3.5/13 辛い過去を振り切って募った思い
こういう空気は苦手だ。僕は彼女にそっと訊ねた。
「あの、執事長って料理も得意だし店を回すのも上手いのは分かります。きみかさんはどこに惹かれたんですか?」
「どこか……懐かしい話になるな」
「懐かしい話?」
「そう。私が変わりたいって思ってた頃の話」
と、彼女は口の両端を上げて、僕達の目をそれぞれ順に捉えていく。どんな話なんだろう。僕は彼女の次の言葉を待った。
「あの店で働き出したのは大学に入ってすぐの頃」
「数年前、ですよね」
「私、留年生じゃないから。あんまり明るい性格でもなくてサークル入る気にもなれなかった。でも何かうずうずしてたんだろうね、ある日唐突に変わりたいって思って一念発起。今しかないって思ってアルバイトしようって思ったわけ」
彼女の話は、神様さんがバイトを始めた頃の話に似ていた。神様さんは暗い自分から脱却して、僕にもう一度会うため店で働き出した。そして店で今一番明るいきみかさんも、暗い自分を変えるためにバイトを始めようとした。
その勇気の部分に執事長が関わることは、先を聞かなくても分かることだった。
「その頃、店に先輩のメイドさんが三人いて。色々教えてもらったんだけど、その頃の私って飲み込みも悪かったから先輩達を怒らせてばっかりだった」
彼女の目が遠くを映す。懐かしくて、痛ましい思い出。それに勘付いた神様さんが身を乗り出しそうな勢いで聞き返していた。
「執事長は助けてくれなかったんですか?」
「助けてくれなかった。相談したけど、自分のことが出来ない君にも責任はあるよって言われて」
僕達の知っている執事長のイメージと違う。それでも彼女は恨みを一切持たない目で淡々と話し続けた。
「ようやく仕事が飲み込めてきた半年くらいの時かな、ちょっとずつ私がいいって言ってくれるお客さんが出てきてくれたわけ。それが先輩達には面白くなかったのかな、休憩時間とかが重なっても無視されたりした」
「ひどい……私きみかさんにそんなことされたのなんて一度もなかったのに」
「私、我慢してた。でも、声をかけても掛け返されることもなくて、限界に近づいていた。それで、店を辞めようって決意したんだ」
きみかさんの飲んでいたアイスココアがなくなった。それと同時に、彼女は笑った。
「そんな思いを抱えながら店に行ったらね、執事長以外誰もいなかったんだ」
「え? その意地悪な先輩達はどこに行ったんですか?」
「双葉ちゃんと同じこと私も思った。普段ならもう店に来てる時間だったから。そしたらね、執事長に言われた。見た目は化粧でごまかせても、醜い人間性は隠せない。この店にはそういう人は要らないから、三人とも辞めてもらった、って。……執事長は私を守ってくれたんだよ」
執事長はあまり多くを語らない人だと思う。それでもバイトに入っていたベテランを三人も切ったら店が回らなくなるのは火を見るより明らかだ。
だが執事長は選んだ。仕事が出来ても嫌な性格をしている人達より、心からお客さんをもてなすことが出来る一人を。
「その時ね、私思ったんだ。この人のために頑張りたいって。それからかな。化粧の勉強もたくさんして、どうすればお客さんに喜んでもらえるか、話し方とか考えたり」
「そういうのがあったんですね……だから私に……」
「双葉ちゃんはそういうのがなくても優しくされたと思うよ。私はやり返してやろうとか見返してやろうとかそういうの全然思わないけど、執事長の気持ちには応えなきゃっていうのは今も変わらない。それがいつの間にか好きっていう感情に変わったのがややこしいけどね」
と、彼女はおかしげに口を押さえた。
半年間厳しくもずっと見守ったことで深瀬さんの信頼を得た執事長。ずっと声をかけなかったけれど、最後の最後で守ってあげたことできみかさんの心を救った執事長。その二つは完全に重なって、執事長という人の優しさを僕達に見せていた気がした。
「執事長と二人で店を回してた時、忙しかったけど充実してた。彼氏作ったこともなかったから、どうやれば告白出来るのか分からなかった。でも勇気を出して閉店後に言ってみたんだけど、年齢差がありすぎるねって笑われた。それと君ならもっといい人が見つかるよって」
躱す時の常套句を告げられた時のきみかさんの気持ちがいかほどか、鈍い僕でも分かる。僕は幸い一回の告白で神様さんと付き合えるようになった。でもそれが叶わなかったらと思った時、僕は人生の終わりを迎えるんじゃないかと感じていた。
その人生の終わりを、彼女は感じた。そして今、深瀬香織という大きなライバルが現れてしまった。
執事長が昔話をしながら、絶大な信頼を寄せつつも軽口を叩く。きみかさんもきっとああなりたかった、そんな思いが透けて見える。
きみかさんはすっと立ち上がって、注文を受けるカウンターへ向かった。どうしたんだろうと思い背を見ていると、三つのチョコレートケーキを買ってきた。
「ま、これでも食べて」
「い、いや、さすがに悪いです! お金払いますから!」
「塚田君は色々堅苦しい部分だけ困るって双葉ちゃんから聞いてたけど、本当だね」
「そ、そんなこと言われてたんですか!?」
「き、きみかさん、それ内緒にしておいてください!」
「えーそんなのちょっとなあ。双葉ちゃんはもっと柔軟になってほしいって塚田君の話をしてたら言ってるよ」
彼女は悪戯っぽく笑う。でも、僕の頭が堅すぎて柔軟な発想がないことも多々ある。神様さんがそう思うのも仕方ない。僕は項垂れながら「頑張ります」と返答した。
僕達と会話をして、少しくらい気が晴れたのだろうか、きみかさんは大きく伸びをしながら眠そうな顔つきで笑った。考えてみれば、僕も働き始めより今の方がきつい。家に帰って風呂に入った後、夕食も食べずに即寝てしまう日もあるくらいだ。深瀬香織という人気イラストレーターが持ち込んだ旋風は、すさまじいと痛感していた。
「でも一宏君もきみかさんも疲れ果ててるのに、執事長だけは元気ですよね」
「……そうね、そういうところも私が憧れてる部分かもしれない。大人しくて引っ込み思案だった私が、店でお客さんにたくさん話しかけてもらえる、そんな人間に変わるきっかけを作ってくれたのはやっぱりあの人。嫌いになれたら楽なんだけど」
笑いながら、でも寂しげに抑揚のない声できみかさんは呟いた。右左は言っていた。年齢差が酷すぎて恋愛にすらならないと。確かに、きみかさんが結婚したいなんて言ったって、周りからも好奇の目にさらされるし、ご両親がそもそも納得しないだろう。
かといってそれは深瀬さんも同じだ。どちらにしろ年齢差はかなりある。
「でも私があれこれ言っても最終的な結論は執事長にあるんだよね。私もう三回振られてるから目はないと思う」
「……きみかさん、諦めちゃうんですか」
「諦めてないよ。でもね、双葉ちゃん、側にいられるだけでも幸せってこともあるの、覚えていてほしいな」
きみかさんは穏やかな声で神様さんを諭した。神様さんはそれを飲み込めきれないのか、暫時無言になった後、チョコレートケーキにフォークを挿し入れた。
「それにしても人気イラストレーターさんなのに美人だね、あの人」
「深瀬さんですか。僕も始めお店で見た時二十六、七かと思ってたんです。実際は十歳くらい違ったわけですけど」
「きっと、あの人も執事長に思いをぶつけたいから綺麗になることに一生懸命やってきたんだと思うよ」
綺麗になるために一生懸命。正直どんなことをやるのかまったく分からない。
とはいえ、今現在店に通っている彼女は、ナチュラルメイクもばっちりで、お店に来るお客さんの中にいる熱心な深瀬香織フリークスにとっては近づけるチャンスとばかりにあちこちのテーブルから人が寄ってくる。
あんなの危ないんじゃないかと思うのだが、彼女は彼女で人のあしらい方を知っているのだろう、にこっと笑ってサインをして、そのままさようならだ。彼女にも不快な客がいるということを僕は教えられた。
僕がそんなことを考えていると、きみかさんが背伸びして、僕達ににこっと笑った。
「さ、もてないお姉さんのお話はそれくらいにして、君達がどうなってるのか知りたいな」
「そ、その、特に変なことはないですよ」
「双葉ちゃん、ごめんね。双葉ちゃんのお店でのテンションで前日何があったかほとんど分かっちゃうんだ。若いっていいね。塚田君はまだ隠せてる方だけど双葉ちゃん隠せない性格してるもん」
彼女のからかいに、神様さんは黙りこくって俯いた。顔は真っ赤だ。右左に続き、僕達が何をしているか理解している人がまた一人増えた。
この調子だと何人に知られてるか分かったもんじゃないな。僕はあまりの情けなさに思わず肩を落とした。
「そ、その、私は一宏君の側にいたいんです。側の側にいて、一宏君の吐息がかかったら、凄く嬉しくなるっていうか……」
神様さんは食らいつく。するときみかさんは寂しげな笑みを浮かべ、チョコレートケーキを一口食べた。
「いいわね、そういう関係」
彼女の寂しげな問いに、僕は思わず訊ね返した。
「あの、きみかさんくらい美人ならいくらでもモテそうと思うんですけど……どうなんですか」
「中高と色々と声を掛けられたことはあるけどね。でも見た目とかばっかりで内心の私なんてどうでもよかった人ばっかり。だから一切付き合わなかった」
「だからなんですね……上辺を見ずに気持ちを汲み取ってくれる執事長を選んだのは」
「そう、双葉ちゃんの言う通り。でもあの人には子供扱いされてるから」
「……難しいですね」
神様さんがため息をこぼすと、僕もつられたようにため息をこぼした。深瀬香織がどうこうというより、恋愛に関して枯れきった執事長を焚き付けることの方がよほど難しい。
しばらくして、全員がケーキも飲み物も食べ尽くした。すっときみかさんが立つ。もう帰りたいらしい。
「あまり君達も遅くなっちゃいけないよ。遅くなってホテルに泊まるなんてことになったらお金の無駄遣いになるわけだしね」
「あ、あ、あ、あ、あの! きみかさん、私と一宏君は確かにそういう仲ですけど、あんまりからかわないでください!」
「ふふ、そう言えるの、羨ましいな。それじゃ、私帰るね。二人も気を付けて」
と、彼女は一足先に店を出て行った。
しばらくして僕達も同じように立ち上がった。お互いの顔を見るのが恥ずかしい。
その緊張が取れてきて、僕達はきみかさんのことについて話していた。
「やっぱり、あきらめムード漂ってるね」
「きみかさん仕事始めたばっかりの私に親切にしてくれたからなあ。でも深瀬さんの気持ちも相当強いし、下手なこと言えないよね」
「あのさ、この間人葉さんに会った。その時に言われたのが、当人同士で解決することにあまり首を突っ込むなってこと。確かにそうだと思った」
僕がとつとつと話すと、神様さんも納得したのか、うん、と首を縦に振った。
「私たちが介入することでややこしくなることもあるもんね。うん、しばらく黙っておこう」
「その方がいいよ。僕達は僕達でやることがあるし」
「その、君がやるって言ったら何か変な意味に捉えちゃう」
「……それは神様さんの考えすぎだよ。というか、ちょっと恥ずかしいけどお互いにああいうこと、かなり好きだよね」
そう一言漏らすと、しばらく沈黙が過ぎった。
僕は神様さんの手を掴んだ。もうここに長居する必要はない。今はとりあえず、遅くなる前に一旦帰ろう。
店に張られた夏祭りのポスター。蒸し暑い中、僕達は汗ばんだ体を拭うこともなく、手を繋いだまま駅まで歩き続けた。
どうか、この空のように、暗がりの向こうに灯りがありますように。
僕は深瀬さん、きみかさん、両方に頑張ってほしくて、そっと星に願いを託した。




