3.6/10 感情のスクランブルエッグ
食事を終え、僕達は再び何もない外の街をぶらぶらと歩いていた。
と言っても何もないわけではない。白詰がここで生活するに当たって必要なスーパーの場所や特色、たまに行くための定食屋などある程度のことを教えていた。
空はすでに夕暮れ。結局、何か新しいことがあるようでないような、微妙な一日だった。
「そう言えばさ」
突然白詰が僕に目を向けた。緊張のない、落ち着いた声だった。
「塚田君、今バイトしてるってこの間言ってたけど、お金大変になったん?」
ああ、そのことか。僕が笑うと隣にいた神様さんも同じように笑っていた。
「な、なんかおかしい話なん?」
「違うよ。ちょっと面倒だけど、乗り越えなきゃいけない話」
「……何、それ」
白詰はきょとんとしながら僕を見つめ続ける。僕はそんな白詰に、ゆっくりと語っていった。
「本当は前の街に戻る予定だったんだ」
「え……?」
「でも、この街にいなきゃ、二宮さんと知り合うこともなかった。それに二宮さんとずっと一緒にいるためには、この街にいるのがベストだって思った。ほら、遠距離恋愛とか出来そうなタイプじゃないし」
そう笑うと、神様さんも同じような温度で表情を崩した。
「私も最初はこの恋は終わりなんだなって思ったんです。でも一宏君が一生懸命やってくれて最後はお父さんを説得したんです」
「お父さんを説得……」
「学費も生活費も一切のことを全部自分で出す。だからどうやってもこの街から離れないって。その言葉を聞いた時に、本当にこの人を好きになって良かったって思いました」
その言葉を聞くと、白詰は「あはは」と小さな笑い声を出して、少し俯いた。
どうも僕と神様さんのなれそめを聞いても、白詰はあまり大きな喜びを示さない。心に響いているのは間違いないと思う。だが、その先が何もない。その目は濁っているように見えて、あの頃の白詰を思い出させるようだった。
「白詰」
「あ、あ、あ、な、何?」
「今度バイト先来いよ。メイドカフェで執事やってるんだ」
「つ、塚田君が執事? 面白いね、それ」
僕の言葉に白詰はようやく大きな笑い声を上げた。僕はただし、と付け加えて話を続けた。
「二宮さんがそこで一緒に働いてて、いわゆるメイドさんやってる」
「……二宮さんみたいな美人さんがメイドさん」
ぼおっとした面持ちで白詰は呟く。僕は困ったなと思いながら、神様さんの肩を叩いた。
「私なんて全然美人でも何でもないですよ。白詰さんの方がよっぽど魅力的だと思います」
そんな言葉を告げられても白詰の表情は変わらなかった。
白詰を明るくさせる話題なんてあるのだろうか? 僕はこの霧の晴れないような状況に悩み出した。
「あの、白詰さん、今日はどこか泊まっていくんですか?」
「あ、あの、そ、そういうのはなくて、今から帰って、また明日から学校です。じゅ、受験終わってるから、わ、私暇なんですけどね」
確かに。推薦で決まった後なんて遊んでいいよと言われているのとほとんど変わらない。
僕も理系に転向した際に、推薦でも決まってたら楽だったんだろうか。静かに揺らめく雲を見つめながら、ぼんやりとそんなことを思った。
「つ、塚田君受験どうなの?」
「今日話した通り。さすがに半年で理系転向はバカかって教師に怒られた」
僕はあえて大きく笑ってみせた。だが白詰も神様さんも色よい顔をしない。
そりゃそうだろう。農学部と一口に言っても色んな大学がある。この近辺にたまたまあったのが、僕の目には今まで入っていなかったそこそこ高レベルの大学である。
と、そんなことを考えながら僕はふと思った。僕は神様さんを絶対に手放したくない、それどころか縛り付けたいという妙な欲求がある。
神様さんは魅力的な人だ。他の誰かに取られるなんて、絶対に嫌だ。僕だけの神様さんでいて、僕だけが彼女の体の全てを知っている人になりたい。それが僕のモチベーションに変わり苦労を跳ね返す力になる。
改めて思えば、変態、その一言に尽きると思う。でもその変態性がこの関係をうまくつなぎ止めてくれているとも思った。
「で、でも塚田君頭いいから、きっと受験受かるよ」
「そうかな……結構厳しいところなんだよな」
「一宏君、そんな弱気でどうするの。お父さんとの約束も、右左ちゃんとの約束も果たせなくなるよ?」
神様さんに指摘され、僕はそうだね、と軽く答えた。
でもその一言に込められた思いは重くて、僕は頑張らなきゃと思った。
「そう言えば白詰はどういうのに進んだの?」
「え、英米文学。じ、自分の知らない文学を読んだら、こ、この吃音もちょ、ちょっと、治るかなって思って」
そんなことはないだろうと思う。きっと白詰は本当に英米文学を学びたいと思ったはずだ。でもそこでこうしたかったと自慢げに語らないところが、何より白詰を褒めたくなるところだった。
「白詰、僕の理系転向よりよっぽど未来があるんだから、頑張れよ」
「そ、それって、つ、塚田君の理系転向、未来ないみたいやん」
「まあ、花の改良を覚えて、経営学部の方にも顔を出して花屋さんの運営の仕方も覚えたいってだけだから」
「そ、そういうの、ゆ、夢があるって言うねん。あ、あの、二宮さん、つ、塚田君結構変な人かと思いますけど、よ、よろしくお願いします」
と、白詰が深々と神様さんに頭を下げると、彼女はぽんと白詰の肩を叩いた。
「一宏君が魅力的な人になった理由、今日白詰さんと話してて分かりました。白詰さんとのことがなかったら、きっと一宏君、普通の人で終わってたと思います。私が惹かれるくらい魅力的な人になった理由を教えてくれただけで、感謝してます」
神様さんのとつとつと語る言葉に、白詰は何も返さない。反論したくないわけではない。その言葉の一つ一つが心に響いているのだろう。
でも僕は今、神様さんの彼氏だ。白詰も大事だが、僕は神様さんを幸せにしなきゃいけない。そのために農学部に進むのだから。
僕は白詰を横目で見た。今日一日、明るい声を出していたが、その割に顔色はよくなかった。
病気をおしてここへ来たのかもしれない。そうとも考えたが、ずっと辛そうにしている白詰は僕の記憶にはない。
野ノ崎は白詰と神様さんを引き合わせろと言った。その反対で、土川先生は引き合わせるのは時期尚早と呟いた。
僕は野ノ崎の言葉に乗ったが、それはミステイクだったのだろうか?
それが分からず、僕は白詰に笑いかけてみせた。
「バイト先でべたべたは出来ないけど、一生懸命もてなすから、来てくれよ」
「う、うん……塚田君が、そういう仕事してるのって、い、イメージにないから、た、楽しみにしてる」
「白詰さん、今日はありがとうございました。私、失礼なところがあったかもしれないですけど、一宏君の昔話とか聞けて、とてもためになりました。ありがとうございます」
神様さんが頭を下げると、白詰も同じように頭を下げた。今日はここで終了らしい。
白詰は改札へ小さな歩幅で向かう。それはまるで、まだここにいたいような素振りだった。
こんな話になるなんて、思ってなかったんだろうな。僕は白詰にいくばくかの申し訳なさを覚えていた。
白詰は改札をくぐる。これで終わりかなと思っていると、白詰は大きく手を振ってきた。
「つ、塚田君! に、二宮さん! また会おうね!」
その大きな声を残すと、僕達の反応を待つこともなく走って駅へ消えていった。
「……白詰、相変わらずだな」
僕がぽそりと呟くと、隣にいた神様さんがそっと答えた。
「あの人、自分で分かってないだけで凄く魅力的な人だと思うよ」
「神様さんがそうだったから?」
「私がそうだって言うつもりはないけど、自分のマイナスの部分に引っ張られて自己評価が低くなってるんだと思う。私は白詰さんとこれからも仲良くしたいな」
と、神様さんは僕の目の前に一歩移動して、微笑んだ。出来れば僕もそうあってほしい。僕は白詰と神様さんがうまくいく方法を、静かに模索していた。
「このまま帰る? うち寄ってく?」
「さすがに今から行ったら右左ちゃんに気を遣わせるし……まあ、そういうこと目当てって思われちゃうから。それにきみは明日も学校があるわけだし、今は頑張らなきゃ」
「そうだね。ちょっと残念だけど、家帰って勉強して寝るよ」
「そうそう。……その代わり、合格決まったら、凄い感じでしようね」
と、彼女は僕に真正面から抱きつき、軽く口づけを交した。
そして、腕を解くと改札にICカードを当てて駅の中へ消えていった。
普段も凄いけど、合格祝いで気分が高まってる時にするって、どんな感じだろう。考えたこともなかったのに、想像しただけでむらむらした気持ちが昂ぶってきた。
「……まずは受験。まずは受験」
僕は自分に言い聞かせながら、薄暗くなってきた街並みへ戻っていった。
そんなことを考えている際にふと蘇る、白詰のどこか寂しそうな表情が、僕の胸を締め付けた。白詰は何を言いたかったんだろう。
考えても仕方ない。僕は神様さんのことを考えることに思考を切り替え、白詰のことを一旦脇に置くことにした。
僕は、白詰に贖罪をしたいと思っていた。だが結局、その機会を逃した。それよりも、白詰がそれを求めていないような気がして、僕の心を惑わしていたのかもしれない。
いつか、この気持ち悪い感情が吹っ切れますように。
僕は暗がりの空に浮かぶ月に静かな願いを込めた。




