3.5/19 嫉妬深くても度量の大きい人が恋人である
歩き出した僕達は、今日一日のことを話していた。深瀬香織が大人気で店がサイン会状態になっていたこと、掛けられていた絵がどれもこれも綺麗だったこと。風景画だと飽きられると思ったのか、風景の中にオリジナルのキャラクターも織り交ぜ、美しい光景に仕上げていた。
「ほんと、疲れたね」
「うん、疲れた。でもいい経験になった」
「一宏君、あんなに立ち仕事するの初めてだったもんね。明日脚大丈夫?」
彼女に突かれ、僕は苦笑を浮かべた。今日風呂に入ってマッサージをしても、多分疲れは取れないと思う。それでも、明日も最終日の明後日も笑顔で接客をしなければいけないのだ。
「神様さん、立ち仕事ずっとやってるのに、脚細いままだね」
「そ、そう?」
「ほら、普通立ち仕事してたら脚に筋肉付いて太くなるって言うでしょ。でも神様さん脚細いままで、ちょっと見とれた」
僕が少し褒めると、彼女は黙ったまま俯いてしまった。
これは地雷踏んだか? 僕が焦りかけた途端、彼女は僕の腕にきゅっとしがみついてきた。
「やっぱり、きみに褒められると嬉しい」
「あ、ああ……結構褒めてるつもりだけど」
「最近、褒めてくれる回数減ってる気がしたから。ついこの間も褒めてくれたけど、脚とかちゃんと見てくれてるんだってちょっと驚いたからかな。ありがと」
そう呟くと彼女はにまあといつもの柔らかな笑みを下から見せてきた。右左に以前言われた通りだ。綺麗だって思ったら、綺麗だって褒めなきゃいけない。そこを大事にするのは、結構重要なんだと思い知らされた。
褒められる。そう言えば、今日執事長はきみかさんを褒めていた。やっぱり、あの店は執事長が食事を作り、きみかさんが笑顔を振りまくことで成り立っているとしばしば痛感させられる。神様さんが悪いわけではない。きみかさんの持つベテランの力が凄いのだ。
「ねえ、神様さん」
「何?」
「執事長、深瀬さんを車で送るって言ってたけど、きみかさん嫌な顔しないかな」
僕のぽそりと力なく呟いた言葉に、神様さんも俯いた。
こればっかりは当人同士で解決することでしかない。僕は人葉さんにそれを言われて気付いたが、神様さんはすでに心得ているのか、余計なことを言おうとはしない。
「きみかさんは弱い人じゃないから、大丈夫って言うよ」
「……だといいんだけど」
「執事長も深瀬さんを車で送ってどうこうなんてこともないよ。ただ、深瀬さんが車に乗ってる間に何か話す可能性はあるけど……」
と、彼女は一歩止まって、僕の前に飛び出した。どうかしたんだろうか、そう思って目を見ると、若干怒ったようなニュアンスの眼差しを僕に向けていた。
「ところで一宏君、内緒にしてることあるでしょ」
「内緒……? 何かあったかな」
「あるよ。私は知ってるからね」
そう言われても、思い出せないものは思い出せない。僕が小首を傾げると、神様さんが僕の額を小突いてきた。
「お姉ちゃんとキスしたんでしょ」
「あ、あれか……」
僕はようやく思い出した。少し前のことで、秘密にしたつもりもなかった。ただ神様さんを怒らせるには充分すぎたかもしれない。
「お姉ちゃんから聞いた。一宏君とキス出来たって凄く嬉しがってた」
「ごめん」
「……まあ、謝るならいいけど。それに、お姉ちゃんだって一宏君のことまだ諦め切れてない部分あるの、知ってるし」
「もしかして、譲るつもり?」
「い、いや……そんな弱気な声出さないでよ。一宏君は私のものだから。まあ、お姉ちゃんのキスは許してあげる。あの人はあの人で色々大変だから。それに凄く喜んでたしね。やっぱり吹っ切るって大変なことなんだよ」
ああ、僕はこの人を愛して良かった。普通なら浮気だ何だと言われるところで、大きな心の器でしっかりと受け止めてくれる。それが僕にとって何より嬉しかった。
「言っておくけど、お姉ちゃんだから特別ってだけだからね。他の人とそういう風にしたら本気で怒るから」
「大丈夫、そういうのはないから」
「まあ……大丈夫だとは思ってるけど。お姉ちゃんが不意打ちでやったっていうのは聞いてるし。私が言いたいのは、一宏君、結構モテるんだから私をちゃんと見ててねってこと」
「それは大丈夫じゃないかな……」
僕はくすりと笑った。そうじゃなきゃ休日に長い時間を共に過ごしたりしないし、そもそもバイト先を彼女と一緒の場所に設定したりしない。
そんな僕達のことを考えている最中、きみかさんのことがふと脳裏に過ぎった。あの人がうかつなことに走るということは考えられないが、それでも精神的なショックは大きそうだ。
「きみかさん、今度のイベント終わった後に店辞めたりしないかな……」
僕の不安げな言葉に、神様さんは顎に手を当て少し考え込んだ。
「ないとは言い切れないよね。でもきみかさんは私や一宏君放っておいてお店辞める人には見えないし、そこは大丈夫……って思いたい」
神様さんの言葉も、断言出来るほどのものではなかった。
そもそもきみかさんがどれほどまでのダメージを受けているのか分からないのだ、僕達がああだこうだと考えていい結果が出るというわけでもない。
「でもやっぱり、きみかさんの接客が一番お客さんにウケてたね」
「そうだね。僕とか神様さんはたどたどしいって感じが見透かされてたけど、きみかさんは完全になりきってたもんね」
僕が笑うと彼女も優しげな顔でこくりと頷いた。やっぱり、きみかさんと働けることは、神様さんと働けることと同じ位、意味を持っている。
接客が何たるかを知っている、彼女の経験。それと反対に、恋愛を学びきっていない彼女の拙さ。どちらも彼女の持つもので、どちらも真だ。
「明日明後日どうなるかなあ」
「それはちょっと分からないけど、頑張って仕事に励むしかないって思う。僕も神様さんの可愛らしいコスプレ見ながら仕事出来るの、嬉しいし」
僕が口元を緩めて呟くと彼女は顔を真っ赤にしながら俯いた。そう言えば、今回の衣装もらっていいってことになってるけど、もらってどうしよう。とりあえず人前で着ることはないだろうから、神様さんと見せ合って終わりかもしれない。
駅の改札に着くと、神様さんはカード入れを取り出して、僕にくるりと振り向いた。
「とりあえず、明日また頑張ろうね、一宏君」
「うん」
彼女はそう告げて、僕と共に改札を潜る。でも行く方向が反対なのが残念だ。
結ばれてからまだ数ヶ月。でも色々あった数ヶ月だった。
でもこれから先、まだまだ長く続いていく。その中に見えてくるきみかさんと深瀬さんの思い。
月が煌々と空に浮かんでいる。今年の夏は天気が良かった。イベントには丁度いい感じだったと言える。
僕はどう立ち回ればいいだろう。空を見上げて、どうしようもないと分かっているのに一抹の不安を覚えた。