3.7/9
学年末試験もほどほどに、僕は家とバイト先を往復する生活に戻っていた。
今日は年に一回のバレンタインデーだ。ご主人様お嬢様方に出す料理も、チョコレートを基本としたものばかりだ。
ココア、パフェ、ホットケーキの上にチョコレートアイス……。さすがにカレーにチョコレートを隠し味で入れるなんてことはしていないが、どれもこれも食欲をそそるものばかりだ。
食事を終えた旦那様が席を立つ。僕はレジに向かい、近くに置いてあった安い一口サイズのチョコレートを渡した。
「男の子にもらってもあんまり嬉しくないなあ」
苦笑されながらも、それを受け取ってもらえる。僕としては義理だと分かっていても神様さんに愛想を振りまいてほしくない。矮小な男のみっともない嫉妬だと分かっていても、僕はこんな風に動いてしまう。
この旦那様がお帰りになると、僕は少し休憩時間に入れる。ため息を吐きながら僕はバックヤードに戻った。
バレンタインデーだからといってそこまでお客さんが増えているわけではない。ただ店の雰囲気がいつもより温かな雰囲気がするのは確かだった。
僕が座っていると、扉がノックされた。僕が立ち上がって扉を開けると、もじもじしたような顔付きの神様さんが立っていた。
「あれ? 神様さん休憩時間だっけ?」
「ちょっと抜け出してきただけだから。はい、これ」
と、彼女はぶっきらぼうに僕に何かを突き出してきた。包装紙に包まれた小さな箱が目に飛び込んできた。
「これ……チョコレート?」
「うん。自分で作るのよりもお店で買ったのの方が美味しそうだったから」
「……ありがとう!」
彼女を見ているだけで僕の顔が明るくなる。じっと視線を向けられていた神様さんは照れくさくなったのかくるっと回って客席の方へ戻っていった。
こんな風に、自分が一番大切と思っている人から本命チョコをもらえるのなんて、どれだけ幸せなことだろう。僕は目を閉じ、この二年ほどのことを思い出していた。
僕は置いてあったスポーツドリンクを飲むと、もう一度気合いをいれて客席に向かった。こんなに僕が思い思ってくれる人と一緒にいられる。これ以上ない幸せだ。
店頭に向かうと、レジでチョコを渡す係ははきみかさんに変わっていた。流石手慣れたもので冗談を挟みながらチョコレートを渡していく。
「うーん……僕の思っていた理想通りの店になってきてくれたなあ」
執事長は目尻を下げながら静かに語る。どんな店を目指していたのかはまだ知らない。でもその一助になれたとしたなら、僕にとっても嬉しいことだった。
僕がカウンター越しに動いていると、執事長が手招きしてきた。
きょとんと僕が執事長を見つめていると、執事長はそっとマグカップを差し出してきた。
「今日もありがとう。人気も少ないしココアでも飲むかい?」
「あ、あ……済みません、気を遣わせちゃって」
「君にはいつも気を遣ってもらってばっかりだからね。双葉くん、君の分も用意してるから一緒に飲んで」
と、彼はきみかさんに全てを託して僕と神様さんに休憩の時間を与えてくれた。
さっきチョコレートをもらったのに、何だか気恥ずかしい。
神様さんと目が合った。ぎこちない苦笑が漏れる。何も言わず、ココアに口づけた。熱い。でも甘さがしっかり表れてうまい。
神様さんは僕の横顔を見ていた。でもそこに緊張はなく、柔らかく笑む恋する少女の姿が見えた。
こんな仕草を見せられたらますます好きになってしまう。僕は照れ隠しに視線を逸らした。
仕事中なのに、気を遣ってもらって恋人同士の一時に入り込む。お客さんが少ない今だからいいけど、この姿で近づくことに気恥ずかしさも覚える。
何も言わず、ココアを飲み終えた。ここで恥ずかしがっていても仕事にならない。僕は神様さんににっこり微笑んでから、接客に戻った。
今日という日を楽しみにしている人がたくさんいる。僕目当てで来る人なんて少ないと思うけれど、僕は僕で何か出来ることがありそうな気がする。
これから先も、このメイドカフェで働き続ける。花屋さんを営む日まで、頑張らなきゃいけない。
これからのことが色々と脳裏に巡る。その中に過ぎる一抹の不安が僕の心の片隅にいつまでもこびりついていた。
バイトの帰り道、僕は神様さんと並びながらバレンタインデーの街を歩いていた。
さすがに夜ともなるとチョコレートを売ってるような店はほとんどなくて、嬉しそうに歩いているカップルばかりだった。
そこでホテルに入っていくカップルなんかを見ると、途端に気恥ずかしくもなるのが嫌なところだ。
「一宏君、受験本当に終わったんだね」
神様さんが白い吐息を吐き出しながらそっと呟く。実感がわいていなかったが、それは事実だ。僕はああ、と答えた。
「入学金と授業料振り込んできたから晴れて大学生だよ」
と、僕が淡々と呟くと、彼女は僕の腕に組み付いて頬をこすりつけた。
「凄いな。自分でそういうお金用意出来るんだもん」
「趣味がなかったからいらないお金はずっと貯金してた。だから再来年分くらいの学費は働かなくても何とかなりそう」
そう告げると、神様さんは僕の目を下から窺ってきた。手袋越しの手の熱さが強く感じられる。
「じゃあどうしてバイトしてるの?」
「働かないままで一応四年間で大学卒業出来るわけでもないし、神様さんの側にいたい。それが一番の理由」
素っ気なく、本音の部分を話す。すると神様さんは小首を傾げながらぽそりと呟いた。
「そんなに私、隙があるかなあ」
「隙がない人だと思うよ。でも、やっぱり知らないところで口説かれてるのとか見たら腹が立つし」
「私ここのバイトで口説かれたことほとんどないよ。あったとしてもいつも通り辞めて下さいって言ったらすぐに離れてもらえるし」
「……それでも、だよ。僕は神様さんを守り続ける一人だけの男になりたい。好きって言って、それでも足りないものを埋める何かを見つけたいんだ」
僕の言葉は照れや熱情の入った言葉ではなかった。真摯に、自分の思いの丈をぶつける、そんなものだったに違いない。
彼女はそんな言葉に照れや焦りを見せるわけでもなく、静かに頷いて全てを受け止めてるように僕の体に細身の体を寄りかからせた。
「それにしても一年かあ」
彼女がふいに出した声に僕は驚きの目を持って見つめていた。彼女は柔和な笑みをたたえながら僕の手を握ってきた。
「どうかした?」
「一年前、まだ君とは付き合ってなかったの思い出して」
「そういえば……そうだったね。まだ友達だったんだ」
しみじみと呟く言葉は、寒風にかき消されそうだった。それでも神様さんの明るい笑顔が僕を温かくさせてくれた。
「ねえ、あの時僕のこと意識してたの?」
「ちょっとはね。でも君みたいな人が私に振り向いてくれるわけないって思ってたから、割と気楽にやってた」
彼女は悪戯っぽく囁くと、僕の目を下から覗き込んだ。
「君はどうだったの?」
「……僕はずっと神様さんの事が好きだった。でもどうやったら踏み出せるか分からなくて、自分でももやもやしてた」
と、僕が落ち込んだ言葉を漏らすと、彼女は僕の頬を指先で突いた。
「色んなことがあったけど、今こうしてられるの、凄く幸せ。この幸せがずっと続くようにっていうのが最近の願い事」
「……そうだね。僕は神様さんだけは裏切りたくない。不甲斐ない男かもしれないけど、これからも見守ってくれたらありがたいかな」
僕が苦笑しながら言うと、彼女は腕に組み付いて密着させていた体を更に強く押し当てた。その仕草が何となくおかしくて、僕は振りほどくでもなくただ笑って彼女の顔を上から眺めていた。
「私は一宏君のこと信じてる。一宏君は普段は凄く優しい人だから。優しいだけじゃなくて人を思いやれる気持ちも持ってる。そうじゃなきゃお姉ちゃんとか右左ちゃんがあそこまで信頼してくれることなんてないよ」
夜空を見上げる。雲がなく、綺麗な星空が煌々と輝いていた。
この一年色々あった。何の不自由もない生活から、バイト漬けの生活。そして文系で進んでいたのに理系に半年で変わるという選択肢を採ったこと。
でも乗り越えられた。周囲の人の支えもあったけど、自分の中にこんな力があるなんて知らなかった。だから喜びもまた、一入だ。
僕が笑顔で夜空を見つめていると、神様さんが僕の服の端を引っ張ってきた。
「そう言えば一宏君、明日お姉ちゃんの引っ越しに付き合うんだっけ」
「ああ……あれね。家具とか結構力仕事になるから僕がいた方がいいと思っただけだよ」
「大丈夫かな……」
「まあ一人暮らしが初めてだから色々大変だと思うよ。人葉さんには借りがたくさんあるし、それをうまく返せればいいとは思ってる」
僕のさばさばした声に、神様さんは特に言い返すこともなく、「頑張れ」とだけ告げた。
それにしても一人暮らしで必要なものか。最近はネット環境も必須だし色々考えなきゃいけないと。そんなことが思い浮かぶと、何かあるのではないかという疑りは一気に消えて、あれこれ必要なものをアドバイスしなきゃという思いが頭をもたげてきた。
「一宏君」
神様さんが突然声をかけてきた。何だろうと思って見ると、下からにまあっと笑った神様さんが僕の目を射貫いてきた。
「大好きだよ」
「……僕も神様さんのこと、大切に思ってる。明日からも、大学入ってからも頑張るよ」
「私も専門学校で頑張る」
「……変な男に口説かれないか本当にそれが心配なんだけどなあ」
「飲み会とかナンパとか全部断るしいざとなったら排除するから心配しないで。私の側を歩くのはいつだって一宏君なんだから」
最後になまめかしい言葉を残し、彼女は「えへへ」と笑って僕の腕から離れた。そして手を大きく振って改札を潜っていった。
ああいう照れ隠しもある、か。嬉しさが僕の体の中を突き抜けていく。
側を歩く人。
神様さんの軽く告げた言葉が鳩尾に深く食い込む。僕だってあの人と一緒に行きたい。そう思っているのに、頭の中にもやもやしたものが過ぎる。
「こういう男、嫌だろうなあ」
小さな声で独り言を呟く。目に映るのは駅の電光掲示板。流れて明るくなって、また消える。
吐息を一度漏らして、僕はそのままやってきた自宅方面の列車に乗り込んだ。




