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リトルフォーチューン―あるいは引きこもりの妹の話であって―  作者: やまみひなた@不定期更新
3.5/ そして始まった夏のバイト生活
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3.5/21 ありがとう、の重み

 今日も一日無事にバイトが終わった。

 きみかさんがナンパされて客の一人が出禁になったというイレギュラーもあったものの、それ以外はいたって平和な場所を提供出来たと思う。

 ただ閉店まで三十分といったところで来たお客さんには、席の空きの都合上帰ってもらうしかなくて、その点は申し訳ない思いに駆られた。

「みんな、お疲れ様。カロリー補給にはアイスココアがいいからね。全員分入れたから飲んで」

 執事長に促され、僕達はカップを取りに行く。きみかさんは二つのマグカップを手にした。その一つを、席に座ったままぼんやりと天井を見つめていた深瀬さんに渡していた。

「あ、ごめん、取りに行かなくて」

「今は深瀬さんがこの店で一番偉い人ですから」

「おいおい、きみかくん、僕はどうなんだよ」

「執事長はイベントに限っては二番目です」

 と、彼女は悪戯っぽく喋って深瀬さんの着く席の向かいに座った。

「それにしても執事長、料理の腕本当に凄いですね。喫茶店で覚えただけって本当ですか?」

 僕は今まで気になっていて仕方ないことを思わず訊ねていた。すると執事長は軽く笑ってそうだね、と答えた。

「親戚から継いだ喫茶店で基本を覚えたのは確かだけど、本格的に覚えたのはここの前だね」

「ここの前……?」

「ほら、町おこしやったことがあるって言っただろ。その時にホテルの料理長と町おこしに必要なことを色々と話す機会があって、せっかく伝手も出来たことだしって思って料理を教えてもらったんだ」

 そのあまりにもスケールの大きい話に、僕や神様さんは絶句していた。それでも深瀬さんときみかさんはおかしげに笑っている。

「いつか何に使うかなんて決めてなかったけど覚えておけばいいこともあるかなって思ってね。町おこしが終わった後にホテルで調理人になるって手もあったしわけだし。ただそれが今ここで発揮されてるだけ。仕事で使わなかったら自宅の食事を豪華にしてただけかもしれないね」

「なるほど……結局執事長は修行経験があったってことになりますね」

 僕がじろっと見ると、執事長ははぐらかすように微笑んだ。

「さすがオジキ、ここまでの料理に辿り着くまでにそんな努力してたんっすね」

「お前も二年位料理専門学校でも行ってみろ、今と全然違う料理作れるようになるぞ」

「……イラストレーターの仕事なくなったら考えます」

 執事長のわざと分かっている質問に、深瀬さんはむっとしつつ丁重に答えた。

「それにしても、イベントが始まる前はどうなるかって思ってたけど、明日で終わり。みんなの頑張りがあったからこそ何とかなったって感じだね」

 執事長が全員に頭を下げる。さすがにそれは恐縮するのか、僕達は口を閉ざして少しだけ頭を下げ返した。

 だが頭を下げたいのはこちらの方だ。僕達ホールの係は休憩時間をしっかり取れる。だが執事長は料理を待たせるわけにはいかないと、休憩時間なしで働きづめだ。

 彼にそれを訊ねると「調理係っていうのはそういう仕事」と笑ってはぐらかされる。だからきみかさんも、そして付き合いがそれほど長くない僕もみんな彼を尊敬する。

 努力をいとわない人。人のために生きることが出来る人。自分だけの利益に走る人がいっぱいいる中で、そんな風に生きられる人なんて探しても滅多に見つからないのに、こうして出会えたことが不思議に思えた。

 僕がココアを飲みながら執事長をぼんやり見つめていると、同じようにココアに口づけていた深瀬さんが声を上げた。

「そうそう、双葉ちゃん」

「あ、何ですか?」

「今頑張ってイラスト仕上げてるところだからねー。最終日には間に合わないかもしれないけど、遅れたらちゃんと届けに来るから」

 彼女の笑顔にほだされたのか、疲れた顔をしていた神様さんにも笑顔が戻る。

 一方のきみかさんは、今日色々あったことを脳内で整理しているのか、ふう、と大きな息をこぼして席で頬杖をついていた。

「あの、深瀬さん、今日は変なところ見せて済みません」

「ああ、ナンパね。私も時々あるよ。君みたいに若い子ならともかく、アラフォーのおばさん誘って何が面白いんだか」

 いや、それはあなたがどう頑張っても三十以前にしか見えない上に綺麗だからでしょう、そう言いたい気持ちをぐっとこらえて、僕は苦し紛れの苦笑を浮かべた。

 そんな会話を聞いていた執事長が、珍しく真顔で二人を見ていた。何を言い出すのだろう、少し不安感が胸を過ぎる。

「深瀬、それにきみかくん、仕事の上で色々言われることもあると思うけど、誘う方は軽い気持ちだ。そういうのに振り回されたいのなら話は別だが、嫌ならはっきり断る術も覚えた方がいい。塚田君と違って男は欲で動いている輩が予想以上に多いからね」

 執事長の真剣な言葉に、深瀬さんもきみかさんも俯き聞き入っていた。執事長の前で間抜けな姿を見せたくないと思っているのに、そうした釘を刺されることは恥ずかしく思えるだろう。

「きみかさん、ナンパしてくる男なんて女を使い捨てにしようってする人間ばっかなんですから、気を付けて下さい!」

「ありがと、双葉ちゃん。でも双葉ちゃんは一宏君にナンパされたんじゃなくて一宏君をナンパしたんだよね?」

 と、きみかさんは少し悪戯めいた口調で神様さんを突いていく。それを知らなかった深瀬香織が前のめりになりながら僕達を見つめてきた。

「何々? 二人の出会いって双葉ちゃんから押したの?」

「あ、えーと……それに関しては……」

「双葉ちゃん身持ち堅そうなのに、一宏君ナンパするなんてお姉さんびっくり。一宏君もよくすぐに受けたね」

「それに関しては……まあ長い話があるんで。誘われてすぐに恋人だったわけじゃなかったですし、双葉さんもナンパしてきたわけじゃないです。ただ今はしっかりお付き合いさせてもらってますとは言っておきます」

 僕の言葉に、深瀬さんは満足げに頷いた。付き合いだして以降もお互いの身持ちの堅さに納得してくれたのが伝わったのは、表情で分かった。

 そんな様子を見つめながら、執事長は何も言わず、ただその空間が楽しいかのように食器洗いに専念していく。

 何となく話題を変えたい。僕はそんな執事長に質問を投げかけた。

「そう言えば、イラストのプレゼントの応募、どのくらい集まってるんですか?」

「おかげさまでほとんどのお客さんが二千円以上食事をしてくれてるからね。倍率は凄いよ。一番人気のない奴でも十倍の倍率だからね」

「一番人気は……」

「明日次第だけど、数十倍かな」

 と、執事長が呟くと、深瀬さんが身を乗り出して執事長の立つカウンターの向かいに立った。

「数十倍って、それ全員二千円以上使ってるんですよね! 凄い売上じゃないですか!」

「ま、まあな。お前にギャラ出さないって言ってたけど、さすがに金一封くらいは……」

 と、執事長がおののきながら呟くと、深瀬さんは強い声で反論した。

「要りません! これは私が自分で決めたルールです! それをねじ曲げるのは、たとえ恩義のあるオジキでも受けることは出来ません!」

 あまりに強い勢いで放たれる声に、場にいる全員が沈黙した。

 しばらくして執事長が鼻息を漏らす。そうだな、彼はそう呟いて食器を洗う手を止めた。

「確かに、お前の言う通りかもしれない。お前が決めたことを俺がねじ曲げるなんて、考えてみりゃ昔もなかった。お前がいいって言うなら、それでいい。悪いな、深瀬」

「そ、そ、そんな……悪いだなんて……」

「それはそうと、みんな、明日がイベント最後の日です、頑張りましょう!」

 と、執事長が大きな声で意気を高める。僕達はそれぞれ笑いながら、はい、と答えた。

 ただ一人、きみかさんを除いて。

 きみかさんは、この恋にどう終止符を打つのだろう。その光景がまったく見えなくて、僕はただ、何も出来ない自分への苛立ちを覚えるばかりだった。

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