3.6/12 客観的な評価は当事者からすると案外難しい
昼休み、食事を取り終え僕はお茶を飲む野ノ崎と、頬杖を突きながら進路についてまだ悩んでいるミミ、そしてそんな二人を心配そうに見つめている右左の三人を眺めていた。
今一番必死にならなければいけないのは自分だと分かっているのだが、バイトで気を張り、家や休み時間に受験勉強をしているとこの時間位は気を抜きたくもなる。
「一宏、最初から理系選んでた奴がさ、一宏が最近試験の点数が悪くなってきてウケるとか言ってたぞ」
「ふーん」
「ってお前馬鹿にされて悔しくないのかよ! お前だって最初から理系に進んでたらそんな言い様はねのけられただろ!」
そうは言われても、残り半年というとてつもなく危険な時間に進路を決めたのは他でもない自分自身だ。その見も知らぬ理系生徒がはしゃいだところで、僕の人生に及ぼす影響は欠片もないのである。もしその何者か知らない理系の彼が僕より立派な大学に行って、それを肩書きにして生きるならそれはそれで安い幸せだなと思う。
僕は今、色んなものを抱えている。友人だけではない、受験、バイト、神様さん、右左、人葉さん、そして再会した白詰。
一番最初にこなすべきは受験とバイトだと分かっている。だが問題を先送りにしているような気がして、どの問題もすぐに取りかかりたい思いがあるのはまた一つ事実だった。
「ねえねえカズ君、この間噂になった人とは会ったの?」
考え込んでいる僕に、ミミが声をかけてくる。僕は笑顔を作り、ああ、と答えた。
「連絡してこの間の休み、この街の紹介したよ。二宮さんも一緒で」
と、僕が軽い調子で話すと、野ノ崎は腕を組みながら僕の目を見据えてきた。
「うちの学校この近所から通ってる奴少ないからなあ。一宏と二宮とあの子だろ、普通ならすげー目ぇ引きそうなのに何の情報も入らないのが勿体ない」
「いや、何が勿体ないんだ。まあ、元気にしてた」
「元気か……あんだけ可愛いのになかなか声かけられないってのも辛いよな」
野ノ崎の言葉に、僕は申し訳なく頭を下げた。野ノ崎が「?」となった後、僕は事の次第を話した。
「この間一緒にいた時にファミレスで話もしたんだよ。流石にあれだけ美人だから声かけられないのって聞いたら、やっぱり普通にあるって」
「だよなあ。あれでなかったらこの世にナンパする奴なんか消えるぞ」
「ただやっぱり喋り方だったりとか、本人が話しかけられたら逃げる性格してるせいでまだ付き合った男がいないんだって。その方が勿体ないと思わないか?」
と、僕がぼやくと、野ノ崎はミミ、そして右左と目を合わせ肩を落とした。
「どうかしたか」
「……兄さんらしいです」
「右左まで……とりあえずあいつが元気なら僕は何でもいいんだけどさ」
「双葉さんのこともしっかりしなきゃ、兄さん本当に見限られますよ」
右左が手厳しい一言を発する。恐らくその裏にあるのは人葉さんのことだ。
僕にとって一番困惑しているのが、人葉さんの思いとそれにどう返せばいいか分からない、この自分の不確定な感情だ。
僕は神様さんを愛している。それは本当だ。でもそれと同じ位、人葉さんを放っておけず、彼女が他の男に抱かれている姿を想像したくない。
僕の中の神様さんの思いが薄らぎ、人葉さんに思いが傾きだしているのだろうか?
そんなはずはない。ただ分かることは、僕は人葉さんの別れるのが難しいという言葉に悩みを覚えているということだ。
「で、一つ気になることがあるんだが」
野ノ崎が丼を置いて僕の目を見据えた。僕は僅かに目を逸らし、寒空に舞い散るひとひらの落ち葉を目に焼き付けた。
「あの子とお前、どういう関係なわけ」
「前も言っただろ。うざい集団追いのけただけだって」
「いや……そうじゃなくて、たとえば実は恋愛感情があったとかあの子の方から告白してきたとか色々あるだろ? そういう想像をするのもダメなのか?」
野ノ崎に言われて僕はため息をこぼしたくなった。本当にそんな関係だったら、今の今まで忘れていたはずがない。
それがない。つまり僕は白詰を保護者のような目で見ていただけだ。
「庇護対象。それでいいか」
「……まあ、お前がそれでいいなら別にいいけどよ」
「ね、ねえねえ、その子フリーなんでしょ? 野ノ崎君が誘ってみたらどう?」
ミミが早口でまくしたてながら野ノ崎の肩を掴む。だが野ノ崎は色よい顔をせず、静かにミミに言葉を返した。
「人のもの盗ったり傷心につけ込むような悪趣味してねえよ」
「……まあ、そうだよね。それが野ノ崎君の一番いいとこだもんね」
ミミは笑いとも困惑とも取れない微妙な表情を浮かべ、俯いてしまった。野ノ崎は頬杖を突きながらもう一度僕を見てきた。
「なあ、一宏。本当にあの子、無視し続けていいのか?」
「いいか悪いかで言えばよくないよな。でも白詰は弱い奴じゃない。一年半付き合ってそれは充分に分かってたし」
「そう言えば、修学旅行とか行ったんだよね。何か思い出とかあるの?」
「修学旅行か……白詰と一緒の班で行動してたけど友人とかいなかったから色々うろつきたい奴の後を黙って付いていっただけかな。ミミとか野ノ崎と一緒に行けたら面白かったのに、そこは残念だと思ってる」
僕がそう笑うと、野ノ崎は失笑気味な顔を押さえた。友人であることは嬉しい。だがそれ以上に白詰を何とかしろと言いたかったのは、鈍い僕でもさすがに分かった。
「ただ色々言ってるけど一宏の気持ちも分からなくはないんだよな」
野ノ崎が突然達観したような言葉を呟く。意味が分からず僕は野ノ崎に訊ね返した。
「何が」
「ルックスだけならあの子でも充分だけど、一宏は二宮を見た目だけじゃなくて色んな側面見て好きになったわけだろ。それにお前の性格考えたら二宮捨ててあの子に行くとか考えられないし、最終的には落ち着く所に落ち着くんじゃないかってこと」
なるほど、そういうことか。僕は妙な納得を覚えた。
白詰がこの街に住んで、大学に通う。もしかすると毎日顔を合わせるような関係になるかもしれない。
でもそこには神様さんがいる。結局僕にとって、一番重要なのは神様さんであって、あの人を裏切るような真似は出来ないのだ。
……たった一人、二宮人葉さんを除いて。
あの人との関係もどんな風に落ち着くのか。それが全く見えず、受験勉強の最中にその思いがちらつくこともある。
大切にしなきゃいけないのも分かる。でもこのままだらしない関係を続けていいのか。
無理して諦めなくていい。自分で出した結論が、ここまで自分の首を絞めるとは思ってもみなかった。
「まあ今考えるべきは女どうこうじゃなくて受験だよなあ」
「今更僕の理系転向に文句は言わせないからな」
「言うわけないだろ。俺の問題。やっぱ予備校行って都心に出るか地方の国立狙うか……」
野ノ崎は頭を抱えながら大きなため息をこぼした。こいつはこいつで相当悩んでいる様子が見て取れる。ミミが肩を叩いてもため息をもう一度漏らすだけだ。
「ベストを尽くしてるつもりなんだけど、つい欲が出るんだよな。もう少し上狙えるんじゃないかなって」
「前言ってた推薦の話とかどうしたの?」
「あれな……やっぱ断った。別にそこに恨みはないけど行きたい大学でもなかったし。自分の実力で行けそうなとこの方がやっぱりレベル高いし」
「まあ、合格しろよ。野ノ崎は根性ある方なんだから」
僕が褒めると曇ってばかりだった野ノ崎の顔が少しだけ崩れた。
「なあ、受験終わって、全員二十歳越えたら集まって酒でも飲まねえか。どんな大学行ってどんな生活してるとか、下らねえこと話して終わるだけのしょうもないこと」
「あはは、でもそういうつまらないことって案外普通の会話よりも重要だったりするよね。カズ君も勿論参加するよね?」
「……時間と体力が合えば。というかまだ相当先だぞ」
「分かってるって。でもこれが、俺なりの受験合格への誓いだ。っしゃー! 何か気合い入ってきたから教室戻って受験勉強するわ! 一宏、あの子に笑ってる方が可愛いって伝えといて」
最後に野ノ崎らしいことばを残し、野ノ崎は去っていった。
「私も専門学校どこに行くか決めないと」
「就職はいいの?」
「なかなか見つからなくて……でも手に職を付けてない素人雇う会社なんてそうあるわけないし。だから、私は私なりに頑張ることにしたの。カズ君も頑張ってね、勿論右左ちゃんとか二宮さんのことも」
ミミは微笑んでそこから立ち去った。僕と右左は残された先で、静かに周囲を見ていた。
「何だか、皆さん色んなことを考えてるんですね」
「そりゃ、人生の分岐点の一つだから」
「人生の分岐点ってどれくらいあるんでしょう?」
右左が難しい質問を寄こしてきた。高校で進路を決めることか、どこの高校に受かるか受験に臨む時か、それとも好きな人と出会って恋に落ちる時か、偶然の結果自分の人生を掛けるような会社に入ることか。
考えれば、人生の分岐点なんて振り返ったら「それがきっかけだった」と言える程度のもので、修正も充分可能なのだ。
「右左もここに戻ってきて結構経つけど、どう?」
僕の質問の意図する所が分からないのか、それともただ単に悩んだだけなのか、右左の視線は食堂の向こうに広がる植樹を追っていた。
「やっぱり、大変か」
僕が呟くと、右左はおもむろに頷いた。それでも、頬に笑顔はわずかばかりに浮かんでいた。
「大変です。やっぱりまだ不安が先に来て」
「……右左を支えてやらなきゃいけなかった時にいなかったのは、今でも心苦しい」
「そんなこと、兄さんが気にすることじゃないです。これは私の問題で、私が乗り越えなきゃいけないことですから。きっと、一年目を乗り越えられたら次の学年でもうまく行く気がしてます」
と、右左は満面の笑みで僕を見つめた。その横顔にかつての悲壮感はない。まっすぐ、未来を見据えた少女の姿があった。
僕は神様さんと知り合って色々な感情を覚えた。でも、神様さんのことを思いすぎて、考えるフィールドを狭くしていた気もする。
白詰のことだってそうだ。白詰が勇気を出してこの学園に訪れてくれなかったら、僕は一生あいつのことを思い出すことはなかった。
難しいけど、色んな人と向かい合わなきゃならない時期が、僕にも来ている。この学園にいられるのも残りわずかになってきた。だからこそ、自分の気持ちに整理をつけて、色んな大切な人に感謝の思いを伝えたい。
と、僕がそんな感慨にふけっていたことに右左は気付いたのか、下からくいっと近い距離で覗き込んできた。
「兄さん、考え事はあんまりよくないですよ?」
「どうして」
「兄さん、考え出したら思い詰める方ですから。だから、もっと気持ちを大きく持ってほしいって私は思ってます」
ちょっと前なら、僕が右左に言ったような言葉。それを右左に言われて、僕は気恥ずかしさよりおかしさの方が先に来た。
でも、右左は成長している。一日一日、少しずつ成長している。だから僕は、右左がくじけないように色んな面でサポートしてあげなきゃいけない。
僕は空になった弁当箱を持って立ち上がった。ここでおしゃべりに興じるのも悪くはないが受験勉強もしなきゃいけない。右左もそれを分かっているのだろう、僕に頭を下げた。
「兄さん、頑張って下さいね」
「ああ」
「あと……双葉さんがいるのに、人葉さんへのああいう態度はちょっと……」
ああ、やっぱり気にされてる。あんまり考えたくないことではあるが、逃げるわけにもいかない。
僕は右左の目を見据え、微笑んだ。
「人葉さんにも色々借りがあるから。右左の心配するようなことじゃないよ」
「……ならいいですけど。兄さん、受験勉強頑張って下さいね」
「もちろん。それじゃ、教室に戻る」
最後に右左が「はい」と返事したのを聞いて、僕は食堂から去った。
それにしても、人葉さんの問題か。
精神的に結ばれないなら、一夜限りでもいいから僕と繋がりたいと願う人葉さん。
でもそれは本質的な解決にはまったくならないのも、お互いに知っている。僕はそんなことで人葉さんを軽く慰め、終わりにしたくはない。
では、人葉さんと定期的に体を交わらせることが正しいのだろうか。それはそれで、また違う気がする。
結局、秋の空と一緒で、考える度に答えは変わっていって、正しい方向性なんてまったく見えなかった。
受験のこと、神様さんを裏切るなんて出来ないということ、右左を守ること、そして白詰のこと。どれから手を付けていいのか分からず、全部うまく仕上げられるなんて、今の僕には考えつかなかった。




