3.6/14 失敗したくない時に失敗は訪れる1
約束の木曜が近づいてきた火曜、登校するために起き上がった僕は首を少し捻っていた。
数日前は何ともなかったのに、昨日のバイトからの帰りから妙に体が重い。
「……やっぱ熱測っておくか」
僕は居間に行き、救急箱の中に放り込まれていた電子体温計を取り出した。電池切れでなければよいのだが。
スイッチを押し、起動を祈る。何の事はない、無事に立ち上がった。こんなものが消費する電力などたかがしれているということだ。
そして僕はそれを脇の下に挟み、自分の体温を測りだした。
数秒後、音がした。嫌な予感を如実に感じながら、僕は電子体温計の液晶モニタを見た。
「……三十八度七分」
人間の体を構成する物質の一つにタンパク質が挙げられる。そのタンパク質が凝固するのが四十二度近辺でその温度に差し掛かると多臓器不全を起こし十数時間で命の危機に差し掛かる。もちろん、四十度も各種神経系統を麻痺させ充分危険な領域に連れていってくれる。
三十九度なら周りに迷惑だから休みを取れと言われる。ただ僕はこの三十八度七分という中途半端にぎりぎりな線に悩みを浮かべていた。
出来ればバイトも休みたくはないし、学校もきちんと通いたい。今までこんな高熱を出したことなんて数えるほどしかない健康体の僕がこんな風になってしまったのは、何とも言いがたい感情を与えてきた。
「あれ……兄さん、おはようございます」
眠そうな目を擦りながら二階から右左が降りてきた。いつもならこのまま朝の支度を兼ねてシャワーを浴びに行くところだ。
「……右左、弁当今から作るから。支度ゆっくりしてくれていいよ」
「あ、はい」
右左がきょとんとしたまま僕を見る。僕は笑いながら一歩を踏み出した。
……のだが、一瞬体が中に浮く感覚を覚えた。はて、僕はどこへ行くのだろう。そう思った時には、僕は物の見事にこけて額を床に思い切りぶつけていた。
「に、兄さん!?」
さっきまで感じていた眠気など何処へやら。右左が僕の元へ駆け寄ってくる。僕は「あはは……」と空笑いを浮かべながらも、苦しくなってきた顔つきを隠せなかった。
「右左……三十八度七分って今日一日寝てた方がいい話かな」
「そ、そんな高熱出てるんですか? 休むどころかお医者さんに行かなきゃいけませんよ!」
「救急箱の中に入ってる風邪薬……あれやっぱり期限切れてるよな」
「この時間じゃドラッグストアも開いてないですし……」
「大丈夫、薬飲まなくても寝てたらなんとでもなる。ただやっぱり学校もバイトも休む。多分受験勉強やりすぎて自分が無理してたの気付いてなかったんだ」
右左は倒れた僕をゆっくり起こして、肩に手を回した。
こんなのは僕が右左にするものだと思っていたのに、右左にされている自分が兄としてみっともなく見えた。
部屋に戻り、ベッドに伏せる。右左はすぐに階段を降りて、また僕の部屋に帰ってきた。
その小さな手に握られているのは、冷蔵庫に常備してあるスポーツドリンクとマグカップ。
こんな時に右左の世話になるとは。僕はありがとうと言ってベッドから起き上がった。が、起立性のめまいか、すぐに頭がぐるんと震える。だがここでふらついては右左に心配をかける。僕は何事もないように装いながら、右左からマグカップを受け取った。そして口に少し、右左の入れてくれたスポーツドリンクを含んだ。
体に水分が染み渡っていく。その一点だけで、どれだけここ最近の自分が無茶をしていたのか理解させられた。
「兄さん……今日は学校お休みして下さい。というより無理です」
「あはは……まあ……そうだよな」
僕の視界が重くなる。駄目だ、額の焼けるような暑さに耐えられない。
「右左、寝ておく。学校の方、悪いけど伝えておいて」
「はい。……あの、本当に一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。何とかなるって。……ごめん、寝る」
「分かりました。それじゃ、きちんと休養取って下さいね」
僕は「ああ」と消え入りそうな声で答え、スポーツドリンクの残りを飲み干しもう一度ベッドに潜った。
正直なことを言えば、この数十分もない時間でかなり体力を消耗した。それを昨日の時点で気付かないなんて、どれだけ無茶をしていたのか。それとも恋人の側で働けることは、体力の消耗さえも忘れさせてくれることなのか。
何かは分からない。ただ一つ言えるのは、今日僕はバイトも行けないということだ。
「神様さんにメール……あれ……手……伸びない……やば……いかも」
僕の手元にあるはずのスマートフォンが遠い。ましてやそれを手にしたところで操作出来るとは思えない。
駄目だ、考えたら本当に終わる。夕方までの回復を願って、僕は目を閉じることにした。
「……あれ?」
額に冷ややかなものを感じる。
僕の体にかかっていた重さは、少しだけ取れた。とはいえ、満足に走り回れる状態ではない。
「起きたか。熱、ちょっとは大丈夫になった?」
誰だろう、僕に声を掛けてくるのは。声の主の方へ目をやる。
そこにいたのは、制服姿の人葉さんだった。
「あれ……人葉さん。なんでここに……」
今日は平日だ。人葉さんは学校に行っていなければおかしい。それなのに、今目の前で彼女は冷却シートを僕の額に乗せ、涼しげな顔でベッドの側に座っていた。
普段なら理解が先に来るのに、頭を働かせることが極端に遅くなっている。僕は分からないという目で彼女を見つめた。
「右左ちゃんから朝方連絡来てね。夕方から一緒に面倒見てほしいって言われたんだけど、流石にその熱で一人にさせるのは危険だから来たわけ」
僕は首を回して壁掛け時計を見る。今は昼の十二時。学校が普通にある時間帯だ。
「……もしかして人葉さん、僕のために学校サボったんですか?」
「双葉に任せても良かったんだけど、双葉は双葉でバイト休むわけにもいかないし。その点私は学校一日くらい休んでも誰も文句言わないから、来たわけ。はい、市販の風邪薬」
人葉さんが温くなったスポーツドリンクとカプセル状の風邪薬を渡してきた。
「この薬、効かない可能性もあるから、熱がきついし、きちんと休むんだぞ」
人葉さんに促され、僕は薬をスポーツドリンクで流し込んだ。
でも、いつもからかわれてばかりの彼女に、こんな風に看病されるとは思ってもみなかった。
彼女は僕の額に貼り付けてあった熱冷ましのシートを剥がし、新しいものに変えていく。そこにいつものトリッキーな姿はない。今日は絶対に僕を看病するというしっかりとした思いが伝わってきた。
「受験勉強、ハードにやりすぎたかな」
「……僕が自分の限界を見誤っただけです。本当はもっとやらなきゃいけないのにこんなのでへばって、情けないです」
「一宏君、そんなこと考えなくていいんだよ。一生懸命やったって結果が出ない時はある。むしろ人生なんてそっちの方がたくさん」
「人葉さんみたいな人生でもそんなのあるんですか?」
「あるよ。でも、そこまでして手に入れたいものって人生そんなにない。気がついたら他のものに目移りしてる。だから人間って前に進めるんだよ」
と、彼女は僕の額を撫でて首を何度か縦に振った。
「でも受験は頑張らなきゃね。それは何としても手に入れなきゃいけないもの」
「……はい」
「右左ちゃん、朝メールじゃなくて電話してきたからどうしたんだろうって思ったよ。右左ちゃんあたふたして、学校休んだ方がいいかって聞いてきた。右左ちゃんは学校へ行って、私と双葉で看病するって言ってあげたらちょっとだけ落ち着いたんだよ」
そんなやりとりがあったなんて、倒れたばかりの僕は全然気がつかなかった。
右左はきっと学校でも僕のことを心配しているだろう。でも、その代わりに人葉さんが来てくれた。神様さんが来てくれなかったのは残念だが、彼女は彼女でバイトがある。そんな事情のある彼女を僕の一存で巻き込むわけにはいかない。
「双葉は明日の看病に来ることになってるから。ただ右左ちゃん、私が独断で学校休むって言った時本気で心配してたの、ちょっと悪かったかも」
「……まあ右左が僕の看病出来るとは思えないですけど」
「右左ちゃん、双葉とはまた違った感じで本当の妹みたいに思えるんだよね。右左ちゃんには笑顔で学校に通い続けてほしいから、どうせ受験のことなんて粗方決まってる私が看病に来たってこと。でも一宏君が思ったより軽い病状で良かったよ」
彼女はそう呟くと、ベッドで横になっている僕の顔と高さを合わせるかのように、腕を組みながら枕元に頭を置いてきた。
「こんな平日に、好きな人と何にもない時間過ごせるって、ちょっと不思議」
「……人葉さん」
「あはは、大丈夫だって。風邪ひいてる人に無茶させるほど私だって馬鹿じゃないから。とりあえず寝てて。三時になったら起こすから」
「三時……?」
「いいから寝るの。ほら君が今すべきことは休んで体力回復させること」
と、強引に眠ることを促され、僕は仕方なく目を閉じた。正直昨日の一時から寝て六時半に起きたばかりでこの長時間の睡眠だ、眠さはほとんどない。
なのにもうちょっと寝ろというのは厳しい話である。ただ今は、来たる受験に備えただゆっくりするしかないというのも分かる。
僕は目を閉じ、しばらく落ち着こうと頭を切り替えた。というより思考速度がいつもの数分の一まで落ちているのを如実に感じる。
僕は目を閉じ、静かに眠りに落ちた。




