3.5/15 イベントに向けて特訓開始!
一日休みを挟んで、僕はいつも通りバイトに来た。
更衣室に置かれているのは、先日届いた僕のためにデザインされた制服。執事服にアレンジを加えた、タキシードスタイルの服に袖を通すと、気が引き締まる思いがした。ヘアバンドには猫耳に近い狼を意識した耳が付いている。これも付けろというのか、いや言われるだろう。そして極めつけの伊達眼鏡。僕は黙ってそれを身につけた。
僕は客席に向かった。店は学祭かクリスマスかと思うような、メタリックなカラーテープで彩られていた。
すでに神様さんときみかさんが来ている。そして深瀬さんもいる。
僕は神様さんを見た。犬をモチーフにしているらしいが、スカートに取り付けられたぴんと張った尻尾や、制服の煌びやかさと可愛さ、そして彼女の顔に合わせた犬耳のヘアバンド姿に、思わず見惚れてしまった。
きみかさんの服も、一般的な安っぽいコスプレの猫スタイルのものではなく、メイド服をベースにしながらも、部分部分に猫の意匠を取り入れている。何よりきみかさん自体が美人なのだ、何を着ても似合うのは当然であった。
「うわあ、なんかきらきらしてますね。さすが美男美女の揃ったメイドカフェ!」
「深瀬、褒めても何にも出ないぞ」
「心も温かくなるホットココアください」
「……お前、分かってて言ったな」
執事長は眉間に皺を寄せながら笑った。さすが、ギャラが減額される代わりに食事を求めた人だ。
でも、食事を求めたのは、お腹が空いていたとか、食生活が荒れているからではないと分かっていた。ここへ来て、執事長の食事を取って、テーブル越しに彼を眺めていたいのだ。
その時僕はふと気付いた。深瀬さんはアプローチらしいアプローチはしていない。もしかするとこの人は、このまま終わってもいいと思っている人なのかもしれない。そう、きみかさんが執事長の側で働ければそれでいいと思っているように、自分が報われることなんてなくてもいいと考えている、そう僕の目に映った。
「でも深瀬の言う通り、みんなきらきらしてるね。いつもと違う感じがするよ」
「あの、着る前は似合うかなって不安だったんですけど、この犬スタイルの服、凄く気に入りました!」
「僕の方も、こんな素敵な衣装デザインしてもらって本当に嬉しく思ってます。執事長の人脈侮れないですね」
「はは、まあ昔の名前で町おこしに呼ばれるくらいだからね。嫌われ者かもしれないけど、それなりに伝手もあるということさ」
と、僕達がそれぞれ喋っている中、きみかさんは相変わらず笑顔を浮かべながら沈黙を貫いていた。この空気が苦手なのだろうか。僕にはそれは分からなかったが、彼女は深瀬さんといる時にかなり色々意識しているのだけは分かった。
「今日は店は休みだから、ここでイベントの練習」
「は、はい!」
「そんな気負わなくていいよ、塚田君。とりあえず、サンプルの声かけ集作ってきたからそれに目を通しながら喋って」
と、執事長が一枚の紙を渡してくる。そこには色んな台詞が載っていた。
「……えっと、ようこそ、この館へ。ここへ来たということは、俺に食われに来たのか? それとも俺に銀の弾丸を撃ち込みに来たのか? ただ今日は祭りだ、お前達に特別な施しをしてやっても構わない」
と、僕が脚本を追いながら読んでいると、神様さんと深瀬さんが失笑を抑えるように口を押さえていた。
「執事長……何ですかこれ。凄く恥ずかしいんですけど」
「はい次の台詞」
「ええ……これがお前の所望したものか。センスは悪くないな。俺の腹が減っていたらお前から奪ってでも食うところだったな。次の台詞……この暑い日の暗がり、お前は好きか? 俺はふと生まれ育った土地を思い出す。ふふ、下らない話か」
僕は赤面しそうな思いを必死にこらえて、台詞を読み続けた。確かにこんなイベントなら神様さんも来て欲しくないと思うわけだ。こんな台詞を言って接客するというのもなかなか度胸のいることである。僕はメイドカフェで働くことの重さを改めて知った。
「みんな笑ってるのはいいけど、自分にも同じようなセリフがあるのを忘れないように」
執事長が見るに見かねて助け船を出してくれた。それに合わせて神様さんときみかさんにもセリフ集を渡していく。
「このセリフ通りの接客、というわけでもない。自分でこれが合うと思ったらアドリブで台詞を入れてくれてもいい。まあ、一番重要なのはらしさ、かな」
「犬……犬っぽく……難しいですね」
「そこはほら双葉ちゃん、お出かけの方がいたら、お出かけなんですか? じゃあ私はお留守番しておくので、また帰ってきて下さい、とかでいいんじゃないかな」
「ああ、なるほど。そう考えたらあんまり難しくもないかも……」
きみかさんのアドバイスで神様さんが納得したような顔をする。周りが和気藹々とした空気に包まれた中、深瀬さんが一歩踏み出した。
「当日は私がデザインした紙製のランチョンマットとかもあるから、楽しくなるよ」
「深瀬さんのランチョンマット……あの、一枚もらって帰っていいですか?」
「一枚なんて言わずに十枚くらい持って帰りなよ。オジキもそれくらいだったら怒らないと思うし」
深瀬さんの笑顔につられて執事長も笑う。これはOKということだろう。
「そうそう、みんなに言ってなかったけど、当日はここに深瀬がここで毎日描いてたイラストとかを飾ることになってるんだ」
「もー大変だったんですよ。CGにすると暖かみがなくなるから、手書きのイラストを清書して、色を塗って。でも十七枚くらいだったから何とかなると思って頑張りました!」
深瀬さんは胸を張る。やっぱり、くぐり抜けてきた場数が違うのか、顔に自信が満ちあふれている。
執事長もいつもと違う華やかな店内を見て、満足げな笑顔を浮かべていた。
「今まで色々とイベントをやってきたけど、こっちに移ってからは派手なイベントはやってなかったからなあ。何だか感慨深いよ」
「オジキ、前やってたメイドカフェではやってたんですか?」
「まあな。まだコネがたくさんあった頃で、色々声をかけてやってたんだ。ただこっちに移ってからイベントよりも普段の営業が大事と思うようになったから、あんまりイベントを重視しなくなったってのが事実だな」
そして彼は体を大きく伸ばして、僕達にしっかりした声で告げた。
「だから、今回のイベントは凄く気持ちが入ってるんだ。どうしてイベントをやろうかとか、あんまり覚えてないけど、深瀬から熱心に誘われて何となくやろうっていう気持ちがどんどんもっと凄いのにって感じに変わったんだよね。前にやってた店に負けない大きなイベント、成否の鍵を握るのはみんなの力、よろしく頼むね」
と、執事長は頭を下げた。僕達は恐縮しながら同じように頭を下げた。
すると深瀬さんも一歩踏み出し、頭を下げた。
「私にとっても、こういう仕事は初めてのことです。イベントの間だけかもしれませんけど、このお店の一員って気持ちで頑張りました! いいイベントにしましょう!」
彼女の力強い声に、僕達は次々と「はい!」と答えていた。
これだけのセッティングをしてもらったのに、売上が今ひとつなんてことになったら恥以外の何ものでもない。
僕の顔も自然と引き締まる。どんなことになるのだろうか。胸が高鳴って仕方ない。
「当日は人が多ければ整理券配布で、それでも更に多ければ一組一時間の制限を設けようと思っている。まあ、そんなことにはならないと思うけど」
と、執事長は笑うが、現実的に考えるとそうなっても不思議ではない。深瀬香織という希代のイラストレーターがプロデュースした特別なメイドカフェ。バイト初心者の僕に訪れる初めての大舞台に、僕は震えを隠せなかった。
「それじゃ、今日はみんなで接客の練習をしようか。深瀬にはいつも通り椅子に座ってもらってみんなには当日を想定した接客を深瀬でやってみてもらう。深瀬も遠慮せず駄目だししてくれていいからな」
「多分駄目だししなくても大丈夫ですよ。ここの人達は丁寧ですから」
深瀬さんが優しく言ってくれたことで、僕達の張っていた片肘から少し力が抜けた。
執事長との関係はどうなるかは分からないけれど、今のこの瞬間を精一杯尽くすことは誰もが出来る。そしてみんな、その思いで向かっている。
最近感じていなかった一体感と高揚感。僕達は久しぶりの感覚に、それぞれ熱くなっていくのを感じていた。