3.6/16 失敗したくない時に失敗は訪れる3
薬局で処方箋を渡し、僕はすぐに息切れしながら席に着いた。すると人葉さんは少ない商品棚をじっと見つめながら、すぐさま何かを買っていった。
帰りもタクシーで、と思ったが、この距離なら歩いて帰れないわけでもない。僕は自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲みながら、人葉さんと共に歩いて家に戻っていく。
あと少しすれば右左が帰ってくるような時間だが、心配をかけていないか、そこが不安であった。心配に心配で返してどうするんだという気もするが、それが過保護の塊である僕という人間だと何度も痛感している。
水田先生に言われたように、数日位は何も考えず療養に励むべきか。
家に着いて、自室のベッドに向かう。
「一宏君、パジャマとかどこ?」
「あ、自分で取りに行きます」
「いいの、ちゃんと療養しろって言われてるんだから」
「……脱衣所の棚に。あの、脱衣所僕の着替えとかありますから……その」
と、僕が小声で呟くと、人葉さんも何も言わず、黙ってしまった。そして静けさが走ったまま、彼女は部屋を出ていった。
しかし、熱が出ているのに今日はこの格好で過ごしていたせいで、体が気持ち悪い。ワイシャツは少し汗を吸って通気を失っている。
「一宏君、戻ってきたよ」
「あ、人葉さん、見つかりました?」
「割とすぐに。ていうか、いつもお風呂使わせてもらってるしね」
と、彼女はパジャマを僕の目の前にそっと置き、僕の肩を笑顔でぽんと叩いた。その空いた手には洗顔時に使うタオルが水で絞られた状態で握られていた
「汗凄いから、拭かなきゃ。お風呂入れないって言われたでしょ?」
「あ、そうですね。タオル貸して下さい」
「だから、そういうのじゃなくてね、私が拭いてあげるから。ほら、上脱いで」
と、彼女は僕のワイシャツのボタンを外していこうとする。流石に恥ずかしいので、僕は急ぎ自分で外していった。
上半身の裸なんて、今日も診察室で見せたし、夏の時期になれば水着姿なりなんなりでいくらでも女性に見られる機会はある。
それなのに、今人葉さんに裸を見られているのが、とてつもなく恥ずかしい。人葉さんは僕の胸元に浮き出ている汗を黙々と一生懸命に拭いていた。
「……一宏君の体、しっかりしてる。これが男の子の体なんだ」
その言葉に、僕の胸が一瞬どぐんと鈍く跳ねた。彼女はじっと、吸い込まれるように僕の胸を見ている。
「そ、その、男子の裸なんて見たって面白くないですよ。海行ったりしたら自然とさらけ出しますし今日も診察室で脱いでたじゃないですか」
「うん、別に知らない人の肌を見たってどうとも思わない。でも……君は違うよね」
彼女はまた僕の体を拭く。その僅かにはみ出した指先が、僕の肌に触れて、感情の先までくすぐった。
「って私何言ってるんだろ。一宏君の体調悪い時に言うことじゃないか」
彼女は赤面しながら俯いた。その間も手は一生懸命僕の体を拭ってくれている。
僕もこの時間がとてつもなく苦しい。何か間をつなぐ方法はないのか。そう思って僕は、人葉さんが買い込んでいた何かの入ったレジ袋を指さした。
「あの、人葉さん薬局で何買ったんですか。ドラッグストアじゃないから面白いものなんてなかったと思いますけど……」
と、僕が訊ねると、彼女は「ははは」と笑いながら体を拭う手を退けないまま、レジ袋を手にした。
彼女は僕にそれを突きつけてくる。何だろう。僕はゆっくり中を覗いた。
「これ……スポーツドリンクとカロリービスケット……」
それを見て、僕はきょとんとした。スポーツドリンクはともかく、カロリーと栄養を補助的に摂取出来る菓子状のそれは、何となく今の状況に合致しない。
僕が首を傾げていると、人葉さんはにこっと笑って下から顔を覗かせてきた。
「私、体がだるくなってきたらこの二つで乗り切ってる」
「普段からってことですか」
「学校休みにくい時とかあるじゃない。そういう時にこれ食べて栄養取って家に帰ってから思いっきり休養するわけ」
なるほどなあ、と僕は納得した。確かに食欲が落ちている時に栄養を取るなら、カロリービスケットは悪くない選択肢だ。
「スポーツドリンク飲む時は体に負担掛けないように、点滴打つような感覚で少しずつ飲むんだよ。口に少し含んでそれがなくなるまで待つ、くらいで」
「人葉さん、お医者さんみたいです。そういう方向進みたいんですか?」
「それは秘密。でも一宏君とか双葉の役に立てるようになったら何よりかな」
彼女のいつもの明るくはしゃぐような笑顔が見られて、僕はほっとした。今日の人葉さんは時折艶のかかった顔を見せる。僕の気のせいかもしれないのだが、それを素直に受け止めるのも辛くて、僕はただ恥ずかしげに頷くだけだった。
そうこうしている内に、人葉さんは僕の体を無事拭き終わった。ぽんと退いた後、静かに頷く。僕はその視線が妙に気になり、急いで上だけパジャマを着た。
「一宏君って意外と引き締まった体してたんだね。双葉ばっかり当たりくじ引いてなんか私へこんできそう」
「いや……その」
「冗談。疲れてる時まで恋愛脳してたらぶっ倒れるから、私もしばらくはそれ以上言わないし君もこれ以上は考えないこと。そろそろ右左ちゃん帰ってくるよね?」
「あんまり一緒に帰ることはないんですけど、次期生徒会の引き継ぎに当たってとかそういう話がなかったらすぐですよ」
なるほど。彼女はそう呟いて僕が中腰で居座るベッドの端に座った。
しばらく沈黙が過ぎる。彼女の視線は僕を捉えていない。何を黙っているんだろう。僕は彼女の長いストレートの黒髪に目を奪われていた。
「……一宏君」
彼女が突然小声を絞り出す。何かあるのだろうか。僕は顔を上げ、彼女を見た。
すると彼女はにこっと笑って、ベッドから飛び退いた。
「何でもない」
彼女は笑って、部屋の端に置きっぱなしだった通学用の鞄を手にする。
いつもならその「何でもない」は僕や神様さんをからかう言葉として使う彼女なのに、今日の彼女はそういった側面がない。まるで自分に問い掛けて、自分に答えを返すような、そんな自問自答を繰り返しているようだった。
違和感だらけ。言ってしまえばそれだけなのだが、僕の体は熱を帯びているせいか、妙にそわそわしていた。
「そう言えばあの昔の知り合いの子どうするの?」
彼女に言われ、僕の顔が曇っていく。木曜店で接客してあれこれ笑い合う予定だったのに、三日安静では何も出来ない。
僕は仕方なく、人葉さんにそのことを話した。
「あの、実は木曜に店に来て接客するよって話してたんですけど……」
「この調子じゃまあ無理だね……」
「あいつには何かしらの埋め合わせでもします。そうでないと僕の気持ちが収まらないんで」
僕がとつとつと話すと、電話の向こうの人葉さんも「そうそう」と納得の意を示してくれた。
僕に一体何が出来るのだろう。その答えは見つからないけれど、今は体調を元通りにして白詰と会う事が最優先だというのは分かっていた。
そんなことを話していると、玄関の鍵の開く音がかすかに聞こえた。右左が帰ってきたらしい。
「さてと、私に出来ることはこの辺で終了かな。ゆっくり養生するんだぞ」
「あの、人葉さん、タクシー代……」
「代わりにまた今度、何か奢って。ていうかそれがいいかな」
と、人葉さんが明るい笑顔を見せたのを見て、僕も自然と笑顔を浮かべた。
窓の外は冷え切っている。暖房の効いたこの部屋を隔てる窓ガラスには結露が浮かんでいた。
人葉さんが頭を下げて出ていくと、入れ替わりで右左がやってきた。
「あ、人葉さん。兄のこと、ご面倒おかけして申し訳ございません」
「いいのいいの。明日は双葉が来るから。右左ちゃんは心配せずに勉強に励んで」
「……はい!」
「一宏君はただの過労だって。ま、あんまり気にしなくていい感じかな。それじゃ、後のことは任せたよ」
と、人葉さんは鞄を手に玄関へと向かっていった。
そう言えば、人葉さんや神様さんがこの家に出入りするようになって合鍵何本作っただろう。親がいないからといって家を私物化しているこの現状はちょっとまずいなとふと感じた。
「右左、今から寝ておくから、今日も夕食、好きなものでも取っておいて」
「あ、分かりました。それじゃ、兄さんの睡眠の邪魔にならないように私、部屋に戻りますね」
と、右左は僕の部屋から立ち去った。
しかし、このタイミングで倒れるとは思ってもみなかった。白詰、怒らなきゃいいけど。
さあ、どうなるのか。僕はのんびり天井を見つめまだ重い頭を休ませるように眠りに落ちた。




