3.5/17 イベント中はたくさんのお帰りでいっぱいです
その日、開店前に僕はバックヤードで何度もスポーツドリンクを飲んでいた。
緊張が押し迫る。それは僕の近くにいた神様さんも同じだった。
「……さすがにプレッシャーかかるね」
「そうだね……」
神様さんは至って普通の人間っぽい台詞を吐いて、ため息をこぼした。神様ではなくただのか弱い少女になっている。
しかし、それも仕方なかった。
開店前だというのに、店の前にはすでに三十人ほどが列を作っていたのだ。
執事長が整理券を配布し、近隣の店舗の迷惑にならないように列を形成していた。
こんなことになった理由は簡単だ。イベント前日、深瀬さんが自分のSNSで今回のイベントの宣伝をしたのだ。
『遂に私がプロデュースしたメイドカフェでのイベントが始まります! イベント限定の飲食物もありますし特製の紙のランチョンマットなんかもあって凄く華やかなイベントになってますよ。二千円飲食される毎に、抽選券を一枚配布するそうです。当たりは私が直筆で描いたお店のコンセプトアートとなっています。枚数は十七枚! 割と当選率高めかもしれません。是非たくさん食べて、抽選も当ててください!(誰も抽選券受け取ってくれなきゃ凄く恥ずかしいな)』
と書いた上に、執事長が管理している店のサイトのリンクまで張ってくれていた。正直、開店前に三十名近くが来るのは、予想出来なかった。しかも今日は夏休み期間中とはいえ、平日である。休日である最終日はどうなるのか、僕達は始まる前から暗い笑い顔を浮かべるしか出来なかった。
この店の客席の数は二十が限度。つまりこの三十人の列の人達の中には、少し待たなければならない人達もいるのである。
深瀬香織のコンセプトアートばかりが注目されているが、ただコスプレして接客するだけの僕達は役に立つことがあるのだろうか。段々と自分達の自信がなくなっていくのが分かった。
それでも客席に向かわなければならない時はやってくる。僕は神様さんの手をぎゅっと握った。神様さんも同じように握り返してくる。
「頑張ろう!」
「うん! 楽しい一日にするぞー!」
そして、僕達はバックヤードから客席に向かった。
店の端では、いつものように深瀬さんがゆっくりしている。執事長はこういった人に溢れた光景になれているのか、平然とした顔で食器の準備をしている。
「執事長、店を開けます」
「ああ、よろしく」
執事長の言葉に合わせ、僕は店の鍵を開けた。言われなくても整理券を見せてくる人達。彼らを導くように、神様さんが早速側に付く。
「いらっしゃいませですワン。今日は犬の私と狼のあの人と、猫の美人さんがお相手しますワン。よろしくですワン」
神様さんは練習で何度も練習した口調で案内していく。お客さんはそれも気になるが、深瀬香織のイラストを見ようと、店内をぐるりと一周する。
ようやく一組目のお客さんが座った。僕はすかさずそちらへ向かう。
「こんな辺鄙なところへようこそ。何もないつまらないところだが、人間を縛り付けて食い物だけはまともなものを出させるようにしている。特別だ、食いたいものを言え」
と、僕が真顔で言うと、お客さんは笑うことなく真剣な顔でメニューに目を通した。これは接客が意外とうまくいったということか?
「じゃあ、この雪山に思いを馳せるかき氷とライムソーダ……だと二千円超えないから、柔らかオムライスで」
「なるほど、確かに二千円を超えるな。一つ聞こう。どのイラストが欲しいんだ」
「ああ、それは……まだ決めかねてます」
「分かった。希望のイラストの番号は金を払う時に言ってくれればいい。ま、人間らしく飯が出るのをしばらく待つんだな」
と、僕はそう言い残しカウンターへと向かった。
普段平身低頭で接客しているのに、今日はこんな失礼な口を叩く。それが僕にとって非常に恥ずかしいことであるのは間違いなかった
が、端の席で見ている深瀬さんは笑いながら見つめていた。
僕達が執事長にオーダーを通していると、お客さんの一部が席を立って、深瀬さんのイラストを携帯で撮り始めた。
これ大丈夫なのだろうか。僕は執事長に目で伺った。
「他のお客様の邪魔にならない限り、撮影は構わないよ。なんせ全部見られる機会なんてイベントの時期だけだからね」
彼の言葉が他の客にも聞こえたのか、店の中は座っている人よりも立って写真を撮っている人で溢れ出した。
僕と神様さんが少し側につく。写真を撮り続けるお客さんを見て、僕達は思わず大きな吐息を漏らしてしまった。
「このコスプレ、受けてるのかな……」
「正直、深瀬さんのファンばっかりのような気もするよね。でも、神様さんの服、似合ってるし綺麗だよ」
僕が褒めると、彼女は顔を真っ赤にして僕の目を見てきた。
「な、な、何言ってんの!」
「妹に言われた。綺麗なら綺麗って褒めてあげなきゃって。さ、仕事頑張ろう」
僕がにこりとしながら去る横で、神様さんは仕事も忘れ顔を真っ赤にしながら突っ立っていた。
執事長に告げた注文が出来た。僕は客席に向かいながら、紙のランチョンマットを敷く。
「うわ……さすが深瀬さんのイラストだ。あの、これ使わずにそのまま持って帰ってもいいですか?」
「構わない。折り曲げないように気を付けろよ」
「は、はい」
と、苦笑されながら、僕は注文されたかき氷、ソーダ、オムライスを並べた。こうして見ると一人で二千円分食べるのは結構辛そうだ。それでも深瀬香織の直筆イラストが欲しいのは、よく分かる。
辺りを少し見る。写真を撮っていた一部のお客さんの中に、深瀬香織がいることに気付いた人が幾ばくかいる。近づいていいものかどうか遠巻きにしていると、彼女は手招きして微笑んだ。
「どうですか、この深瀬プロデュースのお店は」
「凄いです! あの、これからもお仕事頑張って下さい。今度出るライトノベルの新刊も楽しみにしてますから」
といって、頭を下げて去っていった。行儀のいいお客さんだな。僕はそんなことを思いつつ接客に戻った。
呼び鈴が鳴らされる。お嬢様方だ。お嬢様方の接客は基本的によほど手が塞がっていない限り僕の担当である。僕が走って向かうと、お嬢様方は、にっこり微笑んできた。
「うわあ、銀髪のウィッグと眼鏡似合ってる」
「……ありがとう。そう言われるとは思っていなかったな」
「キャラも変えてるんだ。この間言ったよね、また来るって。約束通りまた来たよ」
そう言えば、先日また来ると言ってた人達だ。僕が困惑していると、彼女達は早速注文をし始めた。
「えっと、ナポリタンと、チョコレートクリームが決め手のパフェ、あとはカモミールのハーブティー。それからあと……うーん、特製フルーツタルト」
「分かった」
僕がそう呟くと、彼女達はにこっとしながら僕の目を覗き込んできた。どういう意図だろうか。僕が見つめ返していると、彼女達は僕にささやいてきた。
「君、彼女いるの?」
「……またどうしてそんなことを」
「携帯の番号、教えてもいいかな」
あ、これ逆ナンされてる。きみかさんがこういうことになるのは一度や二度でないのは分かるが、僕にこんなことが降りかかるなんて。
困ったな、と硬直していると、後ろから引きつった笑いを浮かべた神様さんが現れた。
「お客様、こいつは狼ですワン。狼だから取って食われちゃいますワン」
「食べられちゃうって! うわー怖ーい」
「……。この屋敷は動物と人間の約束事は禁止されてますワン。次にこういうことがあったらここに来る資格がなくなるっていうルールもあるので、お気を付け下さいです、ワン」
ワン、ワンと語尾を付けているものの、その実はっきりとした怒りがくみ取れる。目の前で彼氏がナンパされりゃそんな気持ちにもなるよな、と僕は遠い目をした。
一方のお嬢様方は、さすがに神様さんの注意が身にしみたのか、苦笑しながら僕に声をかけるのをやめた。僕は頭を下げることもなく、そのままカウンターへオーダーを通しに行った。
その僕の後に、神様さんも付いてくる。神様さんは、むっとした声で僕に話しかけてきた。
「ああいうの、きっぱり断らないと」
「いや……断るも何も、接客中だったし……」
「接客中でも! 一宏君、私が店の中でナンパされてたらどう思う?」
「……むかつく」
「でしょ。基本的に自己防衛。きみ目当てのお客さんだって増えてるんだから、気を付けてね」
と、神様さんは最後に笑顔を残し、そこから立ち去った。
注文を執事長に告げたのと入れ替わりで、他のテーブルの注文が並べられていく。執事長は先ほどの僕と神様さんのやりとりを笑っていた。
「本当に君達は仲がいいね」
「……まあ、仲が良くなければあんな関係にはなりませんし」
「双葉君も言っていた通り、最近君目当てのお客さんも増えてるからね。君がそのお客さんを気に入って自由恋愛に入るなら止めはしないけど、双葉君と破局しても知らないよ」
「……そうはなりたくないですね」
「だったら自分の身を引き締めて。さ、これを三番テーブルに運んで」
と、僕が食事をトレイに載せ運びに行くと、入れ替わりにきみかさんがカウンターにやってきた。
「執事長、オーダー入ります」
「ああ。ありがとう」
「ラテアート入りカフェラテと――」
彼女は何の惑いもなく注文を読み上げて、オーダー票を置いていく。執事長がいて、深瀬さんがいても全く動じない姿に、僕は彼女のメイドとしての矜恃を感じた。
僕はテーブルに注文の品を並べ、ゆっくりと店内を回った。そろそろ一時間が経つお客さんも出てきそうな時間帯だ。
と、深瀬さんが僕を見て手招きする。どうしたんだろうと思い、僕は彼女の元に駆け寄った。
「どうかしました?」
「コスプレしながら接客、楽しんでる?」
そんなことか。僕はため息をこぼしながらそうですね、と一つ漏らした。
「どっちかというと大変なことばかりでまだ楽しめてません」
「そっか。でも私の提案したコンセプトでお客さんが喜んでくれて、私がデザインした服の店員さんもいて、それでみんなが楽しんでくれてるなんて、私にとって夢のような時間だよ」
深瀬さんは客席に広がる光景を見つめながら、淡々と呟く。その目は遠くに向いていて、客席のどこかにフォーカスを当てているというわけではなかった。
「深瀬さん、新しいことをやってみたかったんですか」
「まあね。イラストレーターとしての仕事は日々精進だけど、自分のやれることの幅を広げるってやってみたいと思っても機会がなかなかなかったりするんだよ。……オジキに無理言ってこの企画通してもらって良かった。あんなに無理強いするのって会社員の時以来だよ」
周りが忙しく動いているのに、僕と深瀬さんの間に流れる時間がゆっくりに見える。
僕は深瀬さんに何を求めているのだろうか。執事長に早く自分の気持ちを伝えればいいのにと思う気持ちもあるのに、言わなくてもいいのではないかと思う部分もある。
人葉さんに言われたように、この問題は僕や神様さんが口を挟む領分にないのかもしれない。それが分かっているのに、気になる自分がいた。
「それにしても、さっきナンパされてたね」
「見てましたか」
「双葉ちゃんの怒った接客が面白かったなって。あの子、君のことになるとあんなに嫉妬するんだって思っちゃった」
彼女は申し訳なさそうに苦笑気味に呟く。確かに神様さんはちょっとばかり嫉妬深いかもしれない。僕が神様さんの天敵だった委員長と噂になっていると言われていた頃、まだ恋人じゃなかったけれどその話になるといらいらする表情が多かった。
そう考えると、あの人はずっと前から僕のことを好きでいてくれたんだなと分かる。こんな風になるのも、人生の縁というものを感じる。
「それじゃ、残りの仕事も頑張って。そろそろお客さん入れ替えの時間でしょ?」
「あ、はい。それじゃ深瀬さんも、よろしくお願いします」
僕が頭を下げて席から離れると、深瀬さんは手を振って見送ってくれた。
レジ打ちにはきみかさんが立つ。レジを叩く度に「にゃん」と明るく呟き、店を出るお客さんに最後の楽しみを与える。抽選券を渡して、お客さんが去ると、次のお客さんが入ってきた。
神様さんが「お帰りお待ちしておりましたワン!」と大きく笑顔で言うと、お客さんはにこっとしながら席に向かう。
夏の暑さ、それに負けない僕達の気力。イベントは、始まった時からすでにクーラーで冷やせないほどの熱気でいっぱいだった。




