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受験が終わって久しぶりに僕はバイト先のメイドカフェに赴いていた。
受験から解放されて働く心地は、いつもの疲れはなく心地よさを与えてくれる。
一日の営業が終わり閉店する。半日手伝った僕は、店長や神様さん、先輩のきみかさんと共に店の後片付けをしていた。
いつも通りみんなが清潔にしてくれているおかげで掃除は楽そのものだ。
僕が少し伸びをしていると、柔らかな笑顔が僕の視界の端に映った。
「塚田君、受験合格おめでとう」
執事長、つまり店長が僕に微笑みながらカウンター越しに声を掛けてきた。僕ははにかみながら無言で頭を下げた。
「君の追い込み方は凄かったからね。正直傍から見ていてどうなるか不安になることもあったけど、流石自分を奮い立たせる術を知ってるとでも言うのかな、偉いよ」
執事長は僕を穏やかないつもの口調でたたえてくる。僕はそんなことはないと首を横に振って静かに返答した。
「目標があったから、ここまで頑張れただけです。今まで、僕の人生で成し遂げたいことなんて何もありませんでした。でも今回だけは違いましたから」
「そうか、でもその心に報いるのはこれからまだまだ先のことだよ。ところで塚田君はこれからバイトはどうするんだい?」
気になる一言。シーズンが変われば店の方針が変わることもある。僕のここでの仕事は執事長がいらないと言えば即消えてしまうほど立場が弱いのだ。
僕は願うように頭を深く下げてから、執事長にゆっくり頼み込んだ。
「ここのシフトを増やしてもらえたら嬉しいです。ここのバイトがしっくり来てて他のバイトっていうのも今更考えにくくて……」
僕の少し困った声にも彼は嫌な顔をせず、そうだね、と一拍間を置いてから僕を見据えた。
「少し大変になるかもしれないけど、君がそう言ってくれるのは嬉しいね」
執事長は洗ったグラスを棚に仕舞うと、僕にゆっくり告げた。
「大学の授業とどう合わせるか難しいかもしれないけど、君ならやってくれるって信じてる。この店で働いてくれること、これからも期待してるよ」
「……はい!」
僕が笑顔で頷いていると、後ろできみかさんが神様さんの腕を肘で突いていた。
「これからも仲良く二人で働けるね」
「……そうですね。凄く嬉しいです。正直、彼の受験が合格出来なかったらどうしようって悩んでた時期もあったんですけど、うまく行ってくれたのは本当によかったです」
「双葉ちゃんがそう思うのも確かだけど、塚田君が双葉ちゃんを裏切ったことなんて一回もないんだから。これからも幸せで素敵なカップルになれるように、私も祈ってるよ」
きみかさんの明るく励ましてくる言葉に神様さんも力一杯の笑顔で応える。僕は今まで期待に応えるという生き方をしなかった。でも神様さんにだけは期待に応えなきゃと思いながら生きてきた。
やっぱり僕は、神様さんのことが好きなんだと痛感させられる。
「塚田君、大学に入って何かサークルとか入るの?」
「ここでバイトする時間が減りますから、そういうのはいいです。勉強の時間も取りたいですし。それにその……何より双葉さんの顔も少しでも見たいですし……」
「そうか……双葉くんは四月から専門学校だけどどうするか決めた?」
「私もなるべくここで働けるように頑張るつもりです。あと、一宏君に専門学校で覚えたことを教えたりして、二人でお店を開くための下準備するっていうか」
と、神様さんが照れながら話すと、横からきみかさんがテーブルを拭きながらおかしげに笑った。
「本当は塚田君と二人っきりになって別のこともしたいんでしょ?」
「そ、そ、そういうことは分かってても言わないで下さい!」
「まあ私から見ていいと思うし微笑ましくもあるというか。半年間かなりお預け食らってたわけだし、塚田君にはむしろ責任があるというか、そんな風にお姉さんは思うわけよ」
きみかさんがこんな悪戯めいたことを言うなんてなかなか信じられない。恥ずかしがる神様さんに申し訳ないけど、慌てる彼女を見て僕は可愛いなと思いながら遠目に見つめていた。
執事長は大人の余裕か、苦笑を浮かべながら洗った食器の水滴を拭う。手持ち無沙汰になっていた僕は、執事長に世間話のような軽い質問を投げかけていた。
「執事長、最近深瀬さんとはどうなんですか?」
「あいつかあ。あいつなあ」
と、執事長はため息をこぼす。何かあったのか、執事長以外の全員が聞き耳を立てていた。
「この間家に遊びに来てほしいって言うから何だと思ったら、納期が近づいてきてる絵のチェックさせられた。ああだこうだ言ってる内に夜になったから飯作ってやって――」
「やって!?」
「それで帰った。僕は僕でここの仕事があるからね。とはいえ呼び出されて原稿のチェックとか流石に呆れたけど」
と、執事長が笑う。もしかして、と言いたくなったが、恐らく深瀬さんもこの関係を望んでいたのだろう。今は精神的に繋がることを求めている。それが彼女と執事長の間にある関係なのだと、他人の関係に鈍い僕でも分かることだった。
温かな笑顔に包まれ、学校とはまた違う自分の居場所を再認識させられる。働くことは大変だし、親に一言言えばどうにでもなることだと分かっている。でも僕はここでやっていくことを決めたことに、後悔どころか最良の選択をしたと堂々と言える。
色んなところでよく出来る人とか色々言われたけれど、ここで働くまで分からなかったことなんてたくさんある。それに気付けただけでも自分の幼さから少しずつ脱却出来る気がした。
勿論、大人になるにはもう少し時間がかかるけど、誰かに言われるような人間、神様さんに見合う人間になるための努力を、ここでなら出来ると確信出来るからまた頑張れる。
「そうそう、双葉くんと塚田君には直接関係のある話かもしれないけど」
と、執事長は顔を上げて僕達を交互に見てきた。
直接関係のある話と言われてもピンと来ない。首を傾げていると、執事長がおかしげに一度おかしげに口を押さえた。
「君達案外季節の催事には疎いのかな?」
「何かありましたっけ」
「来週バレンタインデーだよ。ここのメニューもチョコレートを使ったものを増やしたりね。で、きみかくんも含めた君達にはお帰りになった皆様のご出発の際に、小さなチョコを渡してもらう一年に一度のイベントだよ。双葉くんは二度目だから覚えてたと思ったんだけどなあ」
と、執事長に痛い所を突かれ、神様さんは目を泳がせて言葉の行き先を探っていた。
ただそんな簡単に逃げ道が見つかるわけでもなく、彼女は結局参りましたとばかりに頭を下げていた。
「忘れてたわけじゃないんです。ただ一宏君の受験がどうなるか分かんなくてそればっかり気にかかってて……」
「そりゃ受験に落ちた彼氏にチョコを渡すとか嫌味にしかならないよなあ。塚田君、合格してよかったね」
恐ろしい話である。そんなのどうやったら笑えるんだ。そう思ったが、実際のところ、その失敗のルートに片足を突っ込んでいたのも事実で、あの眠くなりかけていた日や疲れが溜まっていたあの日、そんな日々にいつもより少し頑張った結果が今のまだ信じ切れない現実なんだと心に染み入る。
「ともあれ、塚田君も双葉君も人生の新しい一歩を踏み出したわけだ。これから色々な責任が伴うことが増えると思う。でも、君達ならそれを乗り越えられると信じているよ」
執事長はにこりと笑って僕達を激励した。そう、これからは流される人生ではなく自分で決める人生になる。その一歩を踏み出していくことの厳しさを、これから先、嫌と言うほど味わうだろう。でもそれが年を取るということであり、人生を歩むということだ。
きみかさんが神様さんの肩を笑顔で叩いている。それはこれから先もうまくいってねと告げているようだった。
そろそろ時間だ。僕は神様さんに頷き、バックヤードに向かった。
そうか、バレンタインデーか。その翌日に人葉さんの買い物に付き合うというのも、少し不思議な気分がするけど、それはそれで約束だ、仕方ない。
「一宏君、帰ろっか」
「ああ、うん」
神様さんのはにかんだ表情に、心が解きほぐされる。受験は終わった。なのにまだ実感が沸かない。それはきっと、人葉さんのことが終わってないからだと分かっている。
きっと、いい方向に進める。僕は自分に言い聞かせ、今日一日のバイトを終わらせた。




