3.6/9 一人じゃなくて、二人
バイトの日々を繰り返して、僕はようやく白詰と約束した日曜を迎えた。
駅にはすでに、神様さんがいる。
彼女は今日は自分が目立つべきでないと認識しているのか、いつものように腕を組んでこない。
何となくその距離感がもどかしく、白詰に会った時にどんな顔をしようか僕を迷わせていた。
「一宏君、時間、そろそろだね」
「そうだね……あいつが遅刻する印象ないんだけど……」
と、僕達が呟いていると、駅の向こうから一生懸命走ってくる姿が見えた。その姿は間違いなく先日見た白詰の姿だった。
「塚田君、ご、ごめん、遅れちゃった」
「いや、時間ちょうどだから大丈夫。てかそんなに慌ててどうした?」
僕が訊ねると、改札口を潜った白詰がショートボブの髪を揺らしながら息を切らして僕に笑ってきた。
ただそんなところも白詰らしくて、僕は思わず唇の両端を上げていた。
「あ、ああ、あのな、早く来て、お、驚かせようと思ってん。で、でも一駅間違えて……」
ああ、なるほどな。一駅間違えてずっと待ってたのにいつまで経っても誰も来ないから焦ったパターンか。少しドジな所のある白詰らしいミスと言えば白詰らしい。
白詰が近づくと、神様さんが僕の側について、頭を下げた。その姿に臆したのか、白詰は一歩退いた。
「あの、一宏君とお付き合いさせてもらってる二宮双葉って言います。その、よろしくお願いいたします」
「あ、あ、あ、あの、私は白詰美津香って言います! そ、そのよろしくお願いします! っていうか今日二人やなんて聞いてなかったからちょ、ちょっと驚いてるかな、あはは」
白詰は一段と大きな声を上げて頭を下げた。そんな気にする必要のあることかな。僕はそんなことを思いながら、二人のやりとりを眺めていた。
「あ、あ、あ、の塚田君、す、凄く美人さんの彼女やね。う、羨ましいな」
「あの、私なんかより白詰さんの方が美人ですよ。白詰さん、顔の整い方が女優さんみたいですし」
と、神様さんがフォローに回っても、白詰はそれをすぐに受け入れられないのか両手を震わせながらそれを制していた。
「あの、白詰さん」
「な、何ですか?」
「私、前の街で一宏君が何やってたか全然知らないんです。出来れば、色々教えてくれると嬉しいなって思ってます」
と、神様さんが言うと、白詰は作ったような笑い声で神様さんに強く答えていた。
「そ、そんなの色々、色々教えられることありますから! き、気軽に聴いて下さいね」
白詰は緊張しているのか、吃音に上ずった声という二重の辛い声を大きく張り上げていた。
でもそこに悲壮感はなく、僕はそんな白詰を温かく見つめることが出来た。
「あの、白詰さん、前の学校で一宏君と一緒だったんですよね」
「ク、クラスも、い、一緒でした」
「一宏君、今の学校で成績いいって言われてるんですけど、前の学校ではどうだったんですか?」
神様さんが沈黙にならないよう、自然に話を振っていく。それを見極められたかどうか分からない白詰は、「あはは」と笑いながら静かに答えた。
「成績、良かったです。……わ、私じゃどうにもならないくらい。いっつも学年トップ。わ、私の行ってる学校って、一応進学校扱いなんやけど、凄く実績があるってわけでもなくて。でも塚田君は特別成績がよ、よかったです」
彼女の言葉を聞いて、神様さんは相好を崩した。自分が褒められているわけではないのに、恋人が褒められているのが嬉しいのだろう。
「あの、私実は中卒なんです」
「え……?」
「学校で、変なことばっかり言って。それで周りに誰も味方してくれる人がいなくなって学校辞めました。でも、心を閉ざしてた時に一宏君に出会って、色々な話とかしてる内に好きになって。今お互いに好きって言い合える関係が嬉しいんです」
神様さんはその話をした。僕と神様さんが恋人同士であることを。
白詰はどんな顔をするだろう。僕はじっと見つめた。すると、白詰は「はは」と笑いながら神様さんに微笑んだ。
「この人、全然人付き合いしない、ひ、人やったからし、心配してたんです。でも、そういう、そういう関係の人が出来たっていうのは、わ、私も嬉しいかな」
その言葉は本音だろうか。僕は白詰の緊張したように張り詰めた顔を一度だけ見つめてから、無言のまま流れる光景に視線を移した。
「誰も私の味方をしてくれない時に、私の前に現れて私を救ってくれた……一宏君は、自分のこと過小評価してるけど、私にとって大事な人であることは間違いないです」
うっとりと神様さんが天を仰ぎながら呟くと、白詰は大きく笑いながら僕の背をぽんと叩いた。
「つ、塚田君、こんな可愛い彼女さんが、そ、そんなこと言ってくれてるんやで。もっと嬉しそうにせんとあかんよ」
僕は苦笑しながら二人の間を抜けていく。
ふいに白詰の表情が目に入る。白詰は戸惑ったような、何も言い出せないような顔つきだった。
「白詰は僕とどうして出会ったか言わないの?」
「あ、あ、あ、あの……私、は、話すの下手やから……」
「あの、白詰さん、無理して話す必要ないですよ」
神様さんは優しく止めていく。だがそれが契機となったのか、白詰は息を飲んで神様さんにことの次第を話し出した。
「わ、私、出身は割と都心に近いところ、や、やったんです。でも、う、生まれてしばらくして、お、親が大阪に転勤になって、小学生、小学生の頃まで大阪で住んでたんです。でも、こ、言葉が慣れなくて、気付いたら、こんな風に、詰まった喋り方になってました」
「そうだったんですか……」
「ちゅ、中学でも馬鹿にされて、だ、誰とも喋らなくなって、こ、高校入ったら自分に自信、も、持てるかなって思ったんですけど、全然で……」
「でまあ、僕が勝手にしゃしゃり出たわけ」
と、僕が白詰に微笑みかけると、白詰は恥ずかしそうに俯いてしまった。神様さんは何があったのか知りたそうに僕の顔を覗き込んだ。
「高校入ってすぐに頭の悪いグループに吃音馬鹿にされて。最初は僕も無視してたんだけど、何か凄く腹が立って。気付いたらそいつらの一人殴って停学食らった」
と、僕が笑うと神様さんも先日の右左のように凍った表情になっていた。
「で、でもあの時塚田君があの人達追い払ってくれなかったら、わ、私、高校辞めてたと思う! あ、あの時塚田君が私を守ってくれたから、私、大学まで行けたって思ってるから!」
白詰は強い言葉で僕に感謝の言葉を告げる。
あの時僕は守ったのだろうか。ただバカがはしゃいでうるさいから殴ったという可能性もある。でも、僕は白詰のあの目を見過ごすことは出来なかった。
ちょっと喋れないことが馬鹿にされる? そんな風に人をからかう奴は言葉を失えばいい。本人がどれだけ苦労しても、なかなか治らないことだってある。
だから今、僕は白詰が大学まで進めたことに、嬉しさより安堵を覚えていた。
「あのバカ共元気にしてる?」
「うん……ほとんど普通科で残ってるけど一人学校辞めたよ」
「……だろうな。あの一件で教師に目付けられてる感じしたし」
僕と白詰が吐息混じりの会話を繰り広げていると、神様さんが横からにこっと微笑みかけてきた。
「つまり、白詰さんは一宏君に凄く感謝してるわけですよね」
「感謝……感謝かな……。あの、二宮さん」
白詰はゆっくりとした口調で神様さんを見た。その視線は柔らかく、真上に輝く太陽のようだった。
「守ってもらったのも事実やし、あの頃の私が弱かったのも事実やねん。だから、あの夏休みが終わった後、塚田君がいなくなったって聞いて、凄く辛かった。もう会えないって思ってた。でも、こうして会えるだけでも、凄く嬉しいねん」
きちんと詰まらずに言いきると、白詰はふうと大きな息をついた。
僕はあの夏、唐突に引っ越しが決まったとはいえ、教師以外誰にも知らさずに去った。だからその後、前にいた高校がどうなったかなんて知らないし、知るつもりもなかった。
僕にとって重要だったのは、それからこの街に来て、一人の少女と知り合って自分の心の中でまったくなかった恋愛感情を覚え、それを成就させたことだけだった。それはそれまでの自分を否定して、心の中に隠れていたこうでありたいという己を見つけたことでもあった。
「白詰、悪かった」
「え、え? な、何?」
「何も言わないで引っ越ししたこと。誰にも言わなくても意識されることなんてないって思ってたから、全然気にしなかった。でも白詰が気にしてくれてたって聞いて、悪かったって気持ちになった」
僕が軽く頭を下げると、白詰は大慌てで手を振った。その一挙手一投足が僕の罪悪感をかき立ててくる。
「し、仕方ないよ。塚田君の家、そういう忙しいとこやって聞いてるし」
「うん、私もそう思います。最初はこの街に住んでて、家庭の事情で引っ越して、それでまたこの街に戻ってきたわけだし。白詰さんも一宏君もどっちも悪くないと思いますよ」
神様さんに促され、僕はそんなものかな、と思った。
どれだけ相手が許してくれても、自分の中で許しきれないことはある。あの時気付かなかったが、僕はあの日、間違いなく白詰を裏切った。それを謝罪し表す術が見えないのだ。
「あ、あの、二宮さん」
白詰が突然神様さんに声を掛けた。神様さんは小首を傾げながら白詰を見つめた。
「何ですか?」
「そ、その二人が付き合うようになったのって、ど、どっちから声をかけたんですか?」
そんなことか。そう言いたげに神様さんは少し笑いながら、青の広がる大空を仰いだ。
「最初に声をかけたのが私で、告白してくれたのが一宏君です」
「そ、そうなんや。つ、塚田君そういうの、あんまりうまく言いそうにないタイプかなって思ってたから、ちょ、ちょっと意外かな」
神様さんは彼女の機微に気付いたのか、そうですね、と一呼吸置いて静かに言葉を続けた。
「私も一宏君も、言い出すの本当に下手でした」
「え?」
「私は好きだって思ってても何にも言えなくて、一宏君も言い出せなくて。そしたら周りの人達が色々サポートしてくれて、ようやく素直になれたんです」
そう言うと神様さんは白詰の顔を覗き込んで、くすりと笑った。白詰はどうしたものだろうという顔をしつつも、頑張って笑顔を作っていた。
「一宏君、前の学校で友達いなかったって聞いてるんですけど、本当ですか?」
今度は神様さんが訊ねる。白詰は薄い笑みをたたえながら、静かに答えた。
「ほ、本当です。て、ていうか、友達にな、なりたいっていう子は、た、たくさんいたと思うんですけど、つ、塚田君一人でいる時間のほ、方が多かったから」
「あの頃は意識してなかったけど、前の学校で友人って言えたのって白詰だけだったと思う。白詰とこうして再会出来て、本当に良かった」
僕は軽く呟く。しかし、白詰の顔はそれほど明るくはならなかった。
曲がり角に差し掛かる。以前見つけた脂ぎったのれんが目印の中華料理屋が見えた。
「あそこのラーメン前食べたんだけど結構うまかった。昼にはちょっと早いけど、食べに行かない?」
「あ、いいね。白詰さんもそれでいいですか?」
「あ、あ、うん。だ、大丈夫。行こう!」
と、白詰は言葉に詰まりながらも、それをひっくり返すほどの明るい笑顔を見せてそのまま僕達に付いてきた。
僕の償いたいという思い。それは今日、白詰に伝わるのだろうか。
少し冷えてきた秋の終わり、僕は枯れ葉の舞い散る植樹を見つめていた。




