3.5/16 厳しいから特訓の意味がある、はず
深瀬さんの特訓は予想以上に厳しいものだった。
言葉自体は優しい。だが出来ていなければ何度もリテイクを出す。そこには自分の目指す究極のコンセプトの実現だけが見えていた。
駄目だししなくても大丈夫、そんな言葉は大嘘になってしまった。
僕は狼らしくやっているつもりだったが「狼はそんな優しくないよ」と軽く突っぱねられ、もっと悪くたぶらかす空気を出せと言われたり。
神様さんも「犬だからって近づきすぎたらお客さん勘違いして君に恋愛感情抱くよ? 君彼氏いるんでしょ? しっかりしなきゃ」と叱り飛ばされた。確かに僕のいる前で神様さんがナンパされてたら僕も仕事中気持ちが入らない。人に近い犬というキャラだが、近すぎるのも難問だと、複雑な問題を提起してきた。
一方きみかさんの方は、特に注意されることもなく静かに「こっちの方がいいんじゃないかな?」とアドバイスが飛ぶ程度で終わっていた。きみかさんは「私だけ注意されてないですけど大丈夫ですか?」と不安がっていたが、深瀬さんは「君はベテランの風格が漂ってるからね。注意しなくても完璧にこなせてるよ」と褒めちぎっていた。
こうして一日中特訓に明け暮れ、それぞれの方向性を掴むことが恐らく出来た。これを実践に移せるかどうかは、あとはそれぞれの度胸次第にかかっている。
一方、執事長は通販で大量に発注した額縁に、深瀬さんの描いた直筆コンセプトアートのイラストを壁にかけていた。
このまま店の飾りにしてもいいのだが、せっかくだから、ということで二千円以上食事をしたお客さんに抽選券を渡し、選んだイラストをプレゼントという企画にすることとなった。
神様さんは羨ましいなあと言っていたが、そもそもあなたはもう深瀬さんから色紙もらったよねと僕が諭すと、しゅんとしながら引っ込んでいった。すると深瀬さんはすぐに飛び出してきて「イベント無事に終わったら記念のイラスト描いてきてあげるから」と優しく声かけしてくれた。僕はその時、深瀬香織という人がまごう事なき聖人に見えた。
練習はいつもの勤務時間と同じ、八時まで続いた。僕がその時間帯まで働くため、最近右左の食事は少し遅くなりがちだ。それでも右左は何の文句も言わず、家で勉強に打ち込み、僕の食事を待ってくれている。
スーパーも開いている時間で、ここ最近見切り品の買い方がうまくなった。どうせその日の内に食べるのだ。見切り品で充分である。
ただ見切り品で食費を安く切り上げても、親からの支援を断った僕の手元に貯金が増えるわけではなく、右左の貯金が増えるだけである。もっとも、右左が国立に進むわけではなく私学に進むなら、この貯金も何かしらの意味を持ってくれるかもしれない。
食事を作る。今日はサラダに生ハムを添えて、オリーブオイルをドレッシング代わりにかけるといったものが主菜だ。脇にはミネストローネ、そして雰囲気を合わせるために白米ではなくフランスパンを置いてみた。最近疲れ気味なので、少し変わったことをしてみたくなったのだ。
「兄さん、美味しそうですね」
「まあそう言ってくれるとありがたい」
僕の声はくたびれていた。順番に接客の練習をするとはいえ、深瀬さんに駄目だしされるのではないかという怖さでびくびくしていたのも確かだ。
深瀬さんは、きっと若かった頃の執事長に、もっとびしびしきついことを言われ、何度も駄目出しされてもくじけず立ち上がったのだろう。そう考えると、深瀬さんのあのタフネスも精神力から来るものではないかと何となく理解出来る。
「兄さん、帰ってきて一応毎日一、二時間程勉強してますよね。睡眠時間っていうか、体力回復の時間足りてますか?」
右左が心配げに僕の顔を覗き込む。正直なところを言えば、足りていない。だが大事な妹を不安にさせるわけにはいかず、僕はにっこり笑った。
「大丈夫だよ。というか、これをこなさないと父さんに認めてもらうとか無理だから」
「……あんまり無理して、調子崩さないでくださいね」
右左の言葉は苦しそうなものだった。確かに今の家に帰ってきてふらふらしている僕を見れば心配するのも仕方ない。
平然とした態度を取るべきなのは分かっている。分かっているのに取れないところが今の自分の弱さを表している気がした。
「兄さん、今度お店の方でイベントなんですよね」
「そう。双葉さんの好きなイラストレーターさんが偶然色々してくれることになって。凄くはしゃいでる」
僕が彼女の話題を切り出すと、右左はおかしげに口を押さえた。
「右左も趣味の一つくらい持ったらいいのに」
「趣味のない兄さんに言われたくないです」
「まあなあ……趣味、趣味かあ……。今は忙しいから、落ち着いてからゆっくり探すことにする」
と、僕が返答すると、右左はくすりと笑って僕に言葉を返してきた。
「私の今の趣味は勉強することかもしれません。知らなかった世界が広がる感覚が、凄く楽しいんです」
屈託のない笑顔は、右左の今の学園生活が充実していることを僕に教えてくれた。特別仲のいい友達が出来たとは聞かない。ただ右左の担任を務める新任教師の土川先生から聞かされた話だと、クラスは右左を中心に回っているらしい。
僕は信じていなかった。学園に戻って明るい笑顔を作れる右左であっても、そのどこかに影が差すのではないかと思っていた。でも今の右左は違う。堂々と学園に通い、一つ年下の子達と笑顔を交しあって楽しげに過ごしている。これだけ勉強に打ち込めるのは、自分のためというより、周りが作った楠木右左のイメージを崩さないためではないかと考えさせられる時もある。それは苦しい生き方じゃないかとも思うのだが、右左の努力ならそれも乗り越えられるのではないかと思えた。
黙々とサラダを皿によそって僕が食事を取っていると、右左がくすりと口元を緩めて静かに訊ねてきた。
「兄さん、さっきも話しましたけど、イベントもうすぐなんですね」
意外にも、右左の口から漏れたのはバイトの具体的な話だった。隠し立てすることはないのだが、それを突かれるとなかなか厳しい。
「大変だよ。特にお客さんが凄く来そうで」
「兄さんは何かするんですか?」
「コスプレして接客態度をいつもと違う感じにする。伊達眼鏡なんて似合う気しないんだけどなあ」
「兄さんが伊達眼鏡ですか。でも兄さん、眼鏡したら知的な感じがして似合うと思いますよ」
と、右左は楽しげに話す。そんなの似合うのかな。僕は少し考えたが、頭が相当疲れているのだろう、まったく結論が出ないまま「そうかもな」と返答した。
「でも兄さんがウィッグ付けたりして接客してるところ、見てみたいなあ」
「まあ……見せても構わないんだけど、身内に見られたらやっぱり恥ずかしいな」
僕はその言葉を吐いて、友人である野ノ崎や三重美咲に見られたらということを想像した。恥ずかしいを越えて向こう数年は笑い話にされそうだ。
それでも、お客さんは僕のそんな姿に一瞬ばかりの夢を見てくれる。それを裏切らないためにも、僕はイベントの日、努力する義務があった。
「双葉さんはどんな格好するんですか?」
「犬っぽい格好。って言っても服装自体は普通の人間の衣装で、尻尾付いてたりヘアバンドで差別化してる程度かな。でもデザインが凄くて、双葉さん凄く綺麗だった」
「兄さんにそんなこと言われるなんて、双葉さん凄く幸せでしょうね」
右左は頬杖を突きながら笑う。確かにその言葉を言ってもいいのだが、どこか気恥ずかしくてその言葉をかけるタイミングを逃していた。
「イベントが終わったらまた店の方は通常営業に戻るんだ。ちょうど夏休みも終わりになる頃だし、受験勉強の方に切り替えることが出来そうな気はする」
僕が言うと、右左はサラダを取って僕にこくりと頷いた。
「兄さん、双葉さんは私に諦めさせるだけの魅力を持った人です。その人の側にいるために農学部を選んだわけですから、がっかりさせちゃ駄目ですよ」
「……そうだな。受験、浪人は出来ないな」
「兄さんの本来のスペックで言ったら、他のところに行けたわけなんですから。それを覆してでも行こうとした意味、私にもしっかり見せて下さい」
右左は最後に、自分のアピールをした。確かに、右左にみっともないところを見せるわけにはいかない。僕の胸に、努力と気合いが高まるように火に変わった。
「最近夕飯とか遅くなって悪い。もう少し早く帰れたら夕食ももっと早くに作れるんだけど」
「気にしないで下さい。今は兄さんの人生がかかってます。私が勉強に打ち込んでる時間と比較したら、私のことなんて本当に大したことのないものです」
「……そうかな」
「そうです。兄さん、双葉さんと一緒になるって約束したんですよね? 今は一緒かもしれません。でも兄さんが努力出来なかったら、双葉さんが見限ることだってあるんですよ? 女の子って結構シビアですから」
と、右左は悪戯っぽく笑う。神様さんが僕を見限るかどうかは別として、不甲斐ない姿を見せたり、だらしない側面を見せるわけにはいかない。
食事が遅くなっても、神様さんに傾倒しても全てを受け入れてくれる右左に、僕はそっとそっと、静かな感謝を寄せていた。
「もっと料理のレパートリー増やさなきゃな。パエリアとか楽しそうだ」
「パエリアですか……。エビの殻を剥くのが大変ってイメージしかないです」
「あの有頭エビを使うからいいダシが出るんだ。ま、それは作ってからの話にしよう。右左、夕食終わったら僕が先に風呂に入らせてもらうね。少しでも疲れを取っておかないといけないから」
僕が促すと、右左は嫌がる顔を一切見せず大きな声で「はい!」と返事した。
色々あったけど、右左は右左で、僕のことをまだ信頼してくれている。そして右左に辛い思いをさせてまで選んだ神様さんという存在が僕にはいる。僕はこんなところでへばっている場合ではない。もっともっと、努力して上を目指さなければならない。
生まれて初めて思う、上へ目指そうという感覚。勉強していた時すらまったく思わなかった感情を、大切な一人の人のために思うというのは、少し不思議な気もした。
頑張ろう。
その日の月は強く黄色に輝いていて、夏が終わりかける一日に夜の彩りを与えていた。




