右左の誘い
それから僕の機嫌はすこぶるよくなった。野ノ崎やミミも「どうかした?」と訊ねてくるくらい、僕は毎日笑っていた。
委員長にも表向きには優しく接している。先日映画も共に見に行き、「また次も行きたい」と彼女に言ってもらえた。
右左はというと、本気で復学するつもりなのだろう、一晩中勉強している姿が散見された。深夜、喉が渇いて冷蔵庫へ向かうと、右左がちょっとしたスイーツを食べて栄養補給している場面に出くわした。何をしているのか聞くと「勉強してます」と元気よく答えられた。
神様さんに思い切ったことを言ってから、僕の周りが好転してきた気がする。それは僕の心もちの問題ではなく、現実のありようとして周りが好転してきたのだ。
最初は信じていなかったし、今でも彼女が神だとは思っていない。でも彼女は、人を幸せにする何かを持っているのだ。
家に帰って夕食を作っていると、机に置いてある僕の携帯が鳴り出した。この騒がしい特別な着信音は、間違いなく野ノ崎のものだ。
僕は鍋の火を止め、携帯に出た。
「よお、一宏、元気か?」
「……今日会った気がするんだけどな」
「ま、まあそう言うなって! なんか最近お前の感じよくなったってみんな言ってるからさあ」
そんな話、向こうですればいいのに。僕が眉をしかめていると、野ノ崎は調子のいいことをぺらぺらとまくし立ててきた。
「最近一宏が取っつきやすくなったとか女子が言ってて。でまあ、何て言うの、俺が会うセッティングをしようってことになってるんだな、これが」
ああ、この男はまたつまらない話を持ち込む。僕はうんざりした声で高崎にぼやいた。
「別にそういうのはいい」
「おい……お前まさかまだ二宮と……」
「だったら何だよ。あの人はあの人だ、別に関係ない」
「おい、さっきのは冗談としても、二宮は他人の人生振り回す奴だぞ。お前が心配で言ってるって何で分かんねーんだよ」
高崎の口調が鋭くなる。僕はその切っ先を刀身で受け流し、にこりと笑った。
「――とにかくだ」
「……ん?」
「……一宏、どうした?」
「いや、電波ちょっと悪くて。で、何」
「まあ……別にお前がどうこうしようが俺には関係ないけどよお、付き合うならせめて二宮変えるくらいの気概は欲しいな」
もはや投げやり。そんな風にしか捉えられない言葉が聞こえた。でもそれは、どうなってもしらない代わりに、介入する気もないと捉えられた。
ほんの少し、野ノ崎がいい奴に思える。そもそも、僕と神様さんは付き合っているわけではないから、その大前提が間違っているのだが、言っても意味のないことなのだろう。
「ともかく、俺は納得してねえからな」
「だから僕はあの人と付き合ってるわけじゃないって」
「恋人でも友人でもだ。入学していきなりクラスがぎすぎすするなんて最悪の状況、お前考えられるか?」
「僕はその状況を知らないから感じようもないね」
「屁理屈言いやがって。まあいい、お前がどうしてもって言うなら、俺を納得させろ」
どうして野ノ崎を納得させる必要があるのかは分からないが、野ノ崎が社会の一歩目だと考えると、乗り越えるのは悪くはない。
野ノ崎は最後に「じゃあな」と一言残し、電話を切った。そう言えば、あいつ何のために電話してきたんだろう。僕はしばらくして誰かと会うセッティングがどうとかいう話をしてきたんだと思い出した。
野ノ崎は顔は悪くないし、愛嬌があるからモテない道理はないのだが、どうもうまくいかないのだろう。
野ノ崎に足りないものは何か。きっと伝説の七種配合のスパイスだなと、僕はシチューのルーを割り入れた。
と、そこへ人影がふらりとダイニングに現れた。反射的に振り向くと、相変わらずの薄着をしている右左がいた。
「兄さん、夕食作ってるんですか」
「ああ、右左の好きなビーフシチューだ。この間も作った気がするけど」
「いえ、私大好きですから、嬉しいです」
右左のはにかむ姿に暗さはない。もしかして、本当に何か吹っ切ったのだろうか。僕は口をつぐみつつ、鍋をおたまで軽く混ぜた。
顔つきが柔らかくなったせいか、以前感じた薄幸の美少女という印象はやや薄れている。もちろん美少女であることは今も変わりない。ただあの物憂げな雰囲気は、男として守らなければという本能を突いてくるので、ある意味勿体ない。
「夕食、置いとくね」
「あの、今日は一緒に食べようと思ったんです。ここにいてもいいですか?」
鍋を見つめる僕の目が、点になった。最近、右左が自発的になってきたのは分かっていた。だがこうして食事を共に取りたいなど言ったこともない。
嬉しいことのはず。それなのに天変地異の前触れのような、妙な気味悪さを覚えてしまう。
「珍しいね」
「私が兄さんと一緒に食事をしたらおかしいですか?」
「い、いや……そうじゃないんだけど。避けられてた気がしてたから」
困窮する僕の声に、右左はふふと小さな笑い声を漏らした。
「少し前まで、怖かったんです。一緒にいること、話してもらうこと。でもそれじゃ駄目かなって思って」
右左の優しげな声が、僕の心の奥に入り込もうとする。僕はその言葉に、ある人を想いだしていた。神様さん、あの人の言っていることと似ている。
いや、それだけではない、神様さんの言ったことは、何度も右左の言葉や行動と重なることがある。
右左と神様さんの間に、何か相関性があるのか? 僕はシチューの中で揺れるジャガイモをじっと見つめながら、様々な可能性を思案していた。
「あの……兄さん、どうかしました?」
「え?」
「いえ、急に黙り込んだので心配したんですけど……」
「ああ、ちょっと考え事してて。気にしないで」
僕はいつも右左にかけていた優しい表情を作った。そう、右左にかけるべきはこの顔なのだ。右左は僕にとって唯一無二の特別な存在。神様さんでさえ及ばない存在。
自分に何度もそう言い聞かせているのに、頭の中の整理がつかない。僕が神様さんを思っているとかそういう問題ではない。右左と神様さんの、異様なシンクロニシティが心臓を殴りつけてくるのだ。
この妙な心境を悟られてはいけない。僕は右左に背を向けたまま、黙々とシチューを煮込んでいた。
「あの、兄さん」
右左が僕の名を呼ぶ。以前とても嬉しいこと、そう称したはずのことがびくりと、まるで何かが這い寄るかのようなものに聞こえる。
「どうした?」
「私、長い間近所でこっそり買い物してたんです。でも、たまには明るい場所で、ちょっと遠くに行きたいって思ったんですけど……」
右左が少し、気恥ずかしそうな声を上げる。肌をそっと撫でるような、完備で甘い声だ。
「それって、一緒にどこかへ買い物に行くって事?」
「はい、そうです。あの、嫌ですか?」
嫌ですか。そう訊ねる辺りに、右左の右左たる所以を感じる。神様さんなら行こうよと言うところなのに。
僕はまたシチューに目をやった。右左のことを考える時に、神様さんを比較に出す。神様さんのことを考える時に、右左を比較に出す。僕にとって本当に大事なのはどちらなのか、僕はだんだんと理解できなくなっていた。
僕はシチューを煮込む姿で、声を発さずにいた。右左が嫌いになったわけではない。神様さんとシンクロしているのが怖いわけでもない。ただ漠然と、右左から誘いかけられて生まれたそれが、以前委員長に誘いかけられた時のその気持ちに似ていたのだ。
「……ごめんなさい、やっぱり嫌ですよね」
右左が申し訳なさそうに呟く。僕はゆっくり振り向き、笑顔を見せた。
「右左と一緒に街を歩けるなんて、幸せだ。どんなところを巡れるかな」
僕が大仰に言ってみせると、右左は嬉しそうにはにかんで俯いた。
「そういう風に、優しく言ってくれる兄さんがいてくれて、私こそ幸せです」
望んでいた言葉。それが手に入ったのに、僕は手放しで喜べなかった。僕の心がすでに神様さんに傾いているのか? そうだとも思えない。ただ何となく、本当に漠然と、変わりゆく右左に、僕はどう思えばいいのか分からなかった。
右左は恋する少女のように、両手で頬杖をつきながら、僕の料理する姿を目を細めて見つめている。ここへ戻ってきた日、僕はこんな右左の笑顔を見たいと思っていた。もしかすると叶わないかもしれない、だから僕が幸せにするんだと誓った。
なのに、どうして僕は困惑しているのか。右左は嫁に出すのが嫌なくらいの美少女だ。きっと神様さんだって、右左を大切にしろと言うはずだ。
唇に、ふと生温かな感触が蘇る。神様さんの、薄い桃色の唇が僕のそれと触れ合った、生温かさだ。腕を首に絡ませ、豊かな双丘が僕の平べったい胸に押しつけられ、唇が離れた時、僕達の吐息は混じり合った。
もしかすると僕は神様さんへ義理立てをしているのか? いや、そんな感情ではない。彼女は右左を幸せにしてくれた恩人だ。そして何より、彼女から僕は彼女を好きになってはいけないと釘を刺されている。
そう、僕の幸せとは右左の幸せだ。僕は振り返って、右左に訊ねた。
「右左、いつ行く?」
「今度の日曜とかどうですか?」
「そうだな、ちょっと他の街に出て、服とか買おうか」
「そ、その……私、大丈夫でしょうか」
「大丈夫だよ、右左はいい子だからな」
僕が微苦笑を交えながら話すと、右左もおかしげに笑った。そう、僕は神様さんに恋をしているわけでもない。それと同じく、右左に恋をしているわけでもない。
ただ少し、僕の思っていたことと違う。
その正体が、蛇の頭のように、うねって暗闇から現れようとしていた。