3.6/6 突きつけられた一つの言葉
その日の昼休み、僕はいつものメンバーで集まって学食で昼食を取っていた。
同学年で旧友でもある野ノ崎、三重美咲、そして妹の楠木右左だ。
野ノ崎は代わり映えのしない麺類を食べながら、揃いの弁当を食べている僕と右左を見る。うどんではなくそばであるところに進化を感じなくもないが、やはりもう少し食べた方がいいだろうと思った。
「この間も聞いた話だけど」
「この間聞いたんだったらもういいだろ」
「いや、あれから校門どころか駅でもお前の知り合いの無茶苦茶美人の子見かけたって聞かないし。あれ美人過ぎてヤバかったから、俺と一宏が集団幻覚でも見たんじゃねえのかなあって思ってるんだよ」
と、野ノ崎はぼやく。そこには一瞬しか見たことがないこと故の疑問が浮かんでいた。
右左もそれをここで聞いていたため、当初は白詰の存在を話の上でだけ知っていたが、まったく見たこともないため、段々とその存在に疑問を感じるようになっていた。
「兄さんの以前の学校の友人さんですよね……兄さんとどういう関係だったのかも分からないですし、私が言えることはないです」
と、右左はしょぼんと俯いた。
だがそんな中でも僕を信じてくれる人はいるもので、困惑する右左を尻目に僕に笑顔を向けてくる者もいた。三重美咲、通称ミミである。
「でもカズ君凄いな。本当に綺麗な人に囲まれるよね」
白詰の存在を唯一肯定してくれるミミがくすりと笑って呟いた。すると右左が横からすかさず声を発してきた。
「兄さんの浮気癖が出るかもしれないので、しっかりしてほしいです!」
その言葉に野ノ崎もミミも「え?」という顔をした。
それもそのはずだ。僕は二人からすれば神様さんを溺愛して、他の人間に脇目も振っていないという人間に映っているはずなのだ。
何故右左は僕が浮気癖を持っているというのか。と、そこで気付いた。もしかしたら、人葉さんのことを誤解しているのではないのか。
先日の同じ布団で眠ったのは、若干言い訳しにくいところもあるが、それでも共に同じベッドで文字通り何もせず寝ただけである。性的接触は人葉さんが抱きついてきた以外はなかったと言える。
もっとも、普段から勉強を教えに来た時に、絡みついたりじゃれるようにキスをしてきたりするのを右左は見ている。僕が無反応なので、神様さん同様気にしていないのかと思ったが、右左は右左で、あの行為を汚らわしく思っていたらしい。
その辺は今度人葉さんと話してみるべきか。僕はふうとため息をこぼした。
「ところで一宏、受験勉強の方進んでんの?」
「ほどほどに」
「合格出来そうなの?」
「このまま追い込みかけたら、ぎりぎりセーフで何とかなりそう。逆に言えばちょっとでも気を抜いたらアウトかな」
と、笑う僕を野ノ崎もミミも眉をひそめながら見つめてくる。ここで余裕を装うことに何の意味もないらしい。
「二宮のことなしならお前も予備校行けるのになあ……」
「野ノ崎君、それだったらそもそもカズ君理系転向とかしないし、現役でいいとこ普通に入るよ」
「まあそれもそうか。一宏妹、こいつ家の方の勉強どうなの?」
と、野ノ崎は当たり障りのない話を右左に振る。右左ははっとしながら、慌てて笑顔を作った。
「だ、大丈夫です。兄さん一人で頑張ってるわけじゃないですから」
「確かに二宮のために頑張らなきゃって思うよな。そういう意味じゃ恋人の存在はでかいってのは分かる」
野ノ崎は訳知り顔で頷くが、きっと右左が咄嗟に呟いてしまったのは、僕に勉強を教えるという名目でスキンシップを仕掛けてくる人葉さんの事だろう。右左に先日の布団での一件を知られるとまずいな。僕は黙って食事に逃げた。
「ところでさ、前の街からって言うけど、俺もミミもお前がどこの街住んでたか知らないんだよな。どの辺?」
「そう言えばそうだよね。結構遠いの?」
そう言えば、そんな話はしなかったと思う。以前の街は俗に言う大都会で、近所にここしか大学がなかったから、とかそういう言い訳が一切出来ない街だった。
高校も少し脚を伸ばせば色んなところに行けたのだが、炊事洗濯掃除、ありとあらゆる家事と学業、そして余裕の欲しかった僕は近場の高校に行った。
そして、そこで白詰と知り合った。
「大体ここから電車で三時間くらい」
「まーた中途半端に遠いとこだな。そもそもなんでこの街に家建てたのかも分からねえけど」
「当時は両親二人とも出世して別の街に行くとも思わなかったし、ここらで買えるくらいの家が収入的にちょうど良かったんだって」
「じゃあ、この間の引っ越し騒動の時は……」
「そう、前の街かその近辺に戻ろうかって感じだったみたい」
僕が呆れた調子で気の抜けた言葉を返していると、野ノ崎は僕に笑いかけてきた。
「じゃあ、もし引っ越ししてたらこの間のあの子とはまたすれ違いになってたわけか」
「……まあ前の高校に戻るわけもなかったから、そうなっただろうな」
僕が淡々と話すと、ミミがぐいっと身を乗り出して僕を見てきた。
「仲、結構良かったみたいだけど何かあったの?」
「そうそう、それだよ。一宏みたいな偏屈が友人作るなんて珍しいし。向こうから声でもかけてきたのか?」
と、野ノ崎の失礼な発言を聞き流しながら、僕は先日人葉さんにした話を思い出していた。
あの時、白詰は死んだ魚のような目をしていた。濁って、暗くて、誰とも接さない。現にあんなに美人なのに、学校で声を掛けられることもなかった。
もしかすると、神様さんはこの学園で同じような思いを抱えて生きていたのかもしれない。僕がもしここへ最初からいれば、神様さんを救えたかもしれないが、白詰は救えなかった可能性もある。
人生なんて難しい。
僕はどうして、あの時いきなりキレて、いきなりあいつらの内の一人を殴ったのか。高校にこだわるつもりもなかったし、別に高卒認定試験で大学に行ってもまったく問題なかった。その辺の余裕とあいつらのちくちくした陰湿なやり方がとにかく気にくわなかったのだろうか。どれも過去の物語で、僕にとってのリアルな感情に結びついてくれない。
「簡単に言うと、入学してからずっとあいつ、吃音のことでバカのグループにいじめられてた。で、赤の他人の僕がキレて一人殴り飛ばして全員睨んだらそいつら解散、あいつが礼言ってきたってだけ」
……野ノ崎の顔が凍り付いている。ミミも黙っていた。右左はどうだろう? ちらりと見ると僕から目を逸らしていた。
聞きたいなんて言ったくせに、聞いたらこの態度なんて割と酷い。そう思ったが、野ノ崎は目を覆いながら僕に声をかけてきた。
「一宏、俺はお前にまともな理性が備わってて本当に良かったと思うよ……」
「どうして」
「お前、一歩間違えたらヤバい犯罪者コースだ。前々からキレた一宏は危ないって思ってたけどすでにやらかしてたなんてな……」
と、野ノ崎は普段から見せられている狂気の片鱗に触れたことを、とてつもなく後悔したように俯いた。
一方右左は、僕が優しいだけの人と思っていたせいか、心配そうに覗きこんでくる。僕は優しく微笑みかけてぽんぽんと頭をはたいた。
「学校側に事情説明したら殴った僕も殴られたそいつもどっちもどっちって事になって。まああいつに何の危害も及ばなかったのは良かった」
「あの、そんなことして今度は兄さんが……」
「ならなかった。というか、特進クラスで問題起こしたらまずいってそいつらでも分かってたみたいだから。ちなみにそいつら、全員二年目に普通科に転落。自業自得だけどな」
僕が大きく笑っても、野ノ崎とミミの凍った顔は解けることがない。
やがて一分ほどが経った頃だろうか、ミミが困った顔をしながら僕に声をかけてきた。
「カズ君がやったことは褒められたことじゃないけど、でもその子助けたのはいいことだと思うよ。でももう無茶しちゃ駄目だからね。二宮さん困るんだから」
「そうそう。お前のせいで二宮が困ったら本末転倒だろ。これからは気を付けろ」
もっともな説教に僕は何の反論もせず素直に頷いた。あの一晩、僕からその話を聞いた人葉さんは笑って受け止めていた。あの人の感性がおかしいのか、それとも彼女は僕の勇気を認めてくれたのか、どちらかはさすがに分からなかったが、こうもリアクションが違うと悩んでしまいそうだった。
「でもようやくあの子が一宏に会いに来る理由が分かった。自分の人生ぶん投げてまで助けてくれたんだもんな。傍から見たら一宏ヤバい奴だけど俺でも懐くわ」
「カズ君、そこら辺優しいもんね」
「いや……さっき二人に言われた通り別に褒められるようなことをしたわけじゃないし、実際に停学も食らった。あいつももう別にいじめられることがなくなったんだから一人で過ごしてても良かったのにって思うけど、何回も話しかけてきたから距離縮まったんだよな」
と、僕が淡々と呟くと、野ノ崎とミミは失笑するように口元を押さえていた。
何かおかしいのだろうか? 僕は右左を見た。右左はため息をこぼしながら横を向いていた。
「カズ君、他に友達いなかったの?」
「全然。友人作りしない人間だったから。だからそいつと話するようになったんだけど」
「まあなんて言うかいつもの一宏って言えばいつもの一宏だよな」
「うん、そんな感じ」
いつもの? 何か二人は僕の知らない特徴を捉えているのだろうか。
それとも二人は白詰が僕に恋心でも抱いているなんて幻想を持っているのだろうか。
だとしたらそれは余計な心配であり、心の外に置いておくべき妄想である。あのおどおどしながら僕に話しかけていた白詰に、恋愛を楽しむ余裕など見えなかった。
「兄さん……ここへ帰ってくる前の話ですから、私もあまり強く言うつもりはないですけど停学とか冷や冷やさせるようなことしないで下さい。兄さんが正しくても世間的には兄さんを罰することだってあるんですよ」
「分かってる。今はそういうことをするつもりはないよ」
と、僕が右左を安心させる一言を言うと、右左は信用しきれないという顔を見せつつも、一旦引っ込んでくれた。
一方、そばを食い切った野ノ崎は、僕を見ながらそう言えば、と話しかけてきた。
「メアドの交換してたじゃねえか。連絡してないわけ?」
「全然連絡ないからそろそろ連絡しようかなって思ってる。あいつも片道三時間かけてここ来るのは大変だと思うし」
「三時間か……。丸々休みだとして、朝の七時に出ても十時。帰りは清く正しく五時に帰っても八時。きっついなあ」
三時間。頑張れば一日で帰れる距離ではある。それでも県境をまたいで、ただ電車に揺られ向かう先としてはあまりに遠い。僕は前の街に思い入れがないせいか、一度も見に行きたいと思ったことがない。
「もうすぐ近所になるから、それ待っててもいいと思うんだけどな。とはいえ、何も言わずに引っ越したこととか、謝りたいことはあるんだ」
「言ってたなあ。あの夏何にも言わずに消えたって。一宏、そのことで後悔とかあるわけ? あったとしたら何つーか、やっぱ特別だったんじゃねえかって俺は思うんだけど」
僕はその結論を出すことは出来なかったが、野ノ崎に指摘された可能性はあった。
あの頃は友人も作らず上辺だけで過ごしていた。もちろん白詰に僕の深い悩みを話したことなんてないし、そもそも深い悩みもなかった。
ただ逆に白詰に色々相談されることはあった。主に勉強のことだが、学校生活についてもちょっと聞いたことはある気がする。
ただ恋の話はお互いにしなかった。それもそうだ。恋をしなかった僕と恋以前に日常を生きるので精一杯な白詰では話にならない。僕だってこの街に来るまで恋という感情が分からなかったのだ、その点は仕方ないとしか言いようがない。
特別。
神様さんに感じているものが特別なら、僕にとって今もう一つ特別になりつつあるのは人葉さんだ。違う意味での特別なら右左も入る。でもやはり、白詰という人がそこまで特別だったかどうかは、やっぱり今の僕には分かりかねた。
「カズ君が分からないって言うの、仕方ないよね」
「どうして?」
「だってカズ君、前の街の思い出話なんてしたことないもん。言ったとしても何もなかったとか、家事全般こなしてたとかそんな話ばっかりだし。その人の話とか、みんな聞いたことないしカズ君だって一年ぶりに再会してどうするか迷ってるんじゃないかな」
ミミの言葉が自分のことなのに妙に腑に落ちる。
そうだ、僕は迷っている。あの時何も言わず去ったこともそうだが、白詰に何を感じていたのか自分でも分からず、それを探しに行きたい、それが白詰と会おうという原動力になっている。
そんな僕を目の前にして、野ノ崎が僕の目を見据えてぽそりと呟いた。
「一宏、会うんだったら一つだけ俺から注文いいか」
「何だ?」
「俺達連れてけとは言わないけど、その内二宮と会わせた方がいいかもってこと。それだけ」
野ノ崎は一つだけ注文を付け、食器を片付けに立ち上がった。
馬鹿なことを言う時の目ではない。時折見せる、真剣に物事を語る野ノ崎の目だ。
どうして神様さんと引き合わせる必要があるんだろうか。僕は分からなかったが、ここで今一番自分をさらけ出しているのが神様さんなら、紹介しておいた方がいいかもしれない。
僕は少しだけ笑って、食器を流しに置いていく野ノ崎の背を見つめた。