。
学期末の試験日、一人家路につく。寒さが身に染み、曇りがちな空は昼間なのに年末の悲しみを感じさせる。
同じく時間を持てあましている学生だろうか、この時間なのに仲むつまじく手を重ね合い歩く男女がいる。
嫉妬はしない。嫌悪はする。
随分身勝手になったなあと、僕は自分に呆れかえっていた。そもそも恋愛をしたことがなかったので、失恋の痛みも必然的に分からなかった。現在感じているのは、痛みではなく引きずっているというものだ。
脳裏に彼女の影がちらつくと、悲しくなる反面、馬鹿な奴だなと自嘲してしまう。キスも、好きだと言ってくれたことも、全部妄想だ。ああ、気持ち悪い男を随分長い期間続けていたのだなと思うと、ぶるりと鳥肌が立つ。
クリスマスは右左と過ごすことになるだろう。結局、僕の身勝手で右左にも辛い思いをさせた。ずいぶんと酷い男だ。
僕は駅前を抜け、スーパーに目を向けた。買い物は一旦家に帰ってすべきか、それともこのまま済ませて帰るべきか。
少し悩み、スーパーから目を反らした。寒くて出るのが嫌になる感じだが、そんな労力を無駄にすることもない。
「いやいや、手間暇を省くことは重要だよ?」
後ろから突然声をかけられ、ぽんと肩を叩かれた。僕はぎょっとしながら振り返った。
いきなり話しかけてくるなんて、誰だ。その振り返った僕の目が、大きく見開いた。
「……え?」
僕の中の時間が止まる。周りに誰も認識出来ない。ただ一人、目の前にいる人を除いて。
「神様さん……?」
「久しぶり」
彼女は手を後ろに組んで、屈みながら微笑む。まさか、また僕の中の幻想が蘇ったというのか。僕は自分の頭に冷静になれと何度も告げた。だが周りの寒風も、行き交う人も、全ての景色が変わらない。
「……どうしたの」
「い、いや……だってこれ……現実じゃないし」
「は、はあ?」
「そうだ、幻覚だ。帰ろう」
と、僕は背を向け一歩を踏み出した。すると、鈍い音と同時に、背中に強い痛みが走った。
反射的に振り返る。握り拳を振り下ろした、引きつった笑顔の神様さんが、仁王立ちしていた。
「いたた……あれ?」
「なーにが幻覚だ。私のこと忘れたの?」
握っていた拳を開き、彼女はむくれたまま僕を睨む。
まさか、そんなことがあるはずはない。でも確かにこの痛さは、あの偽りの温もりじゃなく、嫌な方を向いていて、現実だと知らしめてくる。
「神様さん……本当に神様さんなの?」
「いや、まあそうだけど……なんか泣きそうになってない?」
彼女は気味悪そうに告げる。僕はみっともないところをさらしそうになった。涙を必死にこらえ、彼女を見る。ニット帽とマフラー姿が、冬らしさを感じさせた。
「一月二月くらいだっけ、久しぶりだね」
「そ、そうだったのかな……」
「……やっぱり覚えてないんじゃない?」
「い、いや、それはいいんだけど、どうして?」
「時期が時期だし、ここを張ってたらきみに会えるかなって思って。でもうまくいかないね。全然会えなかったよ」
彼女は僕の手をそっと手にして、冷たくなったその手に温かな息を吹きかけた。
「会いたかったから、来たんだよ」
微笑む彼女の瞳もまた、少し潤んでいるように見えた。
「あの時、きみの話してた相手が喧嘩した委員長だって分かって辛かったし、情けないとこ見せてもう会えないと思った。でもね、それじゃ駄目だって気付いたんだ」
彼女は僕に一歩近づき、しっかり目を見つめて強く手を握りしめた。
「私の中にある気持ち。きみに会えるような人でいたい。きみに会いたい。それを考えたら、することは一つ、前を向くだけ。全部きみのおかげだよ」
「僕の……? でもそれは神様さんが……」
「いいの。前の私だったら間違いなくそのままで終わってたけど、今回は終わらなかった。私が変わったのはきみの力。神様を幸せに出来るなんて、凄いぞ」
と、彼女は喜色満面で僕の頭を撫でる。
もしかしたら、僕はまた夢を見ているんじゃないだろうか。何度も自分に疑いを入れる。でもこの甘美な中に吹き付ける、痛さを感じる程の冷たい風は、僕の目をすぐに覚まし、これが現実だと教えてくれる。
そう、この上ない幸せな現実であると。
「でも……どうして僕の考えてたことが分かったの?」
「まあ、端から見た感じでもの言ってるだけ。私は神様だけど、心を読む力はないし」
と、彼女は僕を沿道に連れていく。
「ほら、見て」
彼女は近くに茂る、花の落ちたタンポポを指した。彼女が目を閉じ、祈るように手を組む。
何が起こるのだろうと僕はタンポポを見つめた。何も動かない。また彼女のオカルトごっこが始まったのか。僕がそう思った瞬間だった。しおれて生気のないタンポポが少しずつむくれ上がり、やがて春を待つそれのような、力強いつぼみを見せつけてきた。
さすがにこれは、想像だに出来なかった。僕はただただ口を開け、目を丸くしていた。
「え……えええっ?」
「いや、その驚き方は何。まさか私が神様だって信じてなかったってこと?」
いや、実はその通りなんです。とはさすがに言いにくく、僕はしどろもどろになりながら、彼女の追求を躱した。
「私のお母さん、元々はこの地の神様なんだ。街の開発が進んで、力が出せなくなっちゃったけど」
彼女の言葉に、僕はごくりとつばを飲んだ。それはもしかすると、もしかするのか。僕は昂ぶる自分の気持ちを必死に押さえながら、彼女に慎重に言葉を出した。
「もしかして……クヌギとか……」
「あはは、よく分かったね。神様っていうより、精霊に近いのかな。まあ私はここで育ってないからよく分かんないけど」
彼女にとって、それは何気ないことかもしれない。でもそれは、この街に帰って、クヌギに幻影を追い求めた僕にとって運命そのものだった。
そう、僕は知り合うべくして知り合えた。だから、こんなにも愛おしく思える。
そしてこんなに心が澄むような思いを、僕は今まで一度も感じたことがなかった。僕自身身勝手で、人間なんてみんな身勝手な生き方をする。そんな言葉を全部、綺麗さっぱり彼女は生き方で否定してくれた。
「こうした力がついたのも、きみと出会ってから。きみが私を信じてくれたから、私もようやく、ちょっとだけ力が出せるようになったんだよ」
彼女ははにかむ。そして「まだ全然うまくいかないけど」とも言った。
そうか、彼女は本当に神様だったんだ。でも僕は、彼女の神聖な部分に重点を置いていない。僕にとって今大切なことは、彼女が目の前にいてくれる、そのことなのだ。
「神様さん、僕も会いたかった。もう会えないと思ってたから」
「大丈夫、これからはちゃんと連絡を取れるようにしたから」
と、彼女はポーチから、大仰に携帯を取りだし僕に見せつけた。確かに理にかなっているものの、神秘性のない答えである。それか、定期的に会うなど、そういった約束を取り付けてくれた方が、少しばかり心はうきうきする。
もっとも、今の僕に贅沢は言えない。彼女の携帯を見つめていると、彼女はおかしげに話し出した。
「きみと連絡先を交換するために、私はわざわざ携帯まで手に入れてきたんだぞ」
「あ……今まで携帯持ってなかったんだ」
「うん。バイトするなら持ってもいいってお母さんに言われて、バイト始めたんだ」
「何のバイト?」
「メイドカフェでメイドさん。そう、今日のこれも営業の一環!」
彼女は明るく笑い飛ばす。神様がメイドってのも、なかなかあり得ないシチュエーションだ。彼女の働く姿を想像し、僕もくすくす笑いながら、携帯を取りだした。
携帯を取り出しながら、交換のための操作をする。僕のアドレス帳には、しばらく連絡を取っていないけれど、人生において関わった人の番号が残されている。彼女のアドレス帳には、すでに何かが記されているのだろうか。ほんのちょっと、不安が過ぎった。
「他の人とかに番号教えてるの?」
気になった言葉が喉を突く。彼女はため息をつきながら、大きく肩を揺らした。
「番号もメアドも、教えるのきみが初めて」
「そっか。神様さん、綺麗だからお客さんとかにしつこく聞かれそうだなって思って」
「ご主人様達はご主人様達で楽しく過ごしてもらうけど、店の外の私とは線を引いてもらわないとね」
彼女の言葉に僕も胸をなで下ろしながら、彼女から番号とメールアドレスを受け取った。
「あ、それと言っとくけど、メイドさんは恋愛禁止だから!」
「そっか、じゃあ僕は神様さんの友達だね」
「っ……うう……まあそう、そうっ!」
彼女はふくれっ面で僕の言葉を肯定する。それがおかしくて、僕は彼女に携帯の番号を渡しながら訊ねた。
「一日一回、メールするよ」
「え……一日一回?」
「多かった?」
「い、いや……その……」
「ごめん、じゃあ三日に一回くらいかな」
「ち、違うよ。少ないっていうか……最低でも一日三回っ!」
「分かった。じゃあ今日からそうする。電話とかしてもいいのかな」
「な、なんで許可取るの。したかったら勝手にかけたらいいでしょ」
神様さんは、委員長に言いくるめられた時の姿が嘘のように、強気な姿に戻っていた。そう僕が右左よりも好きになってしまった、あの神様さんそのものだ。
そう、僕はたくさんの幻を見てしまった。でもその中に、神様さんという存在がいたことは嘘ではなく、残された真実が僕を救ってくれた。
今、僕はとてつもなく幸せだ。この周囲にいる、誰よりも幸せだ。
「その、たまにお店来てくれてもいいんだからね」
「まあ神様さんのメイド服、見てみたいっていう気はする。教えてくれたら行くよ」
「あ、でもお店の中で、他のご主人様と違う素振りなんて見せないから」
「……店の外だったら?」
「……きみ、そういう意地悪な人間だったっけ?」
彼女が引きつりながら、僕に詰め寄る。
僕はそっと手を差し出した。彼女はしばらくして、ゆっくりと両手で僕の手を包んだ。
「これからだからね!」
彼女の元気な言葉に、僕も大きく笑顔で頷いた。
寒風が吹くが、雪は降りそうにない。そして僕の失った恋も、新しい形でそっと芽生えた。神様さんが路傍のタンポポにつぼみをつけたように、彼女はまた、僕の心にもつぼみをつけた。
こんな人を好きになっても、終わりにならない。この現実が、どれほど幸せか、ほんの少し前の自分に教えたくなるほどだ。
とりあえず、積もる話がいくつもある。スーパーで買い物してもいいかな、と彼女に促すと彼女は横について、僕と歩きだした。
翌日行われた試験の結果がさんざんだったことは、言うまでもない。




