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リトルフォーチューン―あるいは引きこもりの妹の話であって―  作者: やまみひなた@不定期更新
3.5/ そして始まった夏のバイト生活
105/163

3.5/14 受験のもう一つの理由

 今日は休みだ。

 といっても、普段の休みではない。臨時休業だ。

 もうすぐ始まるイベント。それに向けて店を一旦閉めて、飾り付けを数日掛けてする、ということである。

 おおまかな力仕事は執事長一人がやるということなので、バイト組である僕、神様さん、きみかさんは家でゆっくりしてくれ、ということだった。

 普段なら神様さんと会って一日を潰すのだが、ここ最近の疲労でそんなどころではなく、お互いに「ゆっくり体の回復に努めよう」と苦しい声で答えた。

 ただ半日も寝れば疲れも大分取れるもので、僕は久しぶりに感じる重苦しくない体で夕食を作っていた。

 しかし目の前にはだかるのは、いつものあいつ、ビーフシチューだ。右左はビーフシチューが好きな割にステーキや刺身といった食事にあまり喜びを示さない。カレーも同じくだ。どういう味覚をしているのか、まったく判断に尽きかねる。

 右左はすでに食卓に着いている。出来たてのビーフシチューを食べるのが、夏休み家に籠もって勉強をしている右左にとってはこれほどない幸せなのだ。

「出来たよ、右左」

「兄さん、ありがとうございます」

 右左は礼を言いながら食事を手にする。早速ビーフシチューに口づけ、満足げな笑顔を浮かべていた。

「兄さん、何か変えました?」

 ビーフシチューを口にした右左が突然訊ねてくる。僕はにっと笑いながら右左に得意げに語った。

「ちょっとスパイスとか自分流にアレンジしてみた。いつも市販のルーで出来ただけのシチューだったら面白くないだろ?」

「うーん、面白いかどうかは私はちょっと分からないですけど、美味しいのは確かです」

「たくさん作ってるからおかわりしていいぞ」

 と、僕は席に着き、同じように食事を取りだした。今日が終われば店に出てイベントの前準備だ。初めてのイベントが深瀬香織プロデュースというのもなかなかハードである。

「兄さん、先日双葉さんが来られたじゃないですか」

「ん? そうだね」

「……見てて分かりました。私じゃどうしようもないくらい、魅力的で素敵な人だって。兄さんが好きになるのも仕方ないなって思いました」

 右左は淡々と語る。でもそこに悲哀はない。きっぱりと諦め、前を向く少女の瞳だった。

「でもやっぱり、兄さんも男の人だったんですね」

「……何が?」

「胸の大きな人が好みってことです。先日双葉さんがうちに来た時に、双葉さんと廊下でばったり会った時に思わず聞いちゃったんですけど、双葉さん、Gカップだそうですね」

「……それは知らなかった。確かに大きいとは思ってたけど」

 神様さんの体は一通り知り尽くしたつもりなのに、恥ずかしくてそういうことは聞けなかった。でも、あの細身の体でGカップというのは、グラビアアイドルも真っ青の肉付き具合だと言える。さすが神様、といったところか。

「別にあの人の胸に引かれて好きになったわけじゃないよ。何を言っても明るいところとか、そういうところが好きになる要因だったんだ」

 僕がそう言うと、右左はくすりと笑って返答した。

「もちろん、兄さんが胸で好きになるような軽薄な人とは思ってません。私の知らないところで、双葉さんの魅力、たくさん見せてもらったんだと思いました」

「……そうだね」

 僕が小さく笑うと、右左も同じように微笑んだ。こんな温かな食卓、どれくらい久しぶりだろうか。

 僕はふと、ずっと気になっていたことを訊ねることにした。右左の目をじっと捉える。右左は首を傾げながら僕の目を見つめ返した。

「右左の恋愛事情は今はどうかは知らないけど、右左はどんな男性がタイプとかあるの?」

 その言葉を投げかけると、右左は少し項垂れながら、静かに語り出した。

「私、心が駄目になってたじゃないですか。その時兄さんが帰ってきて、私に優しくしてくれました。こんな風に支えてくれる人がいたら、きっと私の人生、豊かになるだろうなってそんなことを思ってたんです」

「なるほどな……」

「優しくて、格好良くて、頭も良くて。兄さんは私の自慢の兄です。だから、次の恋愛のハードルがとっても高くなっちゃって困ってるんです。告白は時々されるんですけど」

 野ノ崎の情報網が最近まともに動いていないのか、右左が告白されているということを僕は知らなかった。

 そして、右左の眼鏡にかなう人間もいないということも知らなかった。

 しかし目標が僕か。高いハードルなのか低いハードルなのか自分では分からないが、右左にとって理想の兄を演じるのは、もう少し続けなければならなそうだ。

「右左はこれから先、何かしたいとかそういう目標は立った?」

 僕がふと問い掛けると、右左は難しい顔をしながら天を仰いだ。この仕草をする時、相当迷っているということの表れだ。

「先生方が色々仰ってくれるのはありがたいんですけど、十人いたら十人違うことを言われちゃって……」

「たとえば?」

「英語が好きなら英米文学に進んで留学とかどうとか言われたり、知識の詰め込みが得意なんだから法曹関係に行けばとか。あとは国家公務員目指しても行けるとか……みんな無茶苦茶言うんです」

 なるほど。流石に僕でさえそんなことを言われたことはない。しかし九割五分の点数を取り続けるとこんな風に色んな誘いがかかるのか。相手が留年生ということを完全に失念されている。いや、留年生にしてはやり過ぎているほどやり過ぎている。

 留年生の定番と言えば復帰したはいいけれどついていけなくて退学するか、通信制や夜間に転校するパターンが多い。

 というより、元の学校に居続けることさえ難しいのに、高得点を取り続けるというのが周囲からすれば不思議そのものである。

 僕は右左と同じ学年で成績二位の名も知らぬ人物に思わず同情してしまった。こんな化物と一緒にやっているというだけで、普通なら学年トップなのにその座を奪われてしまうのだから不幸そのものとしか言いようがない。

 ただ先生方の期待を一身に背負っているのは、妥当だと思った。というより、僕は嬉しかった。

 右左の口から語られたことはないが、右左が休学する時あまり声はかけられなかったのは想像に難くない。それが今、学校の誇りとして皆に注目されている。

 右左は引っ込み思案な部分があるので、こうして注目されるのは困惑する部分もあるだろうが、努力している右左を色んな人が認めてくれている。それが何より、右左を助けてやりたいと思っていた僕にとって嬉しいことだった。

「兄さん」

 右左が声をかけてきた。僕は「何?」と問い返して顔を上げた。

「本当に、農学部に進むこと、後悔してないんですか」

 そういうことか。そのことを右左としっかり話したことはない。僕は静かに、思いの丈を吐いた。

「後悔なんてない」

「でも、双葉さんがお店をして、兄さんはどこかの会社で働くとか出来るじゃないですか。そういうのじゃ駄目だったんですか」

「……それでもいい気がするんだ。でも、僕は父さんと母さんを見てきたから」

 僕の切な一言に、右左は黙った。右左も分かっている。父さんと母さんが別々の会社で働いて、お互いの仕事が忙しくなり喧嘩が激しくなったことを。

 僕はあんな家庭を作りたくない。そして僕は、一番好きな人を支え続けたい。だから、農学部で植物のことをもっと知って、神様さんの側で共にいられるパートナーになりたかった。

 右左もその言葉で納得したのだろう。ちょっとだけ寂しそうな表情を浮かべたものの、次には僕に笑顔を向けてきた。

「兄さん、バイトと家事と勉強と色々大変だと思いますけど、兄さんならこなせるって信じてます」

「右左にそれを言われるかあ」

「はい。信じてるから、私、手伝おうとか言いません。兄さんが越えたいっていうことだと思ってますから」

 やはり右左は僕の妹だ。僕がどんな目的で頑張っているか、その点を鋭く見抜いている。

 右左に手伝ってもらっては、こなせたなんて言えない。だから僕は、頑張らなきゃいけない。そして、越えられそうな気がする。

 右左の食器に入っていたビーフシチューがなくなった。もう食べ終わるのかな……と思ったが、右左はまたビーフシチューを注いだ。

「右左、結構食べるようになったな」

「まだ成長期だと思うんです。食事をしっかり取ってれば、双葉さんみたいな綺麗なスタイルになれるかもしれないって思って」

「……あの人に憧れるのいいけど、普通に食べてるだけだったらほとんどの人は太るだけだと思うぞ」

 僕がぽそりと呟いても、右左はシチューを注ぐのをやめない。本人がそれでいいと思うなら自由にさせてやるべきだが、勘違いはよくないとも思う。

 それにしても、イベントか。深瀬さん、イベントが終わったら執事長に告白でもするのかな。

 今の僕は、家事、勉強、バイトのことより、執事長と深瀬さんときみかさんの恋愛模様に頭を支配されていた。

 夏の薄暗がりが窓に広がる。僕の心の中にある、もやもやした薄暗がりも消えればいいのに。

 僕は大きなため息をついて、右左に付き合う形でビーフシチューをもう一度食器に注いでいった。

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