3.6/8 不安は雲のように流れて
その日僕は、休み時間学校の中をうろついていた。
別に野ノ崎達と揉めたわけではない。バイトに向けて英気を養っているだけ、という名目で一人ぶらぶらしたかっただけだ。
それにしても、学内の様子を見ていると、案外一人で過ごしている奴は多い。
みんな色んなものを抱えているんだな。僕はそんなことを朧気に思いながら、校庭や中庭、渡り廊下と日差しの当たる場所を重点的に歩いていった。
「あら、塚田君」
当たり前だが、うろうろしていれば知り合いと会う可能性はある。僕は顔を上げた。右左の担任である土川先生が僕に微笑みかけていた。
「どうも」
「バイト、どう?」
「おかげさまで何とかこなせてます」
「バイトもそうだけど成績維持出来てるのはありがたいわ。そうじゃなきゃ他の先生に説得した私の立場が本当になくなるんだもん」
彼女の言葉に僕は凍り付いた顔で空笑いを浮かべるしかなかった。
彼女は夏休みの間、うまく教師に説得してくれた。勿論、僕に恋人が出来たのが理由だとは言っていない。家庭の問題でバイトを始めなければならない、そう説明したのだが、では妹もバイトをしなければならないのではないのかという当然の疑問を挟まれた。
その説明に整合性を持たせるため、彼女は色々な言い訳に四苦八苦しながら、何とかバイトの許可を取り付けてくれた。僕にとっては恩人の一人である。
本来なら担任にこういったことを任せたいのだが、事なかれ主義の担任では全くそれは期待出来ない。だからこそ僕ではなく右左が土川先生に説得をお願いした。
結果それが功を奏したが、あのままバイトが決まらなければ独り立ちして神様さんと一緒にいるという父との約束も始まる前から果たせず終わったに違いない。
「それにしても塚田君、学校の試験は文系で、受験は理系。うまくいってるの?」
「……それに関してはきついと思ってます。学校の試験は正直楽勝って思ってる部分はあるんですけど、さすがに半年で生物の発展の範囲をこなすのは貯金もないんできつくて」
僕が弱音を吐くと、彼女は少しはにかみながら僕の頭をぽんぽんとはたいた。
「私はね、他の子がそんなことやるんだったら浪人しなさいって言うか、まず無理だからやめなさいって言う。でもね、あなたはそんな言葉を跳ね返す奇跡的な力があると思ってるの」
「奇跡的な力……」
「それはね、あなたが抱えてる大切な人に報いたいっていう思い。その人のためならどんな苦労でも平気で乗り越えられるっていう目をしてるから、私はあなたのこと、反対する気がなかった」
彼女は優しく告げる。そんな言葉が今の自分のふがいなさに重なって、僕は何故か泣き出しそうになっていた。
でもこんなところで泣いていたら、試験の当日は悔しさで泣く羽目になる。僕は笑顔を作って、彼女の目を真っ直ぐ見据えた。
「右左ちゃんも成績トップをずっとキープしてるし、あなたが他の人にもたらしてる影響って、あなたが考えてるより大きいものよ」
「……だといいです。僕は前の学校で何にも残さず去りましたから」
「その、学生のプライベートに踏み込む教師ってちょっと嫌だと思うんだけど、前の学校であなたの知ってる子と会ったって本当?」
「本当です。多分、前の学校でいた唯一の友人です」
「友人に多分を付ける辺りがあなたらしいわね」
そこを突っ込むのか。僕のいつもの癖を突かれ、苦笑しながらはい、と頭を下げた。
「僕はそいつを特別視してなくて、たくさん話しかける奴だなと思ってたんです。でも、わざわざ会いにきてくれて、あの頃の時間は何だったんだろうって考え直して。それが大きな理由かもしれません」
僕の言葉を聞くと、彼女は艶のかかった唇に人差し指をあて、空を見上げた。
「それは仕方ないわよ。どれだけ相手がアプローチをかけても気付かなきゃ全然どうしようもないことなんてたくさんある。あなただって今の彼女と結ばれるまで、意識しなかった時期があるでしょ?」
そう言われてみると、確かにそんな時期もあった。僕は神様さんを見て、笑う。そこに恋愛感情なんてなくて、ただ友人のように言葉で遊んでいた。
でもそれの積み重ねがいつしか恋愛感情に変わって、僕は彼女と共に過ごす時間を大切にしていくようになった。
恋愛は、どこをきっかけにして恋愛感情になるかなんて分からない。僕も神様さんを好きになった直接的なきっかけなんて今も思い出せない。そんなきっかけさえなかったような気がする。
人葉さんにも、そういう出会いがあってほしいと願う。僕に依拠する人葉さんは確かに可愛い。でも、僕から離れないと、人葉さんは新しい一歩を踏み出せないのではないのかと感じる。
恋愛って、僕が考えているより難しいのかもしれない。それが経験値の少ない僕に戸惑いを与えてくる。他人の感情を察する前に、その感情を知らなかった。だから想像も出来ず一人また悩む。ようやく覚えた思いが、僕の目の前をくらくらさせた。
「最近の右左ちゃん、周りにも笑顔を見せるようになって本当にクラスの中心になってる」
「あいつ、多分人付き合いの仕方を忘れてただけなんですよ。今見せてる姿が、本当の楠木右左だって僕は思ってます」
「そうね。生徒会のこともハードワークにならないかって思って心配してたけど、この調子なら大丈夫と思う」
「はい。僕もそれを信じたいですし、出来ると思っています」
僕の答えに満足したのか、土川先生は背伸びをして真っ直ぐ前を向いた。着痩せするタイプなのか下着で押さえつけているのか、ふと横を見ると、普段は程ほどにしか見えない胸が意外なほど大きく目立った。
「右左ちゃんのお弁当、栄養バランスきちんと考えてるってあの子から聞いて凄いなって思った」
「そうですか?」
「私なんて学生時代親に弁当作ってもらってたのに文句言ってたもん」
「先生みたいな人でも文句言うんですね」
「私は聖人君子じゃないわよ。でも、ここに通うみんなにとっては、退職するまで話しやすい年上の女性でいたいとは思う」
彼女はやっぱり立派な人だ。もし仮に、右左の担任が違う人なら、こんな運命を迎えられなかったかもしれない。
右左は遠回りをした。でもその遠回りなんてたったの一年で、その間に力をため込んでいたものが今強く発揮されている。
右左の休学していた一年は無駄にならない。僕はそのことを強く思うと、自然と勇気がわいてくるような気がした。
「で、塚田君。以前の学校の子とはどう過ごす気?」
「喫茶店によって、長い思い出話と無駄話をして。そんなことを考えてます」
「今の彼女さんは嫉妬しないの?」
「今度一緒に来てもらう算段になってますから」
と、僕が笑うと、彼女の顔は少し曇った。何かまずいことを言っただろうか。僕は少しばかり彼女の顔を覗き込んだ。
「きっと君と彼女さんの間にひびは入らないと思う。でも、その来てくれる子は複雑かもね」
「どうしてですか?」
「その子が君に特別な感情を持っているかどうかは別として、君との間にある空白の時間を見せつけられるわけじゃない。そこが難しいって私は思うの」
その言葉は反論の余地がないほど当然のものだった。
僕は黙った。野ノ崎は全く逆のことを言った。でも、もしかしたら野ノ崎は僕が一年間しっかりやっていたところを見せるために、神様さんを白詰と引き合わせろと言ったのかもしれない。
こうなったら、なるようにしかならない。僕は覚悟を決め、神様さんと白詰を引き合わせる方向に舵を切った。
「先生、ありがとうございます。でも、僕とそいつに、取り立てて大きな思い出なんてないから、きっと大丈夫です」
「……あなたにとって思い出がなかったとしても、相手にとって深い思い出があることもあるわ。でも君は、一度決めるとなかなか方向転換で来なさいタイプっぽいから、私は失敗しないように祈っておく。あと、右左ちゃんのサポート、しっかり頑張ってね」
彼女は最後に満面の笑顔を見せ、そこから静かに立ち去った。
野ノ崎の言いたかったこと、土川先生に言われたこと。かみ合わないようで、方向性は同じに見える。
僕はどうすればいいのだろう。ぼんやりした視界に映る青空は、僕にヒントの欠片もよこしてくれなかった。




