3.7/14
空は澄んでいて、春先の空気をわずかばかり寄こしてくる。
「お待たせー」
十時。改札の向こうからかかってきた声に、僕は相好を崩して手を挙げた。すると向こうから駆けてくるその人も、同じように手を挙げ返してくる。
「こんにちは」
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」
と、向こうから走ってきた彼女――そう、神様さんは笑顔を見せながら早速僕の側にぴったり付いた。
今年は寒さが厳しいせいか、上に着ているコートも厚めだ。ただいつもバイトで着てくる服よりも明るいパステルカラーでまとまっていて、今日という日を楽しみにしている雰囲気を見せてくる。
「全然待ってない。ていうか五分遅れてるだけだよ」
僕が苦笑して返すと、神様さんは腕を組みながらいやいや、と返事した。
「五分の遅れでも遅刻は遅刻。ていうか、今日は一宏君を祝う大切な日なのに早速失態を見せたのはよくない」
「いや、あんまり考え込まなくていいよ。神様さんと一緒にいられるのは本当に嬉しいし」
「私も楽しみにしてたんだから。何か気付いたらお姉ちゃんに一宏君取られたよね」
彼女の笑顔が僕の心に突き刺さった。バレンタインにチョコをもらったわけでもないし、こんな風に過ごす予定があったわけでもない。
ただ、心の底で一線を越えているのは自分でも分かった。
神様さんは僕のこんな思いを聞いたらどんな顔をするだろう。幻滅するかな。別れようって言い出すかな。
でもそれも全部受け止めるしかない。神様さんのことを本当に愛しているのなら。
「……一宏君、何か調子悪い?」
僕が無言になった瞬間、彼女が心配げに下から僕の顔を覗き込んできた。僕は慌てて手を横に振って否定した。
「何だろう、ちょっとだけ気にしてることがあって」
「大丈夫? まだ受験疲れ残ってるんじゃない?」
「いや……受験終わったのかなり前だし、そんなことないよ。……ただ、ちょっとだけ気にしてることがあるんだ」
歯切れの悪い言葉でぽそぽそ呟くと、神様さんは手袋を脱いで、そのきめ細やかな肌の手で僕の素手をぎゅっと握ってきた。
「何があっても、私は一宏君の味方だよ」
「……」
「無理矢理言えなんて言わない。言える時が来たら言って。だから、一宏君も私を側にいさせてね」
と、彼女は柔らかく表情を崩した。
僕の心の中に罪悪感が過ぎる。でも、彼女は僕を信じてくれている。僕を信じて、僕のことを心の底から愛してくれている。
この人を悲しませたくない。そんな思いが心の底からふつふつと沸き上がる。それと同時に人葉さんを振り切れない思いが反発するように浮かび上がる。
ここまで来て迷っている場合ではない。右左に言われた失敗に立ち向かえる自分を見つけるために、今日一日で一歩進み出そう。
僕は神様さんの手を引いた。神様さんとこんな時間を過ごすのは久しぶりだ。だからこそ出来ることをこなしていこう。
駅舎を抜け、息を吸う。冬の冷たさと春の陽光を包み込んだ空気が僕の胸に季節の変わりを教えてくる。その青空に招かれ、僕は街を歩き出した。
道行く人は明るい顔をしている。それは今日を乗り越えろと僕に痛切に教えてきた。
「どこ行く?」
「どこでもいいよ。神様さんも何か行きたいとこある?」
「私は特にないかな。一宏君の側にいるのが楽しいしー」
と、彼女は少し悪ふざけするように僕の腕に組み付いてきた。柔らかな体が僕の体にしなだれかかる。困った人だなと僕は苦笑しながら歩幅を狭くした。
「……受験合格、おめでとう」
腕に組み付いた彼女が声を潜めるように呟く。服にくぐもったそれは、僕の胸の中で何度も反響した。
「君がね、何回も追い詰められてるような顔してるの見てたら、自分の生き方に巻き込んだのが辛くなった。私の事なんて気にしなかったら好きな所に行けたし、バイトだってしなくて済んだと思う」
「……まあ楽じゃなかったよね」
「でしょ? だから合格出来なくてもこれから私が支えるんだっていっつも思ってた。結局受験は大丈夫だったけど私の中で君を守ろうと思ってるのは変わってないよ」
彼女の言葉が何度も響きながら体中を巡っていく。
僕は神様さんをどう思っているんだろう。彼女を見つめてみた。
――やっぱり、好きだ。
もし今日別れるなんて話になったら、当分の間立ち直れない。それはよく分かる。
右左は僕に失敗してもいいから動けと言った。それは何となくは分かる。でも全員が幸せになれる結末なんて、そんな簡単に手に入るのだろうか?
それが分からず怖くて、彼女の手を僕は強く握り続けた。
「そう言えば」
神様さんが僕の腕に自分の胸を押しつけながら突然呟いた。
「どうかした?」
「お姉ちゃん、引越し先でうまくやれるのかなって」
そんなことか。僕は神様さんを少し抱き寄せるように腕で包み、ゆっくりした歩調で先へと進む。
「大丈夫だよ」
「そうかな。お姉ちゃんここ一年は君のことがあったからモチベーション高かったけど、離れて暮らすってなったらそういうのもなくなるし」
「僕がモチベーションってことはないと思うよ」
「ううん、家で私が一宏君の話してたら、お姉ちゃんもあれこれ楽しそうに話してたし。お姉ちゃんも一宏君のこと本当に好きなんだなあって思って見てた」
僕は思わず彼女の顔を見た。下から優しく微笑んでくるその姿に、僕の喉は締め付けられた。
神様さんは知っていた。人葉さんがどれだけ僕のことを思っていたか。そしてそれを受け止めてなお好きなように思わせていた事実が、こうしようと決めていた僕の心をミキサーにかけたように砕いていく。
何か言わなきゃ。そう思っているのに言葉が見つからない。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はその豊満な胸を僕の腕に押しつけながら歩いていく。
「……神様さん、あの」
「どうかした?」
「……何でもない。その、バイトで会う神様さんも綺麗だけど、今日も綺麗だなって思って」
「何それ、お世辞?」
「そうじゃないよ。好きな人に好きって言える関係、大切にしたくて」
僕の言葉は静かで、雑踏の中に消えそうなほどか細かった。
それでも彼女はその言葉をしっかりと聞いていたのか、頬を腕にこすりつけながら僕と同じ静かだけど力強い声を返した。
「私も大切だよ、君のこと。ずっと側にいたい。側にいて、幸せになりたい。幸せになりたいし君を幸せにしたい。そう思う気持ちは他の誰にも、お姉ちゃんにだって負けないから」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。君がモテるのは分かってるから。でも、私のことは特別にしてほしいかなって時々思うよ」
「特別、か。そのつもりだけどまだ足りてないかな」
「全然足りてないっ。私もどうすればいいか悩むことも多いけど、もっともっと、色々お互いに踏み込んでいくべきだと思うんだ。だから、私に隠し事はなしにしてね」
その言葉を聞いて、もしかしたら彼女は僕の抱えている悩みを知っているのではないかと考えさせられた。
人葉さんを振り切るのは簡単なのに、どこか後ろ髪を引かれる思いで捨てきれない。二人同時に愛するなんて、都合のいい話だと思う。そしてそれを神様さんがどう思うかなんて、全く分からないのにああだこうだと考える。
春めいた温かな日差しが僕の視界を遮る。
二人でいること。それを考えてまた僕は悩む。




