右左の思い
遅れる形で教室に戻っても、僕に罵声の言葉など浴びせられなかった。むしろ何あったのかと心配されるくらいで、そういう風に見てもらえているのだなと冷笑した。
授業が始まっても僕は神様さんにされた口づけのことばかりが気になった。上の空のまま文字が連なる黒板を眺め続ける。
ぼおっとしている僕の机に、横からそっと紙が差し出された。横を見る。委員長が僕に何やらメモを渡していた。
僕は一旦それを開く。
『今度どこか行かない?』
はは、これはまた面白いジョークだ。僕の目の前で、あれだけのことを神様さんに言った人間とは思えない。
僕はルーズリーフを一枚取って、彼女に返した。
『今はちょっと無理』
彼女は僕からそれを受け取ると、何もなかったかのようにまた黒板を見つめだした。右左を心配してくれているのは分かる。でもどうして同じ態度を神様さんにしてあげられなかったのか。
と、ここで僕は自分に対しある疑問を感じた。
僕は右左のことを大切にしたいと思っている。だがそれと同等に、神様さんを侮蔑されることを異常なほど嫌っている。
彼女と会ったのは指折り数えるほどしかない。それでも僕は、彼女の苦しむ姿を見たくない。
右左の幸せ=僕の幸せ。
神様さんの幸せ=僕の幸せ。
右左の幸せと神様さんの幸せを、僕は等号記号で結べるのか?
結局、放課後まで僕は誰とも口を利かず、その日の授業を終えた。
掃除当番が面倒そうに机を片付け、皆を追い出していく。ほうきを振り回し遊ぶ姿も、幼くはあるが人生を楽しんでいる感がする。
さて、帰るかと僕が廊下を出ると、珍しい人物が立っていた。僕の担任だ。彼は僕を見るやいなや、硬い表情のまま近づいてくる。
「先生、ホームルーム終わったのに職員室に戻らないんですか?」
僕が笑いながら言っても、彼の硬い表情は変わらない。何かあるのか。僕の心が、にわかにざわつきだす。
彼はしばらく結んでいた口を、おもむろに開いた。
「……塚田、少し話がある。職員室まで来てくれ」
「え?」
「あまり大声で言えないが、お前の妹から学校に電話があったんだ」
僕の心臓が切れ味の悪いナイフで何度も切りつけられる。僕ははっとしながら、前のめりで彼に訊ねた。
「僕の妹に何かあったんですか?」
「いや、事故とか倒れたとかそういうのじゃないんだ。まあここで話すことじゃない。教頭先生と校長先生も待っている。来てくれ」
不慮の出来事ではない。それにはほっとしたが、教頭や校長が待つということはどういうことだろう。アンバランスなグレーの曇り空。現実に見える綺麗な青色が、僕のビジョンと重なってくれない。視覚情報と認識情報はまったく違う。嫌な話だと僕は彼のあとについた。
職員室には教師の他、何名かの学生がいた。髪の色を怒られていたり、成績不振で怒られていたり、教師にとってはおおよそ覚えのよくない人間ばかりが集められている。その集団の中に入れてもらえるのだから、僕もこれから自分を変えてみようかなと冗談を浮かべる。
そんなので右左に関わる現状を笑えるわけもなく、僕は重苦しい気持ちを必死に表情に出すまいと担任のあとにつく。
職員室の奥にある、校長室の前で担任が立ち止まる。彼が数度ノックすると、中から年老いた男の声が聞こえた。
担任が扉を開く。中にはふさふさとした白髪をたくわえ悠然と椅子に座る眼鏡姿の男がいた。その脇では気むずかしい顔をした全体的に細身の中年が立っている。
まるでこれじゃあ拷問じゃないか。そんな冗談を笑えるわけもなく、僕は彼らの前で一例をした。
「ええ、塚田くんだね。書類は見たことがあるんだが実際会うのは初めてだねえ」
背もたれの大きな椅子に腰掛けた男が、僕に優しく声をかける。だが僕は緊張の面持ちを崩さず彼の目をじっと見据えた。
「塚田くん、わざわざ来てもらって済まない。ただ少し話があってね」
そりゃ話がなけりゃこんなところに来ることはないだろう。僕ははいと頷き相手の出方を窺った。
「今日、君の妹さんから電話があったんだ」
「さっき先生から聞きました。どんな内容だったんですか?」
「……復学を検討している、とのことだ」
教頭の何か気まずそうな顔以上に、僕の表情は呆然としたものだった。今まで右左からそんな話を聞いたことがない。家でもずっと一人で生活している。僕と食卓を共にすることもない。
その右左が、ここへ戻ることを考えている。それを自分から電話で連絡したという。普通こういったものは、家族に相談して決めることだろう。だが右左は自分で決め、自分で電話をした。
校長や教頭は「お前は何か聞いていないのか」と僕を見つめてくる。だが僕も初めて聞いたことだ。答えようもない。
「あの、済みません。僕も何も聞いてなくて……」
「校長先生、いたずらじゃないですかね」
どうにも人間不信が顔に出ている教頭が、校長に苦言を呈する。だが校長はゆっくり首を振りにこやかに答えた。
「私も楠儀さんとは数度しか会っていないが、聡明で礼儀正しく、嘘をつくような子でないのはすぐに分かったよ。ただ少し人付き合いが下手なだけ。そんな子が一歩踏み出そうとしている、それは歓迎すべきことじゃないかね?」
校長に諭され、教頭はばつが悪そうに引っ込む。担任が僕を横目で何度か見てくる。僕も見返して「何も知りませんよ」とアピールした。
「校長先生、塚田も何も知らないようですし、今日は一旦帰してあげませんか?」
担任が助け船を出した。教頭は眉をしかめるが、校長は腕を組みながら、何度も頷く。
「そうだな、確かに塚田くんに妹さんの事情を聞いてもらう方が早いかもしれないな」
「ですが校長……」
「まあまあ、彼女が独断で決めたとしても、親御さんの同意がなければどうしようもない。ここは一旦塚田くんに任せてみようじゃないか」
校長の物腰柔らかな言葉に、教頭は遂に引っ込み、僕は担任と同じように一礼して校長室から出た。
職員室から出る僕に、担任も付いてきた。教頭のような嫌悪は示していないが、解せないという難しい感情が顔に表れていた。
「しかしまた急に戻ろうとはなあ」
「……本気、なんでしょうか」
「校長先生も仰っていた通り、嘘をつく子じゃないってのは他の先生方も言ってるよ。だからこそみんな驚いているわけでな」
彼の言葉に、僕も口を結んだ。
僕の脳裏にあの人のことが浮かんだ。神様さん、その人と会って僕の周りが大きく変わりだした。僕の変化など何もない。なのに、右左が自分の殻に閉じこもることをやめようとしている。これほど不思議なことが、他にあるだろうか。
僕は意を決して、担任に彼女のことを訊ねた。
「あの、先生は二宮双葉って子知ってますか?」
その名前が出た瞬間、担任の眉が少し歪んだ。だがすぐに平静を取り戻したように、ため息を一つついてから「ああ」と返答した。
「変わり者だったな。お前の妹と違って成績は並、だが言っていることはお前の妹とは比較にならない変なもの。どうしてお前があいつを知ってるんだ?」
「ちょっと、まあ」
「まあいいけどな。ただまあ、あいつに関してはここをやめてよかったと思うよ。あの頃だからまだ何もなかったが、あのまま続けてたらどうなってたか分からん」
そうですか、と僕は答えた。そして真横にある消火器を蹴り飛ばしたくなった。
成績が。
容姿が。
いい子だから。
結局そんなのでこいつらはここに通う人間をランク付けしているのだ。僕にとって、右左も神様さんも大切な人だ。それなのに、まったく扱いが違う。学生同士の好き嫌いは仕方ない。ただそれをうまくカバーするのも教師の務めだろう。
僕は担任やこの学園の先生達を最低限のレベルで普通の人だと思っていた。だがその認識は崩れた。この人達は教師屋さんをやっている、商売人だ。
もう話すこともない。僕はにっこり笑って、頭を下げた。
無性に気分が悪い。こんな心境で、右左とまともに話せるのか。自分に自信がなくなりそうになる。
――幸せは自分の気持ち次第だよ。
僕の脳裏に、神様さんの告げた言葉が蘇る。そうだ、今かりかりしていてもどうしようもない。それより、右左がどうして復学しようと考えたのか、それに意識を向けるべきだ。僕はぎゅっと奥歯を噛みしめ、家へと駆けた。
家の前は、相変わらず静かで、人気があるのかどうかも分からない。もしかしたら何者かが右左の名を騙って悪戯電話をした可能性もある。
それでも僕は、右左の真意を知るために右左と話さなければいけない。家に上がると、僕は脇目も振らずに右左の部屋へ向かった。
「右左、いる?」
部屋の扉をノックして、声をかける。しばらくすると、いつもの薄手のキャミソール姿の右左が出てきた。どうも家の中にいると、外より寒暖の差が小さく、暑くなるらしい。
右左は僕の顔に少し驚いたようだが、僕が何を言いたいのかすぐに察したのか、笑顔を向けてきた。
「兄さん、お帰りなさい」
「ああ。その……」
「はい、今日学園に電話をかけました。そのことですよね?」
右左は今までの曇った顔が嘘のように、晴れ晴れとした表情で言う。何か魔法にでもかかったかのような、今までの右左と違う表情に、僕は一瞬言葉を失っていた。
「あの……右左、僕もあんまり聞いてないんだけど、復学するって電話したって本当?」
「はい。復学をするにはどうすればいいか、今どの位の進度で勉強が進んでいるか、結構色々聞きました」
つきものの落ちたような顔で右左は楽しげに告げる。今まであった、外界への不安はそこに見られない。だからこそ僕は不安でならなかった。
僕はしばらく右左を見つめた。右左は僕の思うことを読み取れないのだろう、首を傾げながらも笑顔を見せていた。
「前まで学園行きたくないって言ってたのに、どうしたの?」
僕の言葉に、右左は少し伏し目がちになった。だがすぐに顔を上げ、僕の目を真っ直ぐ捉えながら力強く答えた。
「正直、うまくやれる自信はないです。でも、兄さんを見てたら、それじゃ駄目だって思いました」
「僕が?」
「兄さんは料理も得意だし、家事は何でも出来て、嫌なことも言わない。こんな素敵な人が私の兄さんなのに、私、何してるんだろうってずっと考えてました」
「……それは僕がここに戻ってきてからのことだよね」
「はい。記憶の中にあった兄さんのイメージと、大人になった兄さんのイメージが凄く違って、少し戸惑いましたけど、でも兄さんが私の兄であること、それが嬉しいんです」
右左は微笑む。校長の言っていた嘘をつかない子であるというのは、本当だろうと思う。
僕は右左の幸せを望んでいるはずだ。その右左が進んで学園に戻るというのなら、それは右左にとって幸福のはずだ。だがそれを真っ直ぐ受け止められない僕がいる。右左が笑う度に、神様さんの笑顔と重なる。
「右左は僕の妹で嬉しいの?」
「嬉しいですよ」
「でも僕は右左に何にもしてあげられてないと思う」
「それは兄さんの思い込みです。何もしないこと……それが一番何かしてくれていることだってある、兄さんが来てから分かったことです」
右左は照れくさそうに、僕から少し目を反らして話す。本来なら喜んで飛び跳ねるところなのだが、何故かそういった気持ちになれない。
右左が学園に戻って、年下の学生達ともう一度やれないということも思わない。むしろ今の右左ならうまくやって、恋人も作れそうだ。
では何故僕はここまで右左に不安を感じているのだろう。右左を信じている、そのはずなのにその言葉を一番信じていないのが自分では笑うに笑えないではないか。
「兄さん」
黙り込む僕に、右左が話しかけてきた。右左はアンニュイな笑みで、僕を見つめる。
「人間って、しちゃいけないことがたくさんあるじゃないですか」
「……まあそうだな」
「人を殺してもいけないし、騙してお金を取るのもいけないし。数えたらきりがないくらい駄目なことがたくさんありますよね」
「まあ、そうじゃなきゃ人の世界を保つことなんて出来ないしね」
「だから私、駄目な自分から抜け出さなきゃって思ったんです。これも兄さんと再会できたおかげですね」
右左は最後に頬を緩め、自室へ帰っていった。僕は右左の言う人間としてしてはいけないことの意味が分からず、また右左が何故学園に戻ると言ったかその理由も分からず、拳を強く握りしめていた。
右左の言う駄目な自分。学園に通わない自分のことか、それとも他の何かのことか。
考えても右左の思考が読み取れるわけもなく、僕は悶々とした気分のまま、自分の部屋に戻った。




