3.7/12
翌日、僕は早起きしてパソコンのラックを組み上げた。簡易的なそれはあまり苦労するものでもない。
人葉さんが遅れて起きてくる。彼女は下着姿が恥ずかしいのか、着替えを手に早足で風呂場の方へ向かっていった。
着替え終わった人葉さんは昨晩の下着姿が嘘のように、分厚い服装で僕の前に現れた。そこには色はない。けれど、僕と彼女の間に、歪な傷が付いていたのは、何も言わずとも感じられた。
「一宏君、ありがと。これで新生活送れる」
「昨日洗剤とかも買いましたしね。家具も揃ってるし……」
「うん、まあうまく生活出来るといいかな。一宏君も双葉泣かせないように頑張るんだぞ」
と、彼女は玄関先まで歩んだ。僕もその後に付いていく。
「こんなにしてもらったから少しくらい謝礼出した方がいいかな」
「……人葉さんには受験勉強ずっと付き添ってもらってましたから。家庭教師の時給を考えたらそっちの方が高く付きますよ」
「そっか。じゃ、私も実家に戻る必要があるし、一旦帰るか」
彼女は扉を開け、駐車場へと向かった。二月の風はまだ冷たく、痛みを与えてくる。
この痛みは痛覚から来る痛みなのか、それとも心にあるひびから来る痛みなのか。
考えても仕方ない。僕は彼女と共に車に乗った。
彼女は車に乗り込むと僕の目を一瞥してラジオに手を伸ばした。
ラジオからは普段テレビではあまり聞き覚えのないパーソナリティーが軽妙なトークを飛ばしている。
ああ、僕の知っている車に乗る人の姿だ。車という閉鎖空間の中で、大きな世界に通じない自分の世界を頑なに守っている。それがいい悪いではなく、心を閉ざす人葉さんの今の姿が流れる景色に重なるのだ。
「ねえ、一宏君」
信号で車を一旦停めた人葉さんが僕を見ずに声をかける。僕はどうしたんだろうと彼女の横顔を見つめた。けれどその視線には答えを返されず、違う質問を寄こされた。
「一宏君は春って季節、好き?」
予想も推測も出来ない、僕の脳内には思い浮かばなかった不思議な言葉だった。
そうですね、と前置きをして僕は淡々と返した。
「好きでも嫌いでもないです。あんまり季節に感慨を浮かべない方なんで」
すると彼女はしばらく黙ってから、口元を少しほどいた。
「私ね、春って一番嫌いな季節」
「……そうですか」
「春はね、別れとか頭を整理する季節。そう思わない?」
「いや……まあ年度のスケジュールがありますからそう言われるとそうかもしれませんけど」
「仲いい友達とかいないし、別に何かあったわけでもない。でも春って季節はスタートって言うより冬に到達したゴールの次にあるそれまでの終了を痛感させられてさ。どう頑張っても好きになれないんだ」
彼女のおかしげに目尻を下げる姿に悲壮さはない。ただ好きになれないという感情は諦観したように下げた口角から伝わってくる。
春か。僕にとってどんな季節だっただろう。僕は遠目で車の外に見える、街から郊外に変わる緑の光景に心の濁りを消そうと託していた。
「昔からそう。春って好きなテレビの番組が終わったり、人間関係リセットしたりね。でもそれより嫌いだったのは積み重ねたものを流されたことかも」
「……でも終わらない関係もありますよ。僕と双葉さんがそうだって言えるみたいに」
「私ね、双葉見ていっつも疑問に思ってた。才能なんて有り余ってるのに何躓いてるんだろうって。毎年毎年春になると失敗繰り返して、失敗の先に辿り着いたのが高校の中退。今でもよく覚えてる。君と双葉が出会った頃のこと。毎日無言で暮らして、この子大丈夫かなって見てた。でも手を差し伸べることなんてしなかった。自分も精一杯で生きてたから。それで高校辞めた双葉と喋ることもなくなって。もうどうしようもないなって思って横目で見てたら、急に笑顔が戻って。何だろうって思ってたらまた曇って。なんだ、気の迷いかって流してたら突然スマホで撮った写真見せてきた」
「何の写真ですか?」
「君のに決まってるでしょ。友達出来たって言ってたけど、男の写真を紹介するタイプでもないからすぐにああ、初恋の相手ようやく出来たんだって気付いた。その時だった。周回遅れで眺めてた双葉が、一気に巻き返して私を逆に周回遅れにしたの」
彼女は静かにアクセルを踏み込む。感情の起伏はない。事実を静かに告げるその様は、痛いくらい伝わる。でも僕に何かを授けるような知恵もない。どうすれば格好がつくのだろう。それが分からず、僕はバックミラーに映る人葉さんの目を何度も伺いながら避けていた。
「最初は何とも思わなかった。でも悩んだり引っ込んだり、突然元気になったり、そういうのを繰り返してるのを見てたらすごく羨ましくなって。それで君にちょっかいかけたら大失敗。まさかここまで引きずる人になるとは思わなかった」
避けていた人葉さんの瞳がちらりと目に飛び込んだ。潤んでいて、今にも泣きそうな、でもドライバーとして運転を優先する姿だった。。
そう、僕は彼女をここまで追い詰めていた。それなのに何もしない、何も出来ない無責任な男に成り果てていた。人葉さんを裏切りたくないと口で言ってたのに、僕は全く顧みることなく自分の日常を自分の余裕の中で生活していた。そこに彼女への必死な思いなどなかった。ただ自分の快楽さえあればいい生活だったのかもしれない。
「双葉はこの春にまた学校に戻って将来に向けた勉強を始める。君も。私は何があるのかなって。それで最近考えるんだ、幸せって何かなって」
「難しいですよね、幸せの定義」
「うん、難しい。好きな人と結びつくのが幸せってのも、確かにそうなのかもしれないけど結局それも恋愛の果ての種の保存って考えると生物の本能から来るものかもって思う。じゃあ社会的に成功することかなって思ったらそれはそれで名誉とか成り上がりとかに根ざすものかもしれないって思ったりね。……そう考えると、自分の幸せがどこにあるのか分からなくなってきてね」
「人葉さんはどうして女子大を選んだんですか? 人葉さんならどんな大学でも行けたはずですよ」
「……逃げたのかも。君以外の男と付き合いたくない自分、双葉に負けた自分を認めたくなくて。でもそれもほんと、意味のないモラトリアム以外の何でもなくて馬鹿だったかなあって思う」
人葉さんは力なく笑った。僕はその言葉に笑えず、聞くことを避けるようにオーディオから流れる渋滞情報に耳を傾けていた。
幸せ。ある時には当たり前で、ない時は何だろうと追い求める。
見つからない時は人葉さんのように、それが何なのかも分からず雲を掴むようにもがき苦しむ。僕と人葉さんにとって、共に見つけられる幸せの形って何だったんだろう。神様さんと一緒にいる未来を、人葉さんに眺めてもらうことなのだろうか。
昨晩僕が流した涙は、どんな意味を持つのか。今ここで何の結果も残していないのだ、何の意味もないのは明らかだ。そんな失笑を漏らしたくて、でも失笑も冷笑も漏れなくて僕は自分に嫌悪の切っ先を心の端に突きつけてばかりだった。
「でもね、幸せではっきり分かることがある」
「何ですか?」
「結ばれなかったけど、君と知り合えたのはとてつもなく幸せなことだったって。君と知り合って知らなかった世界をたくさん見せてもらえた。恋愛なんて興味なかったのに、毎日きらきら光ってて、凄く充実した日々を過ごせた。そんな感情が自分にあるんだって分かっただけで……幸せだった。ありがとね」
と、彼女は前を見つめたまま、微笑んだ。その目尻に涙を溢れさせながら。
僕は押し黙った。僕の一番見たくない姿を突きつけられている。絶対に、僕がリカバー出来ない姿を見せられて、僕の首を真綿で締め上げるように少しずつ苦しめていく。
そこに即効薬はない。僕が「何もしなかった」から苦しんでいる、ただの因果応報がそこにある。
彼女を救いたい、それは本当に「彼女を」救いたいなのか? 僕が楽になりたいから何とかしたいだけじゃないのか?
そんなことを考えれば考えるほど舌がひりつくような感覚が強くなり、視線は浮つくような泳いだものに化けていく。
僕達はそれから、家に着くまで会話を交わらせなかった。
春、始まりの季節が近づいているのに、僕は人葉さんの言うように歯切れの悪い終わりに感じるもどかしさを覚えていた。
その日の空は、僕達の気持ちとは裏腹に、冬らしい高く澄んだ青と太陽の眩しさを見せていた。




