雨上がりのデート
結局僕は、日曜まで委員長さんのことは元より、右左のことを何一つ改善できないままだらだらと惰眠をむさぼった。
どっちみち、日曜が過ぎればその後のことは何にも考えていない。だったら日曜を一応の区切りとして、自分への猶予期間として授けよう。大変甘い考えで僕は周りの雑音からうまく自分の精神を切り離した。
取り立てて右左との会話もなく、ある意味で平穏無事に日曜を迎えられた。
適当なシャツを選び、階段へ出る。右左は部屋から出てこない。神様さんと二人でそこまで遅くになることもないだろう。僕はあえて何処へ行くとも言わず、静かに家を出た。
先日にも負けないほどの秋晴れに、僕も感嘆の吐息を漏らしてしまう。目に見えて空気が澄んでいる。少しずつ冷えてきたせいか、深呼吸するとそれを強く感じられた。
十一時より少し前。僕は約束していた噴水付近を訪れた。駅沿いの一角ではあるが、駅の出入り口から微妙に離れていることもあり、学生などの騒がしさがないのが個人的にここを好む理由だ。
僕はどれくらい待つかなと噴水近くを見た。その途端に口が開き、いやいやと結ばせる。
青のワンピース。相変わらずのサイドアップ。ああ、あれは見慣れた神様さんだ。時間としてはまだ二十分以上あるのだが、さすがに僕より早くに来るとは思っていなかった。
なんてことだ。僕は腕組みをしながら噴水を見上げる彼女の後ろに近づいた。
「あの」
「うわっ! ……ってなんだ、きみか」
「いや、きみかは分かるけど、早いね」
僕が困った顔で指摘すると、彼女は得意げに笑った。基本的に他人に待たせるのが嫌いなので早めに出る習性を持っているのだが、彼女に負けたことが純粋に悔しかった。
ただぼおっと噴水を眺めていたようにも見えたし、いつからいたかは少し気になる。僕の感情を読み取ったかのように、彼女はくるっと回って短いスカートの端を手にした。
「いつから来たかとか気にしてるんでしょ、教えない」
「……僕としては早めに来ても待たせたという事実が気になるんだけどね」
「待ってない待ってない。あんまり時間に正確な方じゃないけど、今日は早く来たかったってだけ」
と、彼女は青のワンピースを指さし、にっと笑った。
「これ似合ってる?」
「ああ、うん。普段の格好もいいけど、そういう落ち着いた格好もよく似合うと思う」
僕が褒めると、彼女は嬉しそうにまた回って見せた。十回くらい響きのいい言葉を続ければ十回回るのだろうか。僕は相変わらず、愛らしく振る舞う彼女を前にして馬鹿なことを考えていた。
彼女は僕のシャツの裾を引っ張り、前に出る。一日を楽しみたがる幼子のようで、はつらつとした姿が光と合わさって眩しく映る。
「ほら、早く行こう。きみがどういうところに行って、何をするのか。それで色々見るつもりなんだからね」
彼女のいつもより軽快なトーンに、僕の足も自然と軽くなる。どこへ行くか。どこに行くとも決めてないけれど、不安はない。この街の中をただ巡っているだけで、僕は充分求めているものを得られそうだった。
噴水に別れを告げ、いざ次の場所へ。僕はこの澄んだ空の下、ただ彼女と歩いてみたかった。何も思わず、取り立てて一つの話題に固執することもなく。そういう歩き方を最後にしたのは、一体いつの頃だろうか。だからそんな感覚を思い出すため、彼女を連れ行き先も決めず、最後にここへ戻ることだけを決め道へ出た。
並木道に色づくイチョウは大分色づいてきて、風が吹くと一葉二葉、はらりと落ちていく。神様さんは舞い落ちてきたそれに手を伸ばし、うまく手にすくった。そして語りかけるような優しい目で見つめた後、「じゃあね」と一声かけ、そっと木の根元に置いた。
「神様さんはなんていうか、冬のイメージがないな」
僕は数歩前を行く彼女の背を見て、独り言のように呟いた。彼女は僕へ振り返りながら、小首を傾げる。
「初めて会った時がまだ暑かったのもあるけど、冬とかそういう寂しいイメージが合わない」
「あはは、私は南国で生活してるわけじゃないよ」
「でも元気じゃない神様さんは想像がつかない」
僕がそっと口にすると、彼女は僕に背を見せ、少しだけ俯いた。想像できない、そう言った口で、僕は彼女の現実を見る。それでも僕は、彼女に寂しいイメージを持てなかった。目の前で俯いていても、彼女はどこか楽観的で、自分にかかる全てを払拭出来る強さを秘めている。
僕の勝手な理想、願望だと分かっている。それでも彼女に「そうでいてほしい」と思う僕がいるのもまた事実だった。
「ねえ、どうしてきみはこの街に来たの?」
神様さんが振り返る。ふわりと浮いたスカートから覗く太ももが、白い日光にぶつかり眩しく照りつける。
僕はそうだね、と前置きしてゆっくり答えた。
「親の事情で」
「まあ普通そうだよね。この年で本人事情によりとか結構ハードな感じするし」
「まあ絶対数は少ないだろうけど、一定の確率でいるとは思うよ。僕がそうでないってだけで」
「あの……なんかまずいこと言っちゃった?」
「いや、別に。まあ変な家だなって思うと時々いらっとするんだ」
僕が苦笑すると、彼女は僕に一歩近づき、顔を覗き込む。不用意に教える話でもないが、別に知られたところで恥をかくのは両親だ。僕はどうでもいいかと一笑し、彼女に打ち明けた。
「昔大げんかして離婚したくせに、今更より戻すんだよ」
「じゃあ親が変わらずに再婚ってこと?」
「そう。友人関係とか恋人とかじゃないんだからさ、元に戻るくらいなら最初からもう少し考えろって感じするよ」
僕が呆れ気味に遠い目をすると、何故か彼女は目を細めて僕にほほえみかけてきた。その理由が分からず、僕はただ彼女の目を見つめ返していた。
「どうしたの?」
「変なところもあるけど、幸せだなって思うよ」
「そう?」
「だって、大げんかしても結局お互いに思い合った人同士で収まるんだから。そういう親をもったきみは幸せに思わなきゃいけないんだぞってこと」
僕は彼女の強引な理屈に思わず目を泳がせた。そういう理屈は嫌いではないし、両親が他の男女に走らず元の鞘に収まってくれたことは確かに幸せだ。だがそのせいで右左が辛い思いをし、僕も長い遠回りをした気がする。
それでも彼女は微笑み続け、反論を許さない。反論を許さないというより、反論する気をそげさせるのだ。
結局僕は、彼女に納得させられる。先日彼女を誘った時、僕はこういう瞬間を待ち望んでいたはずなのだ。自分の理解をおおよそこえた、何となく驚かされる瞬間。ただ、実際に突き付けられると、ぽかんとしたあとに失笑が浮かんでしまう。
「何? 私変なこと言ってないからね」
「そうじゃなくて、神様さんは本当にいいように物事を捉えられるんだなって」
「そうでもないよ。神様でもネガティブなことはネガティブに捉えるし」
「普段から自分が元気なら元気って言いきる人の言葉とは思えないな」
「あのね、ネガティブを理解できなきゃ何が幸せかも分からないの。ずっと空の上を飛んでたら地面歩いてるのと変わんないでしょ。そう、こういうのをゼロの概念って言うんだね」
神様さんは偉そうに言うが、インドで見つかったゼロの概念はそういうものではない。彼女が言いたいのはきっと高低差とか、そういうものを意識するということだと思う。
でもその底抜けに明るく、僕を深く知らない彼女だから、強い励みになる。こうして彼女と接していると、学園や家で飄々としている自分の見えない疲れが理解できる。
彼女のタイルを一つ飛ばしで歩いていく姿を、僕はずっと後ろで眺めていた。
「きみは私のこと、どうこう聞かないんだね」
神様さんは先のタイルに片足を踏みだした。僕は落ちてくるイチョウの葉の地に着く様を見つめながら、おもむろに答えた。
「君が神様だって信じてるわけじゃないけど、君のどうこうを知っても知らなくても、僕の中で君の価値は変わらない。それくらいには信用してるよ」
「ふふーん、そういう浮ついたセリフを、この間相談された子にも言ったの?」
「……言ってないよ。ていうか、これって浮ついた台詞なのかな」
僕の疑問を感じるような言葉に、彼女は頭を抱えて大きなためいきをこぼした。どうやらまた呆れられたらしい。
「浮ついた言葉かどうかは知らないけど、別に誰にでも言ってるわけじゃない」
「つまり、私にはそういう風に言ってくれるわけだ」
「……まあ、一応そうなるかな」
一拍おいてそう答えると、彼女は嬉しそうに一度跳ねて、僕の横についた。
「神様さんくらいの人だったら、僕よりもっと浮ついたこと言う人いそうだと思うんだけど」
「私は神様だよ? どういう目でそういうことを言ってるのか、すぐに分かるんだから」
確かに彼女にそうした言葉をかけるのは、恋愛感情ではなくこの肉感的な体であったり美貌に惹かれてというのが多そうである。彼女もナンパ半分の軽い言葉には辟易しているのだろう。
だからと言って、僕にいきなりジュースをねだってきたり、よく分からないことをするのも神様さんである。彼女がどうして僕に心を許してくれたのか、未だに分からない。
「神様さん」
「いきなりどうした?」
「僕は神様さんと同じで、自分が幸せなら幸せだろうっていう考えなんだ」
「うんうん」
「でもそれが当てはまってない気がする人が一人だけ近くにいて。どうしたらいいのか、時々分からなくなる」
僕は右左のことを口にしていた。きっと誰にも相談することがないだろう。この街へ来る前にずっと考えていたことが、今おぼろげに、シャボン玉に触れるような柔らかさで消えた。
神様さんは頬に手を宛て、僕を横目で見た。
「前に言ってた妹さんのこと?」
「……そうだね。どうして分かったの」
彼女は軽く笑って返答した。
「きみがそういう風に大切に思うって、よっぽどの相手だと思ったから」
彼女はそう言い切った。目は僕から逸れて、反対側を向いている。
「私もそういう言葉、かけられてみたい」
「神様さんは強いと思うから、僕のそんな言葉は必要ないと思う」
「かけるのは相手の自由だけど、必要かどうか、堂々と口に出せる人ってなかなかいないと思うな」
神様さんは寂しげに呟いた。きっと、神様さんは何か言葉を欲しているのだと思う。さすがの僕でもうすうす分かるレベルのことである。
「その、どういう風なことを言えばいいか分かったら、ちゃんと言う」
僕は詰まり気味の言葉を彼女に告げた。彼女はくすりと微笑み、頷いた。
「そう。相手の求めに応じるのも大切なことなんだぞ」
「それがジュースってこと?」
「ジュースもそうだし……まあ友情もそう」
「友情……確かに、神様さんとは友達みたいなものか」
「それでよし。ともかく、きみを何とかしてあげないと、私の立場がないからね」
彼女はその大きな胸を突き出すように背を伸ばした。こうして威勢のいいことを言ってくれる方が、やっぱり彼女らしい。僕は少し笑って、道沿いを見た。
「ちょっと先の辺りで道路に出るから、色々食べるとこあると思うけど」
「おお、何があるの?」
「ラーメン屋もあるし、ファミレスもあるし」
「よしっ、お昼ご飯だ!」
神様さんの声色がいきなり明るくなった。やっぱり、彼女は暗い顔をしているよりも明るい表情をしている方が見ていて気持ちいい。
道へ出て、早速年季の入った定食屋が目に入る。早速向かおうとする彼女を制して、僕は「あっちにファミレスがあるからそっちの方がいいよ」と誘った。
神様さんは甘い物好きだ。その予想通り、目を輝かせながら僕の腕を引っ張り催促する。腕を組む形になった僕の肘に、彼女の柔らかい胸が当たる。彼女はそれに気付いていないのか、横目で視線を逸らしている僕に目もくれず、ただひたすら引っ張ってくる。
そういえば、こんな風に女の子と腕を組んで歩いたことなんて、右左とさえなかったな。
その初めてが神様さんというところに、僕の僕らしさがあるのかもしれない。
結局、僕は無心で引っ張る神様さんとファミレスまで腕組みをしていた。普段気にしていないと言っているのに、いざ意識すると異様な照れが走る。もっともそれは僕の一方的な照れであり、神様さんは特に頬を赤らめるとか、しとやかになるなんてことはない。
彼女にとって、僕はそういう下々の人間なのだ。
グリルチキン定食、柔らかハンバーグ。ドリンクバーに、二人分のパフェ。
ファミレスに入ってからも、神様さんのとりとめのない話はまだまだ続いた。
食事と雑談を終え、神様さんは伸びをしながら外へ出た。爽やかな秋風に、彼女の結った髪が揺れる。
僕は一歩遅れて、彼女の後ろ姿を見た。逆光に照らされ、今にも遠くへ消えてしまいそうな儚さと、手が届かなくなりそうな神々しさが、僕の頭にちらちら灯る。
神様さんはくるりと振り返った。笑顔で細くなった目が、僕の目を捉える。手を後ろに組んだまま、少し屈んで上目に僕を見る彼女に、僕も言葉を出さず微笑み返した。
「ごちそうさまでした」
神様さんが近づく僕に礼を言う。神様から礼を言われるというのは、感覚としてはおかしいが、神様さんなら許すことが出来る。というより、それだけの敬意がないのだろうと僕は一人得心していた。
もっとも僕は、彼女と色々話せて楽しかった。テレビがどうとか友達がどうとか、そんな俗世間の話を彼女はしない。この間、街角で見かけた猫がどうだった、可愛い柴犬を連れた人がいた、紅葉が色づいてわくわくする。そんな話をしてくる。僕もそれに乗せられ、同じ方向性の話をしていた。
肝心の右左の話は、結局切り出せていない。いや、そうじゃない。僕は気付いていた。彼女に右左の話をしても仕方ない。右左のことをどうにか出来るのは僕で、その僕の一助になってくれるのが神様さんだ。だから神様さんを巻き込む所以などない。
「きみ、さっきから大分考え込んでるね」
横を歩く神様さんが、ふと不安そうに呟いた。僕はいやいやと首を横に振り、意味もなく彼女を直視し続けた。
一瞬きょとんとしていた神様さんだったが、僕のくだらない冗談というのをようやく理解してくれるようになったのか、逆にじっと見返して、自爆するように大きく笑った。
「にらめっこみたい」
「いやいや、神様さんに見とれていました」
「嘘はやめなさい、嘘は」
「うーん、まあ半分嘘。でも半分は本当」
「あの、だからね……」
「いや、そこに関して嘘を言うつもりはないよ。遊び半分で見てたけど、神様さんは長く見たいって思える人だし」
僕が真顔で言うと、神様さんはもじもじしながら、口をきゅっと結び、横を向いた。
「そういうこと、きみが幸せにしたいとか言ってる妹さんにでも言えば?」
「妹は確かに可愛いんだけど、言う対象としては不適切かもしれない」
「そりゃそうか……」
「いや、待てよ。でも僕の妹は本当に可愛いんだ。だから別にそう言っても何の不思議もないと思うな」
「きみがどこに何を設定してるのか、私は分かんないよ……」
神様さんは呆れたように頭を抱え、すぐさま笑った。
「でも妹さん羨ましいな。きみにそこまで大切に思ってもらえるなんて」
「……神様さんはそんな風に思ってくれる人、いないの」
「いるかもしれないしいないかもしれない。でも何だろう、よく分かんないけど、きみと知り合ってから、きみにそういうこと言ってもらいたいって思うようになったかな」
彼女は申し訳なさそうに苦笑する。逆に僕は熱気に当てられたように、彼女から思わず目を反らし、声をなくしていた。
僕と神様さんは、右左と再会した時間と同じ長さを歩んでいる。でも出会った回数はまだ数えるほどしかなくて、僕の中に浮かぶあれこれは、自意識過剰の言葉で一蹴できるものだ。
右左が大切。
そう言っているくせに、今日僕は、右左の面倒を見ずに神様さんと街を歩いている。ここ最近の僕は、ある意味で右左を裏切り続けている。いつか反動で逆さまに落ちていく日が来るのではないか。僕の中にある種の不安が去来していた。
「ねえ、次どこ行く?」
神様さんが屈託のない笑顔で僕に訊ねる。今は駅前に向かって歩いているが、その先のことはまだ考えていなかった。
「そうだなあ、まだ結構時間あるし、どこ行こう」
「楽しいところがいいな」
「ああ、そうだ、結構面白いところあるよ」
「え? 何々?」
神様さんが興味深そうに僕の目を覗く。僕はこくこくと頷き、腕を組んだ。
「僕も話でしか聞いたことがないんだけど、なんていうか、ちょっとしたレジャー施設みたいなところだって」
「この辺りにそんなのあったかな……?」
「電車かバスに乗った後、ちょっと歩かなきゃいけないけどね」
「少し遠いんだね。何があるの、そこ」
「ゲームとテレビと」
「ふむふむ」
「あときらきらした照明と、透明のガラスで仕切られた風呂とベッド」
と、僕が真顔で告げた瞬間、神様さんの怒りの張り手が僕の後頭部を襲っていた。彼女は顔を真っ赤にして、僕を睨んでいた。
「そ、そ、そこは何ていうか色々違うでしょっ!」
「大人の遊びをする場所って友達が言ってた」
「きみの友達は何なんだっ!」
神様さんの口角泡を飛ばす力説が滑稽で、僕は悪いと思いつつ真顔を保ち内心でげらげら笑っていた。
「神様さん行ったことないの」
「あるわけないでしょっ!」
「まあないと思ってたけど、ジュースねだってきたりする人だから、悪い人に騙されてジュース一本で連れ込まれたことがあると昨日妄想して随分はかどった。ごちそうさま」
「ってそのごちそうさまは何だっ! 何がはかどったっていうんだ! 私を変な妄想に巻き込むなっ!」
実際はそんなことを思うなど毛頭ないのだが、つい彼女をからかって遊んでみたくなった。やはり僕と神様さんの関係は、どこかしんみりしたものではなく、こうして馬鹿なことを言い合っているのが一番いい。
「神様さんは真面目だなあ」
「こういう冗談を普通の人は言わない」
「いや、仮に言われても僕だったら、ふーんって言って無視するのに。いちいちリアクションするから面白いなあって」
「きみは真面目な顔して言うから、ふざけて言ってるのか大まじめで言ってるのか判断しづらいの、そこら辺理解してるんでしょ」
神様さんがいつものように、胸を押し上げるように腕を組みながらむくれる。そうかと僕はまた真面目な顔を作って、神様さんに問い掛けた。
「じゃあ、行ってみる?」
「え……」
「冗談じゃなきゃいいんでしょ。行こう」
僕と神様さんの間に長い沈黙が過ぎる。神様さんは冗談をやめろと言いたそうに最初は目を三角にしていた。でも、僕がじっと見つめていると、徐々にその目を泳がせ、最後にはその目を下に落としていた。
「その……」
「どうする?」
「……その、ね」
「いや、冗談だから」
「……」
「神様さんが押しに弱いか強いか見極めるために言ってみた」
僕の言葉に神様は大きな吐息を漏らし、両肩を大きく揺らした。そしてそのまま揺らした肩をわなわなと震わせると、すっと顔を上げた。嗚呼、いつもの笑顔はどこへやら、そこには修羅をまとい破顔一笑の果てに羅刹となった神様さんがいた。
「あーのーなー」
「いやいや、悪かったです」
「悪いで済むかっ」
「いや、神様さん綺麗だし、どっかで口説かれてすでに経験済みかと思いまして」
「ないわっ!」
と、また後頭部をはたかれる。僕はこめかみをかきながら、神様さんを見た。
「意外と本気で行ってみる気あったとか?」
「あ、え、えっと……その……」
「まさかね。ていうか神様さんそんなうかつな人じゃないし」
「……それは……きみが本気っぽく言うし……そういうの……」
「……どうかした?」
「何でもないっ!」
神様さんはぷくりとむくれ、僕を視界から消すように一歩先を進む。まあ女の子に対して言う冗談ではないかと、さすがに僕も反省した。
神様さんは僕に何も言ってくれないまま、先へ先へ進んでいく。僕も後を追いながら、彼女の背に見とれていた。ワンピースに白のブラウス。右左も同じように、僕と街を歩いてくれる日が来るのだろうか。右左が時折僕に見せる、諦観したような笑顔がとてつもなく苦しい。僕がどれだけ優しくしても、右左の心は溶けてくれない。
どうして僕は、神様さんと一緒に街を歩いているのだろう。くだらない冗談を言って、自分の気を慰めるためか。それとも単に心地よいからか。様々な感情が雲散霧消してはまた現れ、同じようにしてまた消えていく。
結局僕達は、駅前まで着いてしまった。ここからどこへ行くかが問題だ。もっとも神様さんの機嫌が直っていなければ、何処へ行くということもない。
「神様さん、さっきはごめん。どうする?」
僕が後ろから訊ねると、神様さんがゆっくりこっちへ振り向く。唇を尖らせながら、彼女は僕をじっと見つめてきた。
「くだらない冗談は言わない、いい?」
「分かりました」
「ならよし。駅前まで来ちゃったけど、次どこに行こうか」
「――あれ? 塚田くん」
後方脇から、僕の名が突然呼ばれた。神様さんと違う声色に、一瞬認識がついていかない。反射で僕は、その声の主を目で追った。
そこに立っていたのは、モスグリーンの長いスカートをまとった、委員長さんだった。彼女は柔和な顔で、僕に近づいてくる。
「ああ、委員長さん」
「休みなのに会うなんて奇遇ね。……あれ?」
と、彼女は僕の傍らに目を向けた。その視線の先にいるのは、僕に振り返った神様さんだ。
断った理由の人とこんなところで会うなんて、本当に気まずいな。だが僕が先に約束したのは神様さんだ。何も臆することはない。
僕が堂々としていようと、彼女を見ていると、彼女は鼻息を一つ漏らして、神様さんに冷笑を浴びせた。
「塚田くんが約束してた相手って、誰かと思ったらあなただったの」
「あ……えっと……」
「どう? 元気にしてた? 私、今もクラス委員長やってる。あの時もそうだったの覚えてくれてる?」
僕は黙っていた。さっきまで綺麗な総天然色の映像が広がっていたのに、今僕の目の前に置かれたシアターは一昔前のモノクロフィルムを映している。
かちちちちち。フィルムの走る歪な音が、僕の耳に広がる。笑顔の委員長さん、そして伏し目がちに笑いながら、必死に視線を逃がそうとしている神様さん。噴水の煌めく音さえも、今はノイズに聞こえて、僕の空虚な感情をただひたすら殴りつけてくる。
「あはは……でも私もう関係ないし……」
「塚田くんが気にする相手だからどんな子かちょっと気になってたんだけど、まさかあなただったなんてね。まだ変なこと言ってるの?」
「へ、変なことじゃないよ。本当のことで……」
「で、その本当のことを証明出来るようになったの?」
「それは……私の力が……」
「はあ……みんなあなたのそういうところについていけなかったし、あなただってそういう自分を演じるのが辛かったんでしょ。どうしてまだそんなことしてるの」
秋風が吹き抜ける。僕の顔を冷たく凍らせ、痛覚を奪う。ざくり、ざすり、ずしゅり。何度も何度も、言葉の切っ先が僕の耳から顔にかけて切っていく。でも僕は痛くない。もう痛覚などない。そして神様さんに感じていた神々しさもいつしかどこかに消えて、自分を責めるように小さくなる少女が代わりに姿を現し始めた。
神様さんは何も言わない。ただ僕の袖をぎゅっと握り続ける。俯きながら、強く握る悲痛な叫びに、僕はただ同じように落ち込むしか出来なかった。
「塚田くんはこの子の言うこと、信じてるの?」
「この人が神様かどうかは知らない。でも僕は……神様さんのことを信じてるよ」
僕の口から無意識に漏れた言葉。それに神様さんが色よい顔をする。
だがそれを見る委員長さんの目は優しくなかった。僕の知らない委員長さんを見た気がした。僕は周りのみんなから、こんな人に慕われてると噂されていたんだ。
何が幸せだ。何が運が向いてきてるんだ。
でも僕の底からふつふつとわき上がるはずの怒りは、神様さんの固まった笑みの冷たさを崩すことが出来ず、僕の体を再動させなかった。
「二宮さん、あなたが何だって構わないわ。でも無秩序に生きてるあなたに、色々大変な塚田くんを巻き込みたくないの」
「え……」
「あの時みたいにまたみんなを巻き込めば気が済むわけ? いい加減にしてよ! あなたの顔を見るだけでも腹が立つのに!」
委員長は怒鳴っていた。優しくない人間の顔で、怒鳴っていた。神様さんは僕の服の端をぎゅっと掴んでいた。
けれどその掴む腕はだんだんと弱くなり、いつしかするんと落ちていた。
「神様……さん」
「えへへ……そうだよね……こんな私が、きみを幸せに出来るはずなかったんだ」
「そんなこと……」
「ありがとう、本当にきみは優しいんだね」
彼女は一度こくりと頷くと、僕から徐々に間合いを取った。僕が一歩詰め寄れば、彼女は三歩退く。それを数度繰り返したあと、彼女は寂しげに笑い、俯いたまま駅の反対側へ走り去ってしまった。
秋風が、また僕の脇をすり抜ける。僕はいなくなった彼女の背を追い求めるように、遠目で彼女の消えた方を見ていた。だが彼女が戻ってくるわけはない。ただいつものように、人が淡々と行き交うだけの流れが、僕の視界に焼き付けられた。
彼女は同じ学園の人だった。右左と同じように学園に行かなくなった人だ。違いはやめたかやめていないかというそれだけで、それ以上は大差ない気がする。
でも僕が彼女に感じていた神秘性は砂上の楼閣のようにもろく崩れ去り、むなしい現実ばかりを僕に突き付けてきた。
彼女は、やっぱり普通の人だった。普通の人が無理をして頑張っているだけだった。
「……塚田くん、ごめんね、声荒らげちゃって」
横から委員長が、今更殊勝な言葉を述べてくる。僕は笑顔を作り、首を横に振った。
「いや、別にいいよ。あの人知ってるの?」
「二宮双葉さん。私達と同い年」
「学園、やめたんだ」
「うん。神様がどうとか言って、周りが辟易して本人も浮いちゃって。何とかバランス取ろうとしたんだけど、結局無理で、二学期入る時にやめるって話になったのよ」
へえ、そっかと僕は感慨のない声を返した。彼女がもし、右左と同じように家に閉じこもり学園復帰の道を模索していたら、結果は変わっていたのだろうか。意味のない仮定だと僕は一笑に付し、彼女の目を見た。
「その、塚田くん、あの子と付き合ってたの?」
委員長が探り探り僕に聞く。僕はまた、首を横に振った。
「まさか」
「……そうよね。ごめんなさい、映画、また気が向いたら一緒に行ってね」
ああ、と僕は手を振り、一人家路に向かって歩きだした。
委員長のことなど何も覚えていない。ただ一つ僕の脳裏に焼き付いた、神様さんの泣きそうな顔。それを守ることも出来ず、僕はただ呆然と見送った。
「神様さんかあ」
帰り道、僕は人気のなくなった道で独り言を呟いた。今日は晴天秋日和。そんなことを神様さんと一緒にいたときにずっと感じていたのに、何だか今すぐ雨が降りそうな錯覚に陥る。
右左だ、右左を大切にしなきゃ駄目なんだ。
僕は自分に言い聞かせ、道を強く踏みしめた。
神様さんと会いたきゃ、また会えるよ。僕は下を向きながら、唇を頑張って上向きにした。