3.6/13 忘れていた過去が否という程攻めてくる
夕食作りのために台所に立つ。
後ろで付けているテレビからは、色んな会社のクリスマスフェアのCMがひっきりなしに流れていた。
もうこんな季節か。人葉さんの協力もあって受験に必要な生物の範囲は一通り目を通せた。
しかしそれと問題が解けるようになったかは、また別の問題である。
「スパイス効かせすぎたか」
浮かぶビーフシチューの味見をして、ふと呟いてしまった。
色んなことが変わった毎日。色んなことが待っている毎日。
そんな中で料理だけがまったく僕の中で変わらない。いつかこんな生活も終わるのだろうか。僕は霜の張った窓を見つめながら、鍋の中のビーフシチューをまたかき混ぜた。
添えるのは、テレビで見た鯛の刺身に野菜を巻きドレッシングをかけるフレンチ風料理である。さすがにビーフシチューだけで凌ぐほど辛いことはない。
「あ、兄さん、夕食もう出来上がりますか」
「うん。右左、席に着いてて」
僕が促すと、右左は「はい」と丁重に答え食卓に着いた。
右左は前回の中間が終わった後、いきなり期末の試験対策に挑みだした。何が右左をそこまで勉強に駆り立てるのかは知らないが、僕のようなふらふらした生き方をするよりはいい。
出来上がったばかりのビーフシチューを皿に注ぎ、右左の着く席まで運ぶ。右左はありがとうございます、と一言呟くと満面の笑顔でそれを食しだした。
付け合わせの鯛料理も置くが、右左はビーフシチューに目を取られてそれをすぐに口にしない。
僕も席に着き、食事に手を延ばす。バイトに行く前にあらかじめ料理の準備が出来る時はしておくのだが、それでも夕食の時間は九時を越える。それに文句も言わず共に食事を取ってくれる右左は、我ながらよく出来た妹だと思う。
「兄さん、受験の方は大丈夫ですか?」
「ようやく一通りの範囲を終わったから後は試験問題をどれだけこなせるか。最初から理系選択してたらそんな苦労しそうにないんだけどなあ」
「そういうの、言い訳って言うんですよ。それとも双葉さんに断りを入れて文系の大学に進学しますか?」
「……まあ、ないな。人葉さんにも教えてもらってるし、頑張らなきゃいけないな」
僕がくすりと笑うと、右左も「そうです」と励ましてきた。色んな人を巻き込んで、色んな思いで動いている。
僕の頑張りが何処まで通じるかは分からないけど、受験の合格点に一点でも多く越えていきたい。そんなことを思う位、受験に関しては切羽詰まっていた。
「でも、最初兄さんが人葉さん連れてきた時、びっくりしました」
「僕も最初に会った時びっくりしたよ。本当に似てるからね、人葉さんと双葉さん。髪型揃えたら一瞬見分けつかなかったし」
「そうですね。でも私、今なら同じ髪型してても、違い分かりますよ」
「そうだね。右左もあの人とかなり付き合い長くなってきたんだっけ」
「兄さんがバイトから帰ってくる前に、私も人葉さんに勉強教えてもらってるんです。凄く分かりやすくて、本当に頭のいい人ってこういう人のことを言うんだなって感心しっぱなしです」
人葉さんが家で待っている間、何をしているのか知らなかったが、右左に勉強を教えてるなんて想像も付かなかった。
あの人は人をからかったり軽口が好きだったり変なところもあるけど、根にあるのは神様さんと同じ、正直で優しい人だ。だから僕が絡まない右左への勉強や、冗談を言う余裕のない僕の受験勉強の面倒を見たりするのだろう。
……僕は人葉さんに何か返せているのだろうか。時々されるキス? 二人でいる時間? どれも違う。返したいのに、何も返せていない。それが本当のところだ。
最近人葉さんのことを思うと、白詰の無理をしたような横顔を思い出してしまう。僕はあの一年半の間、白詰と何も歩もうとしなかった。好き勝手に歩いているところに、白詰が後ろから着いてきたという認識だった。
あの時の僕は何でも出来る時間があったのに、何の余裕もなかった。何の感情も持たずに淡々と来る日も来る日も、期待なんて持たずに生きていた。
その運命が変わった瞬間に、白詰はいなかった。そして僕は白詰を忘れていた。
酷い奴だ。友人と呼べる存在のことを綺麗さっぱり忘れて、ここで好きな人と共に自由に生きていたのだから。
もし白詰が野ノ崎みたいに強気な性格だったら、恋人の一人や二人でも出来ただろうか。きっと、素敵な人と出会って、楽しげに過ごしていたに違いない。
「……兄さん、どうかしたんですか?」
右左が突然声をかける。僕ははっと顔を上げた。目の前に浮かぶのは、白い湯気の立つビーフシチュー。僕はそれに手も付けず、思考に頭の全てを奪われていた。
右左に心配している僕を見せるわけにはいかない。僕は一笑してビーフシチューをかきこんだ。
右左はそれを少しおかしいと思いながら見つめてきたが、問いただしても僕が本当のことを言うつもりがないのを理解しているのだろう、何も言わずまた食事に戻った。
今、白詰に出来ること。時間のない僕にやれることはバイト先の姿を見せることくらいしかない。
右左が空になった食器を流しに置く。右左は一礼して食卓から去った。
それにしても、神様さんと一緒に働いている姿を見せることが、プラスになるのだろうか。人葉さんにも見せたことのないそれに、僕はいくばくかの不安を覚えていた。
でもここで止まっている場合ではない。僕は意を決し、食事を取り終えると自室へ早足で戻った。
携帯を手にし、白詰にメールを送る。
『前も言ったけど、今度うちのバイト先に来てくれていいよ』
そんなメールを送って五分後、すぐさまメールが返ってきた。
『行く行く! どんな感じでやってるのか見たいし! いつぐらい?』
神様さんにこういうことを相談せず、勝手に決めていいのか。そんな思いもあったが、今はそんなことを言っている場合ではない。白詰をもてなすこと、それに気持ちを傾けるのが大事だ。
『木曜辺りならお客さん少なめだから、その辺りで来てもらえたら』
『分かった。今度の木曜行くね』
と、返事が来たのを見て、僕はベッドに寝転んだ。
白詰がこの近辺の大学を選んだのは偶然だろう。そして僕と再会したのも偶然だ。
この再会に必然は何か一つでもあったのだろうか。考えても分からない命題に、僕はただ頭を悩ませていた。
僕がぼおっとしていると、携帯が震えた。この時間にメールを送ってくるのは神様さんくらいだ。
僕が携帯を手にすると、予想通り神様さんからのメールが着信の色を灯していた。
『今日もバイトお疲れ様。最近疲れが出てるけど大丈夫?』
僕はそれを見て「あっ」と呟いてしまった。僕は大丈夫だと思っていたのだが、どうやらかなりの疲れが顔に表れているようだ。
『色々やらなきゃいけないことがあるから、へたばってる場合じゃないよ』
『でも今倒れたら本末転倒だよ。バイト、休めそうな日は休めないか執事長に言う? 私が代わりに頑張るから』
バイト先のメイドカフェの話が出た。その言葉が三十分くらい前に来れば、僕もお願いしますと言ったのかもしれないのだが、白詰に店に来てくれと言ってしまった手前、休むわけにもいかない。
『大丈夫。ここを乗り越えられたら、少し成長したってことを感じられるから。心配しなくていいよ』
僕の言葉を信じられないのか、メールの返答が少し遅い。しばらくして、返信のランプが灯った。
『私は一宏君の言うこと信じるだけだから。でも、少しでも無理っぽかったらすぐに言ってね』
彼女の優しさが身に沁みる。僕はこんな人を好きになれたんだ。だから、恥ずかしいところを見せるわけにはいかない。
頑張ろう。僕の中に小さな闘志が燃え上がった。
それはそれで、今日はもう疲れが酷い。寝支度を調えたら今日は受験勉強をせずに早めに寝よう。
恋人達が浮かれるクリスマス。その光景を楽しめる日を、僕は来年迎えることが出来るのだろうか。
ほんのばかり憂鬱な気分になりながら、僕は風呂場に向かった。




