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少し息を吸う。軽く噴き出してみた。
白いもやが目の前に広がる。
朝のニュースでもやっていたが、年が明けてから一番の寒さらしい。
こんな日に受験か。一日一日を大切に生きてきたつもりだったけど、思い返すとあっという間に終わった日々だった。
改札をくぐり抜ける人々は、僕と同じくらいの年齢層が多く、今から向かう「入試」というものに命を懸けているのが分かる。
勿論、僕も同じように命を懸けなきゃいけない。それが僕の大切にしたい人を守る、最も重要な術だからだ。
「あ、一宏君」
改札の向こうから軽い声が聞こえた。僕は相好を崩して振り向くと、明るい笑顔を振りまいた僕の恋人――二宮双葉さんが立っていた。
「神様さん、見送りなんてしなくてもいいのに」
「今日は大事な日でしょ。はい、これ」
と、彼女は紙袋から何かを取り出した。
何だろう? 首を傾げて見つめ続ける。彼女の白い手に包まれていたのは、毛糸で編まれたマフラーだった。
「一宏君が頑張れるように、マフラー編んで来たんだ」
「ありがと。着けてもいいかな」
「うん、そうして」
と、彼女は腕を伸ばして僕の首元にマフラーをささっと巻き付けた。
喉の辺りにあった寒さが、少し和らぐ。これなら、少し頑張れそうだ。
「あのさ、人葉さんは?」
「お姉ちゃんは家にいるよ。受験終わったから」
「そうなんだ……どこ受験したかと合格したかと聞いてないけど……」
「合格したって。有名な女子大」
「女子大か……何か普通の大学行きそうだったのに不思議だな」
僕はぽそりと呟いた。彼女が女子大を選んだ理由は何となく分かる。だがそれを受け入れてしまってはいけないというのも、僕の心のブレーキが強く訴えかけていた。
時間が迫ってきている。僕は神様さんの手を少し握り、目を閉じた。
「何してるの一宏君」
彼女がおかしげに告げる。風が吹き抜ける中、僕は真剣な声で彼女に返答した。
「神様さんの力をもらおうと思って」
「私そんな力ないよ」
「僕の神様さんが好きって言う気持ちの力」
「な、な、何言ってんの?」
「……うん、力はもらった。後は自分次第。それじゃ、頑張ってくるね」
僕はマフラーの端に指をかけ、彼女に大きく手を振った。彼女も返すように手を振る。
「絶対合格してよ!」
「うん、頑張る。それじゃ、また今度会おう」
そして、僕は神様さんと呼んだ恋人の二宮双葉さんと別れた。
試験場であるキャンパスまでは少し歩かなきゃいけない。
その一歩一歩踏みしめている間に、ここ半年の受験勉強のことを思い出していた。
理系転向なんて無謀と言われたこと。一人の努力で何ともならないと諦めかけたこと。そこへ現れた、双葉さんのお姉さんである人葉さんの家庭教師。
そして、何度も繰り返しアプローチされた人葉さんの思い。
でも彼女は、僕が受験に落ちたら罰として付き合えと言い、受験を合格したら身を引くと言った。
人の熱情なんて、そんな簡単なルール作りで区切れるものなのだろうか。僕は雪混じりの曇り空を見上げながら、複雑な感情を読み解けない自分を恨めしく思った。
試験会場である教室に知り合いはいない。付けられた暖房が妙に暑苦しくさせる。
マフラーを大切に脱いで脇に置く。今日のこの日のために人葉さんと一生懸命やってきた。裏切るわけにはいかない。
でも、本当に裏切るって何だろう。僕が人葉さんと別れることか。それが分からず、僕はもやもやした気分のまま答案用紙に答案を記していった。
小問はすらすらと解ける。後は大問だ……と思った瞬間、僕の目が点になった。
こんな問題やった覚えがないぞ。過去問にも出てなかったじゃないか。僕は眉をしかめながら問題を睨み始めた。
農作物に関する問題なのは分かるが、遺伝子の話でもなく改良の初歩的な話でもない。土の枯れた土地で農作物をより効率的に収穫する方法を述べよってそんなこと分かるか。
とにかく、今まで学んだことを有機的に混じらせてしっかりと考えるんだ。僕の背中を人葉さんが叩いてくれた気がした。
……どうして僕は今、神様さんではなく人葉さんのことを思い浮かべたのだろう。
そんなことはない。そう言い切れない自分がもどかしくて、ペンの先の走りも悪くなっていた。
時間は何も言わずとも過ぎていく。
結果として、手応えのあまりない試験になってしまったのが、心残りだった。




