幸せな日常
右左の復学の噂は、神様さんと僕が歩いていたというその事実と違い、全く外部に漏れることがなかった。
つまり知っているのは一部の教師と校長教頭、気にしているかどうかは知らないが理事長と僕になる。
僕は黙ったまま、二限目の授業を受けていた。教師の言葉は耳に入る。ただそれは文字情報として認識されず、ただの音として僕の頭の中を過ぎ去っていく。
こんな僕が、右左の理想の兄であるのか。右左が喜んでくれること、それは僕にとってとてつもない幸福だったはずなのに、今の僕は複雑なものしか覚えない。
教師が僕を質問を当てる。僕は立ち上がり、英語の文構造による訳を適当に答えた。教師は満面の笑みで「さすがは塚田だ」と褒め、僕を座らせた。
僕は教室で、誰かに指導されながら社会的な身分を保証されている。だが右左や神様さんにそれはない。右左は自室にこもり、堕落しそうな自分と戦いながら、毎日自主勉強を続けている。そんな苦しいことをする意味が、僕には分からない。僕ならすぐさま自堕落に陥って何もしなくなるだろう。
神様さんだってそうだ。家に引きこもるわけでもなく、外へ出て色々なものを見て楽しんでいる。
僕が立派な人間なんて、この場が作り上げた幻想でしかない。本当に立派なのは、右左や神様さんの方だ。
僕は右左の復学の話を聞いてから、他人と積極的に接することを忌避していた。どこかで右左のことをぽろりと話すのではないかという恐怖より、右左の強さに自分が惨めに見えたというのが、本当のところだ。
休み時間になると教室から離れ、当てもなく学園の敷地内をぶらぶらと歩く。野ノ崎やミミと昼食を共にすることはあっても、僕から何かを切り出すわけではなく、ただ相づちを打ち、早めに食事を終えてまたどこか行くだけだ。
風が少し冷たくなってきた。あの頃、家の近くにあった公園はどんな感じだっただろう。確かため池があって、クヌギの木が周りを彩って。野ノ崎達と遊ぶこともあったが、僕はよく右左の手を引いて木の生い茂る、ちょっとした森のような場所によく潜り込んだ。
あの頃と今の僕、何が変わったのだろう。右左は僕のことをいい兄さんだという。でもそれは絶対に違うと僕は分かっていた。僕は面倒な事を避けるため、進んで自分が何かを処理するというだけだ。
僕を色眼鏡で見ない人。それはきっと、神様さんだけだ。でもその神様さんともなかなか会えない。生まれて始めて、僕は自分の頭がくらくらするという感覚を覚えた。
僕はまた休み時間に校門近辺の駐輪場に来た。ここへ来れば、神様さんに会える気がする。でも一週間頑張って待っても神様さんに会えていない。
あのキスは気まぐれだったのかな。いや、気まぐれじゃなきゃあんなことをしないだろう。僕の中で、神様さんの存在が、徐々に分からなくなってきた。
「そういう顔しちゃ駄目だなあ」
駐輪場の木を見つめる僕の背中に声がかけられる。はっと振り返ると、そこにはまた制服姿をした神様さんが、校門の影から僕を見ていた。
彼女の姿を見つけると、僕は一目散に彼女の元へ駆け寄った。会えた、それだけで自然と笑みが浮かんでくる。
「昼休みになるまでそこら辺で待っとくね」
「いや、いいよ。神様さんと話せる方が、授業よりよっぽど有意義だから」
僕が真剣な眼差しで語っても、彼女は苦笑して頭を抱えるだけだ。
「まあ、そういうきみは嫌いじゃないけどね」
「また公園に行く?」
「それがいいかも」
と、神様さんは軽い足取りで歩きだした。僕もその影を踏まないよう、側に付きながら歩く。
学園のすぐ側に公園はあるのだが、さすがにそこは教師も巡回する可能性のある場である。もう一つ向こうにある、小さな公園が僕達が会う場所となっていた。
「随分寒くなったね」
神様さんが舞い散る木の葉を見つめて呟く。僕もそうだねと答えた。
彼女は落ちてくるそれを受け止めるように手を伸ばし、くるりと回る。無邪気で、優しい彼女の姿に、嫌なことばかり考えていた僕の気持ちが洗い流されるようだった。
「最近、委員長と話ししてるの?」
不意打ちのように彼女が僕に訊ねた。僕はすぐさま首を横に振った。
「いや、全然」
「そっか。まあ悪い人じゃないんだけど、面倒だよね」
彼女はくすりと笑い悪態をつく。でもそれが自然と嫌みに聞こえないのが、彼女の持って生まれたものなのだろう。
公園に着くと、彼女は遊具ではなく、公園の中でも一際目を引く大きな木にもたれかかった。
柔らかな笑みを浮かべ続け、彼女は僕だけを見つめ続ける。
「それにしても、僕が出てくるってよく分かったね」
「ふふん、私は神様だよ?」
「でも力がないって言ってたじゃない」
「きみのおかげかな。最近力が出てきて、きみが来るタイミングが分かるようになってきたんだ。だから、きみが会いたいと思ったらいつでも会えるわけ」
神様さんがはにかむ。都合のいい話だ。理性がそう思っていても、彼女が目の前にいるという事実が、僕からそれを取っ払っていく。
「学校が休みだったらいいのにな」
僕の言葉に、神様はどうしてと言わんばかりに首を捻った。
「前みたいに、どこかで何か食べて、つまらない話をしたいんだ。委員長とかそんなの、もうどうでもよくて」
僕は空を見上げた。曇りがかった今日の空は、綺麗な青に見える。
「駄目だよ」
「どうして」
「きみみたいな真面目な人間を、私と同じ生き方に引きずり込んじゃいけないからね」
彼女は悪戯っぽく表情を崩す。あの時委員長に打ちのめされたのが嘘のように、僕は彼女にリードされっぱなしだ。
ちょっとかっこ悪いな。僕のそんな泳いだ目さえも、彼女は優しく捉えてくれる。しばし当惑しながら、僕は彼女を真っ直ぐ見据えた。
「……神様さん、君は本当は何者なの? 本当に神様なの?」
僕の質問に、彼女は少し目を伏せ、ゆっくり顔を上げるとわずかな笑みをたたえた。
そして、後ろの木に手を宛て、僕に背を見せながら空に目を向けた。
「私のこと、知っちゃ駄目だよ」
「どうして?」
「知ったら、全部終わりになっちゃうから」
「……でも僕は」
「私はきみのことが好き。でもきみは私のことを好きになっちゃ駄目。そうしないと、全部終わっちゃう。もう会えなくなっちゃう」
と、彼女は告げた後、くるりと僕の方へ笑顔で振り向いて、
「って、きみが私のことを好きだなんて、早とちりか」
そんな風に茶化してみせた。でも僕はそれに笑うことが出来ず、笑う神様さんの顔が痛々しくて目を反らしていた。
こんな時に、慰めや格好のつく言葉の一つも言えたらどれだけいいか。結局僕はそんな言葉の欠片すら思いつかない。ただ神様さんの作ったような笑顔を、見過ごすだけだ。
「僕は神様さんをどう思ってるか、まだ分からない。でも時々、無性に神様さんに会いたくなる時があるんだ」
「妹さんの相談?」
「それもあるけど、それだけじゃない。ただくだらない話をして、景色がどうとかそんなことを話すだけで、癒やされるんだ。だからこれからも僕と会ってほしい」
自分でも、こんな強ばった真面目な表情をするのはいつ以来だろうと思う。それでも、少しでも虚飾を混ぜれば、彼女は遠く雲の彼方へ消えてしまいそうな気がした。
僕の言葉に、しばし彼女は悩んでいた。
しばらくして、彼女は猫のような試す顔で、僕に含み笑いをした。
「私の正体、実はこわーいこわーい、それこそ化け物みたいなおばあちゃんかもしれないよ?」
「でも僕は、神様さんとずっと一緒にいて、助けられた」
「その助けが何かの見返りを求めてたら?」
「それでも僕は救われたんだ。神様さんが僕に見返りを求めても、何の問題もないよ」
迷いなく、僕はきっぱり言い切った。彼女は参ったとばかりに片頬に右手を宛てていた。
「じゃあ、会ってあげる」
「ありがとう」
「でも、私のこと、知ろうとしちゃ駄目だからね。……私はきみが好きだから、会う、ただそれだけ。何かってことは、詮索しない」
彼女の提言は飲みにくかった。二宮双葉という名前は知っているし、頑張れば彼女がどこで何をしている人間か知れないこともないだろう。
それでも彼女は拒否をする。神様であるという振る舞いを続けるためなのか、それとも自分の過去に踏み込ませないためなのか。
もっとも、僕にとっては些細な問題でしかない。彼女と会えなくなる、そのことの方が重大なのだから。
彼女はゆっくり僕の前に立った。そして僕の首にゆるりと腕を絡ませ、少しずつ目を閉じて僕の唇に自分の唇を重ねた。
この人は僕みたいな人間を愛してくれている。そんな思いで、僕の心が満たされる。バケツから溢れ出した愛情は、地面にしたたりほんの少しの別れさえも悲しく思わせる。
「じゃ、勉強頑張るんだぞ」
彼女は唇を離すと、一方的に僕に言いつけ走って何処かへと去っていった。
彼女に会うために、具体的に何をすればいいんだろう。彼女に会えた熱量に押され、僕は重要なことを忘れていた。
神様さんの言葉から推理するには、僕が願い願って、強く思えば会えるということかもしれない。
ああ、そんな簡単に行くのだろうか。今日会えたのでさえ奇跡のようなものなのに。
でもそれが運命なら、奇跡的な確率であるはずのものが一〇〇%で何度も起こるのだろう。今はそれを信じるしかない。
僕は腕時計を見た。授業開始からもうすでに三十分以上経っている。これはまずいなあ、と思いつつ、足は学園へと向かわなかった。どうせなら、この人気のない公園でしばらく何もない景色を見つめるのも悪くない。
僕は近くに自販機がないか探した。路地裏にそれはなかなか見つからず、結局十分ほどして大通りで僕は自販機を発見することが出来た。
そういえば、神様さん、最近僕にごはんだジュースだと言ってこないな。言ってくれないと言ってくれないで、寂しいものがある。
次に会える時には、何とかしたい。僕の中に、自然に活力が沸いてきた。
今日の夕食は、シチューにしよう。右左の大好きな、ビーフシチューだ。僕はペットボトルに入った炭酸飲料水を飲みながら、曇りがちの空の中で輝く太陽に笑っていた。




