3.7/16
「あとは卒業式だけかあ」
僕の隣でぼやく声が響く。そして、それを笑顔で見守る姿もある。
この見慣れた光景もあと少しで過去のものになるのか。そんな思いを胸に抱えながら、僕はその二人を見ていた。
今日、久しぶりに学校へ来るという連絡を受け、僕は来なくていい学校にやってきていた。そして今、渡り廊下でその二人と話しこんでいる。呼びかけてきたのは、友人の野ノ崎。そしてその野ノ崎に促されたもう一人は、やはり友人のミミだった。
二人とも、ほんの数週間前までおたおたしていたのに、自分の道が決まったと自覚が沸いてきたのか、その先を見据えるようになっていた。
「委員長さん、二次試験もうすぐだね」
ミミが上ずった声で僕達に話す。野ノ崎は大きく笑いながら、その言葉を突っぱねていた。
「何事も手堅いあいつだぞ? 万が一も落ちねえよ」
「まあ、そういう人って気はするな。ここを離れて地方の大学を受けたのもそういうことだし」
僕が告げると、野ノ崎は渡り廊下の手すりにもたれかかりながら、春の温かな光を見つめぼやいた。
「それだけかなあ。あいつ、変わりたかったんだと思うけどな」
「……変わりたかった、か」
「そ。一宏とか二宮見て、手堅いだけじゃ何にも進まないのに気付いたんだと思う」
「野ノ崎君、それってカズ君に振られたからってこと?」
「違う違う。今のままの自分に限界感じたんじゃねえかってこと。一宏なんて勉強やってても余裕あるわけだろ? 多分あいつ、一生懸命のやり方を変えなきゃってどっかで思ってたんだ。そのために、一旦遠くに行くって選択肢を採ったってのが俺の考え」
僕はその言葉を聞いて、以前委員長とした会話を思い出していた。彼女は確かに変わりたいという欲求をどこかに表していた気がする。そのきっかけに、遠方の大学に進むということがあるのかは分からない。
でも間違いなく言えるのは、彼女は手近でそこそこ立派な大学に行けたはずなのに、あえて田舎の地方へ向かったということだ。野ノ崎の成り行き故の地方へ向かうという話ではない。自ら選んだ末の、田舎暮らしだ。
やっぱり野ノ崎は人の洞察を見抜く力が凄い。きっとこいつなら、田舎暮らしでも何とかなるだろう。僕は野ノ崎の未来に祈りを捧げた。
「で、野ノ崎君、委員長さんの田舎暮らしはいいけど野ノ崎君の行く田舎はどうなの?」
「もう覚悟決めなきゃって感じのとこだな。かろうじて徒歩圏内にコンビニとスーパーがある。ただ遊ぶ場所はない」
「野ノ崎、そんなに遊びたいならサークルにでも入れよ」
「まあそれくらいだよなあ。どんなサークルあるか分かんないけど、友人作りとかそこら辺考えたらサークル入るのが手っ取り早いよな」
と、野ノ崎は早速遊びを軸にする生活を夢想していた。本人はそこに夢を抱いているのか、あれこれ恍惚の表情を浮かべている。その穏やかな顔を前にして、下手したら単位取れなくて留年するぞとは言いがたく、僕はあえてその思考を浮遊させ続けていた。
「ミミはどうなってる?」
「私? 会社に挨拶行くのも終わったし、今のところ自由。でも不思議だな、カズ君達が勉強しに行ってる間、会社に行ってお給料もらう生活になるのかって」
「ミミ、たった四年だ、四年か五年したら俺も一宏もミミと同じ立場になってるって。長い人生で見たら誤差みたいなもんだし、先に進んでるお前はすげーってことになるんだ。自信持って生きろよ」
野ノ崎が顔を引き締め力強く告げると、ミミもその強さと同じ色でうん、と答えた。
この二人とこんな会話をするのもあと少しでなくなるのか。それを思うと、少し寂しくも思うが、この関係にいつまでもしがみつくのも成長のない生き方ということになる。
いずれまた、再会する日が来る。その時に、未来にいる自分を見せられるようになりたい。そんな感情が浮雲のように表れては微かに消えていく。
「そう言えば一宏、結局お前の妹どうなったんだ」
突然野ノ崎が僕に話を振ってくる。どうなったという言葉の意味があまりに抽象的で分からない。僕が黙っていると、言葉の意を汲めとばかりに野ノ崎が肘で軽く僕の胸を突いてきた。
「この一年で男子に迫られた数だよ。俺の予想じゃかなりの死人が出るはずだったの、覚えてるだろ?」
「ああ……それか。四月は割と凄かったけどそこから先はさっぱりだったな」
野ノ崎はそれを分かっていたのか、大きな息を吐きつつも笑顔を崩さなかった。
「成績優秀で教師からも守られてたら強引に迫る無謀な奴も出てこないよなあ」
「だよね。しかも男子の基準がカズ君になるんだもん。男子はみんな自信なくすよね」
「いや、僕を基準にしろなんて言ってないけど」
「周りからしたらそうなるって話だよ。それとも何だ、お前の妹、誰か男子好きになったとか聞いたのか?」
野ノ崎が小首を傾げながら僕に訊ねてくる。もちろんそんな話を聞いたこともなければ素振りも見たことがない。もし右左がその関係を隠しているのなら、なかなかもって芸達者だと言える。
そんな右左も、来年から一人だ。うまく好きな人でも作って、少しは楽をする人生を歩んで欲しい気はした。
「私は右左ちゃんよりも気になることがあるな」
「何」
「二宮さんのこと。これから一緒に頑張るんだよね?」
ミミは少し悪戯っぽく僕に微笑みかける。ただ僕はそれに笑うことが出来ず、硬くなる顔を隠せなかった。
その表情の機微に二人も何か気付いたのか、冗談めいた顔から一転、心配するようにじっと僕を見つめてきた。
「おいおい、何かあったのか?」
「……まあ、ちょっとな」
「そ、その、倦怠期とか? 普通にあることだよ、心配しなくても……」
「そういうのじゃない。この間も二人で出かけたし、そういう倦怠期っぽいって話じゃないと思ってる」
だったら、そう言いたげに二人が僕を窺う。今日くらいは、人葉さんのことを忘れたかった。それでも浮かび上がってくるくらい、僕とあの人の関係はこじれてしまったんだと痛感する。
僕は何度も手を開いて握って、口を結ぶ。その頼りない姿を見て、野ノ崎は力強く僕の背中を一度叩いた。
「一宏! お前、言ったよな。二宮がどんなに変な奴でも好きだって」
「……覚えてるよ」
「だったら何迷ってんだよ。お前が迷った分だけ二宮が不安になるんだぞ。だから、お前は二宮が好きっていう気持ちを普通に出しときゃいいんだよ」
野ノ崎に言われ、僕は得心した。僕は迷うことも許されない。神様さんが好きなら、そのことを真っ直ぐに出さなきゃあの人が辛い思いをする。
この間の休日も、人葉さんの事を告げたのに神様さんは帰る時間まで笑顔を崩すことはなかった。
もしかしたら、僕は彼女の強さや優しさに甘えすぎていたのかもしれない。彼女が言っていたように、僕を守るために必死になってくれている。僕は守りたいという気持ちを出していたのか?
そこに気付くと、僕は何となく、ここ最近の自分が情けなく思えた。
やっぱりどんなに人葉さんに目移りしても、一番目は神様さんだ。そのことをもっと強く言うべきだった。
「なんだ一宏、表情柔らかくなって」
「野ノ崎の言う通りだなって思って」
「別に特に小難しいこと言った覚えはないけど……本当にどうした?」
「たくさんの人と色々話して、言われたことはどれも違ったけど、根っこのところは同じだったんだ。それを複雑に捉えすぎてた自分がいた。そこをもうちょっと考えた方がよかったって思って」
僕はようやく気付いたように、さらりと答えた。すると野ノ崎は僕の頭をがっしりつかみ、ミミは懐でおかしげに笑ってきた。
「カズ君のいいところでもあり悪いところでもあるよね」
「そう、お前もお前の妹も難しく考えすぎなんだよ。もっと気楽に生きろよ」
「ありがと、出来るだけそういう風に考えるようにする」
僕達は繋がっている。たとえ生活の時間がすれ違って、声を交わらせることが出来なくても、地上のどこかで同じ時間を生きている。そのことを忘れなければ、いつかまた会っても、同じまま笑い合える。
僕が二人に感謝の気持ちを告げようとしていると、携帯が震えた。
電話でない。メールの短い振動だ。僕は「悪い」と一声かけてメールを見た。
送信者は神様さんだ。中身を見た。
『家で話したいから今日来られない? バイトなくて都合のいい日が今日くらいしかないから』
とある。彼女が話したいということは、何を切り出されてもおかしくはない。
でも、僕は後ろ向きな気持ちにならなかった。彼女のことが好きだ。そのことを真っ直ぐ告げれば、どんな困難も乗り越えられると、今なら信じられる。
僕は「分かった。時間は?」と返した。
「一宏、何のメール?」
「自分と向かい合う話」
「だからあ、そういうところがお前の堅苦しい部分だっての。もうちょっと軽く生きられんのかお前は」
「まあまあ野ノ崎君、カズ君なら大丈夫だよ。さっきの野ノ崎君の話するまで、カズ君どこか不安げだったのに、今はいつものカズ君に戻ってるもん」
ミミは喜色満面で僕の腕を引く。野ノ崎も根負けしたのか、そうだな、と呟いて僕の頭をまた掴んだ。
「一宏、一ついいか」
「何だよ」
「お前がここに帰ってきた時、お前、順調に行ってるようで何か虚しそうな顔してたんだよ。二宮と知り合ったって聞いた時、本当に不安だった。でも今、本当に充実した顔になってる。二宮と付き合ってお前、本当に変わった。……頑張れよ」
と、野ノ崎は直球で告げると、照れ隠しに笑って、教室の方へ向き出した。
「ミミ、帰るか!」
「えーせっかく学校に来たからもう少しいたい」
「邪魔になるだろ。一宏はどうする?」
「用事があるから、一人で帰る」
「分かった。じゃ、またな」
――またな。
そんな言葉が胸を打つ。そう、いつかではなく、また明日も会うような、そんな関係で繋がっている。そんなことを口に出してもらえると、心は温かくなる。
何気ないこと、それはとても大事なことで、時に自分で気付かなければその大切さを忘れてしまうものだろう。
だから僕は、何気ない日常にある、神様さんとのことをもう一度見つめ直したい。
僕は一歩を踏み出した。
冷たさの残る風が、空の光に混ざって温かさを寄こす。
春を好きな季節にするために、僕に出来ることを探そう。僕はようやく、迷わない道を見つけられた気がした。




