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リトルフォーチューン―あるいは引きこもりの妹の話であって―  作者: やまみひなた@不定期更新
3.7/恋と愛
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3.7/13

 何か虚しい感情ばかりが心を過ぎる。

 学園の中もかなり人の整理が進んで、受験が終わりつつある校舎に僕と同学年の人気はまばらだった。

 何気なしにここへ来て、ぼんやりと時間の逃避に走る。今日ももう夕暮れ時になっていた。

 部活に勤しむ人達がいる。僕はそんな青春の塊に熱を持ったことはない。だから彼らの感情が今ひとつ分からない、とちょっと前には言っていた。でも今、バイトに身をやつしながら大切な人の側にいると、そう口にした自分自身が何処か虚栄を張っていたのだと理解させられる。そして結局僕も、普通の人が一生懸命普通の枠からはみ出たかっただけなのではないか、そんな風に人生を思い返していた。

 委員長は受験の方は順調のようだ。学校で会うことはなくなった。そして恐らく、彼女との縁はここで一旦終わるのも分かる。

 委員長がどうか、幸せなこれからを歩んでいけますように。僕は一年と少々通った学校のグラウンドの端で空に祈った。

 ミミも野ノ崎も何だかんだで進路を決めた。いや、僕も進路は決まったのだから、何か考える必要はない。

 そこに、人葉さんへの思いが引っ掛かる。僕は彼女にどうしてやりたいのか、それが今も見えない。

 憐憫めいた感情でただ側にいること、それは彼女を余計に不幸にするだけと分かっている。ならば僕に出来ることは何があるのか……。

 考えれば考えるほど、思考はどうしようもないネガティブのるつぼにはまって、僕の喉を圧迫する一方だった。

 今週の木曜、神様さんと僕の双方がバイト休みだ。その日、久しぶりに一緒に街へ出かけることになっている。

 人葉さんのことばかり考えていて、神様さんのことを少し忘れていたかもしれない。それを思うと、自分の中にあった人葉さんとのネガティブな感情の交わりが少し忘れられ、ちょっとした笑顔を取り戻させてくれる。

 特にやることのない自由の身はもしかすると人生で初めてかもしれない。この期間に何か出来ることはあるのかな、と空を見上げても、野ノ崎やミミと別れて一人になったこの学園での立居振舞を思うと、肌にまとわりつく温度同様所在なさばかりが過ぎる。

 心が温かくならない。その原因は分かっている。

 分かっているのに、自分の中でどう折り合いを付ければいいのかが分からず、また無駄に逡巡してしまう。

 ここで立ち止まっている意味もない。家に帰るか。部活に勤しんでいる学生達がひしめくグラウンドは眩しい。僕は自嘲気味に微笑んで歩き出した。

「……兄さん?」

 僕の視界の外から、そっと声が掛けられる。

 何だ、そう思った時に声の主が僕の視界に入ってきた。

「やっぱり兄さんだ」

 ぼおっとしていた僕の前に現れたのは、右左だった。僕は誤魔化すように笑いながら、無言を貫いていた。

 僕のその挙動が不思議なのか、右左は腕を組みながら僕の目を覗き込んできた。

「兄さん、部活の人達を見ながらずっと座ってましたけど、何かありました?」

 僕はその指摘に思わず「え?」と間抜けな声で返答した。そんなことをしていた覚えはないし、そもそも部活の生徒を眺めているなんて不審者そのものだ。

 嘘だろ、そう言いたげに僕は右左を見つめたが、右左は肩を落としながら大きなため息をこぼしていた。

「何か力のない後ろ姿でしたし、もしかしてって思ったんですけど……」

「いや、右左を心配させたくてここにいたわけじゃないんだ。ごめん、帰るよ」

 僕は右左に頭を下げて立ち去ろうとする。

するとその僕の腕を右左はか細い腕で軽く引いてきた。

「兄さん、時間ありますよね」

「……まあ受験終わったし、ここにいてもやることないはないよ。そもそも休みだし、右左の面倒見る以外で来てないし」

「じゃあ、せっかくですから一緒に校舎巡りでもしませんか? 最近、兄さんとしっかり話した覚えないですし」

 右左は僕を見つめていた。優しく受け止めるような、包容力のある目で、それはいつもなら僕が右左に見せるものだ。

 それが逆転している。僕が抱えているもやを見透かされているようで、正直なところを言えば情けなくもあり、やめてほしいと願うようなものだった。

 ただ、今は右左と雑談をすれば一時的に何か鬱陶しいことを忘れられるかもしれない。右左を利用するような形だが、すがれるものにはすがりたい。そんな些細な希望に賭けて、僕は右左に引っ張られるように歩き出した。

「もうちょっとしたら兄さんがここにいなくて、一人で過ごす日々が始まるんですねー」

 右左は背伸びしながらそんな言葉を口にする。

 でも、以前ならともすれば悲壮感が漂いそうなその後ろ姿に、弱さはない。むしろ力強ささえ感じさせられる程だった。

 右左は振り向く。その背筋がしっかり張った後ろ姿を見て、僕は兄としての自分の終わりを見た。

 もう右左は弱くない。みんなに求められる楠木右左を続けても、それを苦にするわけではない。自分の進む楠木右左が、皆の理想とする楠木右左であることを分かっている。

 教えていたつもりでも、いつの間にか自分で学び取る術を覚えていた。右左の成長を見つめ続けていたつもりでも、近すぎてその輝きに気付かなかった。

 こんなに幸せなことが側にあった。それなのに、僕はまだ悩んでいる。右左と対比して浮かび上がるこの弱さが嫌になる。

 右左の背中を一度見て、僕は辺りに目をやった。冬の透明で冷たい空気を思い切り吸い込む。喉と肺が冷えて、心の奥にある微かな熱が呼び起こされる。

「右左、土川先生とこの間話したんだけど、来年の生徒会の準備うまく進んでるんだね」

「はい。二年が会長っていうのも変な話ですけど、元の年齢で言えば三年だから、特例で何とでもなるって言ってくれる先生が結構いてくださって」

「成績と年功序列、か」

「兄さんが生徒会に入っておけばよかったのに」

「成績がいいだけじゃ生徒会に入っても足引っ張るだけだよ。人葉さんも学年トップだったのに生徒会とかそういうのからは距離置いてたし」

 と、呟いた瞬間、僕はしまったと顔をしかめてしまった。

 どうして今、この会話の中で必要のない人葉さんの名前を口にしたのか。

 駄目だ。あの人に気持ちの色んな部分を持っていかれている。

 右左はそんな僕の動揺を気取ったのか、少し微苦笑を交えながら、くるりと振り返った。

「兄さん、やっぱり人葉さんのこと気になるんですね」

 驚くことに、右左は僕を責めてこなかった。

 僕はそうだね、と頷いてから、先ほどの右左と同じように体を伸ばしながら思いの端を紡いでいった。

「好きか嫌いかは分からないんだけどさ、あの人から色々言われるのもそんなに気分が悪くなくて。でもそれって浮気じゃないかって双葉さんに言われたら否定出来ないかなって悩み中」

 僕の悩みは体に出るのか、凝っていた体を更に伸ばすと、ちょっとだけ気持ちが楽になった。

 右左はそんな僕の瞳を一度捉えると、真っ直ぐ前を向いて歩き出した。

「私は人葉さん好きですよ」

「意外」

「意外じゃないですよ。自分のことだってあるのに、私に勉強を丁寧に教えてくれたり学校の悩みとか相談に乗ってもらってましたし。兄さんは兄さんで大切な人ですけど、人葉さんも私にこんな人がお姉さんっていう存在なのかなって教えてくれた人でした」

 確かに、人葉さんは右左に勉強を教えていた。押しの強い人葉さんが、右左と一緒にうまくやれるイメージは最初はなかった。でも右左から話を聞いている限り、自分を押しつけず、僕に見せる二宮人葉の姿ではなく、右左に合わせた姿で接していた。

 人葉さんは誰からも好かれる人だ。そんな人を僕の弱々しい思いで振り回していいのだろうか。僕の中にまた落胆が過ぎった。

 突然、右左が立ち止まった。そのまま、僕の制服の端を引く。

 右左は僕をじっと見つめていた。そして、見つめたまま何も言葉を発さない。

 それの意味するところが分からなくて、僕は立ち止まり続けていた。

「右左……」

「兄さんはちょっとひどいです」

「ひどい……か」

「だってそうじゃないですか。もう自分の気持ちに気付いてるのに、気付かないふりをしてるんですから」

 僕はその言葉に黙りこくってしまった。多分そうだろう、そう思いたくない気持ちが確証に変わった。

 僕は神様さんのことが何より好きだ。でもそれには比肩しなくても、人葉さんに寄せられた好意を捨てたくなくて、何より神様さんと瓜二つの姿をしたあの人が他人のものになるのを許容出来ない。

 それはきっと、人葉さんのことも好きだという意味だと、右左に突きつけられた言葉から理解出来てくる。

 理性を保てる方だと思っていたのに、案外だらしない。そのことが何より自分を失望させて、人葉さんどころか神様さんを守り切れるのかどうか不安にさせてくる。

 僕は青空を見上げてため息を吐いた。白い吐息が周囲に溶ける。すると右左は大きく手を広げながら、僕と同じように空を見上げため息をこぼす。同じような白いもやが生まれ、辺りに消えていった。

「兄さん、どうして解決出来ないのか分からないんですか?」

 右左はそんな言葉を告げると、目に力を込めて僕をしっかり見つめてきた。

 さっきまでの優しいだけの目ではない、厳しさも含んだ直情の目だ。

「自分の思ってることに嘘をついてるからいつまで経っても後ろ向きなんです。私がこの学園に戻る前、ずっと思ってたことです」

「自分の……でも人葉さんを……」

 僕は弱気な言葉を吐こうとする。するとすぐに右左が僕の腹部を肘で突いてきた。

「開き直ればいいんです」

「開き直る……」

「開き直るって言うと聞こえは悪いですけど、思い切りの良さとか、真っ直ぐ向かうとか、言葉が変わるだけでイメージはどんどん違うものになります。あの頃の私になかったのも、そういう開き直りでした。一回失敗したんだから、どれだけ失敗してももうマイナスにならない、そういうのです。兄さん、失敗したことがないから失敗が怖いんじゃないですか?」

 右左は僕の嫌な所を的確に当ててきた。失敗なんていくらでもしてきた。そう右左に反論したかった。だが右左の言うような「致命的な」失敗というものを僕はした覚えがない。

 ラッキーだったのか、失敗する前に逃げていたのか。そんな僕の思考を右左は鋭く読み解いていたのだ。

 開き直る。簡単に言われたことはあまりにも難しい。人葉さんを迎え入れるとして、神様さんとの関係はどうなる?

 最初の一手から難しいこと。そう言いたくなって、隣にいる右左の切れ長の目を見つめた。

 右左は何も言わず僕をじっと見つめ返してきた。その目にか弱い右左のイメージは見て取れない。行けと強く主張するような鋭い眼差しがそこにある。

 ……確かにそうだ。

 僕は何を迷っていたのだろう。結ばれる結ばれないの話は別として、僕の曇った先行きの見えない思いでどれだけ周囲を惑わせてきたんだろう。だから、しっかりとまず進むことが必要なのではないか。

 僕は右左の頭をぽんと軽くはたいた。でもその表情はいつものように明るいものではなく、硬いものだと自分でもよく分かる。

「兄さん、あまり気負いすぎても駄目ですよ」

「気負いか。そうなるのも仕方ないかもしれない。でも右左の言う通り、失敗から逃げてたらどうしようもないのも分かる。……どうなるか分からないし、全部失うかもしれないけど頑張ってみる」

 僕がそう言うと、右左は頭に乗っている僕の手をそっと掴んで、微笑を浮かべた。

「大丈夫です。私の兄で、双葉さんや人葉さんが好きになった人ですから。それがあるから、私はうまくいくって信じられるんです」

 そんなものが根拠か、そう言いたくなった。でも案外こういう時は、そんな今までの積み重ねが大きく響いてくるのかもしれない。

 人葉さんは僕から離れる決意をした。

 完全に離れた関係になるまでもう時間がない。

 神様さん、人葉さん、二人を納得させられる術があるんだろうか。いや、それを嫌でも見つけるのが今の僕に課せられたことだ。

 どんな未来が待っているのか、分からないけど頑張ってみよう。

 空は分厚い曇り空。寒風だっていくらでも吹く。

 もうすぐ春が来る。新しい季節、そして人葉さんが嫌いと言った季節だ。

 強い風を全身で受け止めながら、僕は新しい何かの到来を予感していた。

 たとえ、それが終わりに向かうことでも、僕が失敗を恐れて挑まない限り、多くの人を不幸にしてしまう。

 僕は今一度向かうことを、じっと見つめ続けてくる右左の大きな瞳に誓った。


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