3.5/26 迷いを吹っ切って、伝えてほしい気持ち
店はすでに開いている。この時間に働いているのは執事長だけでなく、神様さんやきみかさんだ。というより、僕だけ融通の利かない学生であるというだけだ。
裏口に回って渡されている更衣室の鍵を入れる。さっと着替えて、僕は店先に向かった。
「塚田君、こんにちは」
「執事長、どうも。遅くなって済みません」
「遅くないよ。いつも通り、君らしい前もった時間帯で助かるよ」
執事長の柔らかい言葉に僕も助けられる。僕を待っていたのか、神様さんは接客の合間に僕の目に視線を合わせてきた。
それでも今は仕事中で、私語は出来るだけ避けなければならない。僕も接客に取り組みながら、周りに愛想を振りまいていた。
少しして、ちょっとの休憩の時間になる。神様さんと僕は、同じタイミングでバックヤードに移った。
「一宏君、こんにちは」
「こんにちは」
軽い挨拶を交すだけで笑顔が漏れる。人葉さんは僕とこういう関係を結びたかったのだろうか。それは彼女に聞くしか分からない。
僕が席に着くと、神様さんは今日バイトであったことを楽しげに話す。でも絶対にお客さんの悪口は言わない。だから僕は、この人を好きになれる。
「ねえ、神様さん」
「何?」
「深瀬さん、まだ来ないね」
そのことを口にすると、彼女の顔も重たいものに変わった。
いつかイラストを描いて、神様さんに渡す手はずになっている。でもそれは郵送でも可能なことであり、あの大きな涙をこぼした深瀬さんが来ない可能性は十二分にあった。
神様さんもイラストがもらえるということより、深瀬さんがあの日に自分の思いを決着させたのではないかという心配を抱えていた。
「執事長、あれでよかったのかな」
「……それは私には分からないよ。でも、執事長の今更結婚や恋愛でもないっていう考え方もそれはそれで正しいと思う。だから複雑なんだけどね」
神様さんの残念そうな笑顔が全てを物語る。きみかさんでもいい、深瀬さんでもいい、執事長はもう一度、全ての人に優しくする自分を捨てて、誰か一人のために尽くす人になってほしいというのが、僕達の願いだ。
休憩時間も終わりだ。僕達は同じように立ち上がった。
お客さんの増える時間だな……と思って席を見た。
「……!」
いつもの端の席。そこに堅い面持ちをした深瀬さんが静かに着いていた。
彼女は来た。きみかさんも不安げに視線を送っている。話しかけるなら今しかない。僕は急いで彼女の元へ近づいた。
「お帰りなさいませ」
「ああ、塚田君、久しぶり。双葉ちゃんに頼まれてた絵を持ってきたから、それで」
と、彼女は絵の入っているであろう封筒を僕に渡すとそのまま席を立とうとした。
僕は頭を下げた。彼女は困惑したような目で僕を見る。
「あの、今日の閉店まで待ってくれませんか」
「何々? こんなアラフォーのおばさん口説いてもいいことないよ」
「僕じゃないです。向かい合ってほしいのは、深瀬さん自身の気持ちです」
僕の言葉に、彼女は一瞬虚を突かれたようにきょとんとしていた。だがそれの意味するところが分かったのだろう。虚しそうに空笑いを浮かべた。
僕が強く言い切ると、彼女もやがて根負けしたのか、「分かった」とだけ答え、また席に着いた。
彼女は先日のことで終わらせたつもりなのだろう。でもそれは、きみかさんが本当に喜ぶ結果にはならない。どっちに転ぶか、どちらにも転ばないか、それは僕も神様さんも、ましてや当事者である執事長をはじめとしたみんなだって分からない。
閉店の時間まで、一生懸命働こう。僕は深瀬さんにもう一度頭を下げ、他の席の接客に戻った。
落ち着かない日は時間の進む感覚も遅いもので、いつもなら意識せずすいすいとこなせる一時間が、一分一秒単位で自分の中に刻まれていく。
こんな僕に出来ることがあるのだろうか。いや、僕は執事長やきみかさんに神様さんとのことで背中を押してもらった。だから今度は僕が背中を押す番だ。
長い心の時間を終えて、閉店時間を迎える。深瀬さんは途中、何度も帰りたそうな顔をしていた。それでも残ってくれたのは、僕達への義理か、それとも執事長への思いなのか、それは分からない。
一方執事長は、深瀬さんが何故こんな時間まで待っているのか本当に分からないといった様子で、食器の片付けに時間を費やしていた。
「深瀬、夕食代わりにタコライス食わせてやったけど、あれで足りたか? 足りなきゃ何か作ってやるぞ」
「いえ……大丈夫です」
元気のない深瀬さんの声に、流石に鈍い執事長でもおかしいことに気付いたのか、首を傾げながら彼女を見つめた。
「あの、お水、どうぞ」
深瀬さんの席にきみかさんが近づく。すると深瀬さんは少しだけ相好を崩して、きみかさんにゆっくり語りかけた。
「ねえ、君、オジキのこと好きなんでしょ?」
そのことを唐突に出されたきみかさんは、顔を真っ赤にしながら黙り込んだ。
一方切り出した深瀬さんは執事長の方を見て、わざとにやにやした顔を見せた。
「オジキ、こんな若くていい子捕まえられるチャンスないんですから、付き合ってみたらどうです? 付き合わなきゃ分かんないことだってたくさんあるんですから」
彼女の言葉に、執事長は怒りではなく困惑を覚えていたようだ。何故このタイミングで切り出すのか。それも何度も振った相手の話を。
「深瀬、お前には説明してなかったが、きみかくんはこの店の大切なメイドなんだ。俺は執事長、メイドに手を出す執事長は店の主として失格だからな」
「そう思うなら、きみかちゃんを辞めさせればいいじゃないですか」
「あのなあ、俺は五十できみかくんは二十ちょっとだぞ。年齢差がありすぎる」
執事長の苛立った口調に、嫌な空気が走っていく。
そろそろ、僕が動く時だ。僕はゆっくり深瀬さんの席に赴いて、ゆっくり頭を下げた。
「深瀬さん、深瀬さんはそれでいいんですか」
「塚田君……どういう意味かな」
「深瀬さんだって、執事長のこと、ずっと好きだったんですよね。会社員だった頃から」
その一言は水を打ったように静けさを広げ、辺りの空気を変えた。
執事長は信じられないような顔つきを見せている。他方、深瀬さんはそれを否定出来ず、視線を斜め下に落として黙り込んでいた。
「執事長、深瀬さんも執事長のこと、ずっと好きだったんです。だからイベントも人一倍頑張って、お店のためになるようにしてくれました。執事長、僕が双葉さんと付き合えるようになったのは、執事長が僕に何度もアドバイスをくれたからです。だから、僕が今度は、執事長に勇気を持ってもらいます」
と、僕は頭を下げ、その場から一歩退いた。
執事長は参ったなといった空気を漂わせて、頭を押さえた。
「深瀬、塚田君が今言ったこと、本当か?」
執事長が訊ねたことに対し、彼女は言葉もなくこくりと頷いた。執事長はそれでも困ったかのようにただ黙って天井を見たり、食器に目をやったり、落ち着かない様子だった。
「なあ、深瀬、お前年が少し行ったとはいえ、人気もあるし、見た目も悪くない。フリーで色々付き合いもあるだろ。俺じゃお前に見合わない」
「オジキ……そういうことじゃないんです!」
「いや、そういうことだろう。俺は会社をやめて趣味のメイドカフェを営んでる冴えない男でお前は年取っても人気のある売れっ子イラストレーター。そもそもお前が年行ったからって俺はさらに年食ってるわけでな。まあ、釣り合わないだろ」
彼は苦虫をかみつぶしたような顔で淡々と呟く。
僕は深瀬さんを見た。泣き出しそうな顔で、自分の気持ちを必死にこらえている。
「深瀬さん! 自分の気持ちにいつになったら正直になれるんですか! きっと今日を逃したらもう二度とその機会なんて訪れないですよ! 僕と双葉さんもそうでした! みんなに支えられて今も付き合っていられるんです! だから、勇気を持って下さい!」
僕が思いきり叫ぶと、深瀬さんははっと顔を上げた。その様子を見て、すぐさま神様さんも横から声を発してきた。
「私、自分で何も動けませんでした。でも、一宏君のことが好きだって気持ちがあったから、ここでバイトして自分に勇気を持とうと思いました。……きみかさん、ごめんなさい。でもやっぱり、深瀬さんの気持ちがはっきりしないまま終わってほしくないんです」
神様さんは深瀬さんの側に立つことを示し、きみかさんに深々と頭を下げた。




