3.5/12 人には色々な過去があって
翌日の夜八時、店が閉まる時間に、僕は神様さんと目を合わせていた。
今日、きみかさんのことについて三人で話す。執事長にも秘密で会話するというのは据わりの悪いものだが、それでも聞きたい事はある。
「お疲れ」
執事長がコーヒーカップを持って席の一角に向かう。閉店なのに堂々と居座っている深瀬さんに、それを渡しに行ったのだ。
深瀬さんはよほどのことがない限り、毎日のようにこの店に来ている。開店時間に来ることもあれば、開店から二、三時間した昼下がりに来ることもある。
ただ彼女がいるだけで、お客さんの視線の半分程度は僕達メイド執事をしているバイトではなく、そちらに注がれる。今この店を盛り上げているのは深瀬さんの力が八割と言っても過言ではない。
深瀬さんはコーヒーカップを受け取ると、くすりと笑って飲んだ。
「この店、紅茶が弱いのがちょっと問題っすね」
「紅茶か……確かに言われてみたらそうかもしれないな。コーヒーの方が基本的に嗜好品として好む人が多いから、そうしてるんだが」
「女性客はコーヒーより紅茶の方が好きな人が多いっすよ。そこ勉強しなきゃ執事長くん」
と、深瀬さんが執事長をからかうと、執事長はまったく反論もせず、呆れたようにカウンターへ戻った。
「みんなもお疲れ。必要なら何か作るけど」
「い、いえ! 今日は早めに帰りたくて」
僕が叫ぶと、きみかさんの手を取った神様さんが店の奥の更衣室に消えていった。執事長は顎を撫でながら、そうだね、と呟いた。
「塚田君は受験勉強もあるもんな。僕も若い頃もう少し受験勉強を真面目にやってたら人生もうちょっと変わってただろうなあ」
「オジキの性格的に今の幸せだけでもありがたく思わなきゃ駄目ですよ」
「かねえ。まあ真面目にやってたらお前と会うこともなかったし、色んな人間と絡むこともなかっただろうな。そうも考えるけど、どこかしらで出会って同じような運命を送る、人生なんて意外とそうなるように出来てるような気もするし、実際のところは今の自分を受け入れるしかないのさ」
執事長は僕を見てきた。それは何があったとしても、僕と神様さんの関係が変わることはないと言いたいようにも見えた。
「塚田君、遅くならないうちに帰りなさい」
「はい。あの、執事長、深瀬さんは……?」
「まともに食事作れない奴だからな。飯を食わせてから帰らせるよ」
何かあるのかと思い、少し窺ってみたが、特に何かあるわけでもなさそうだ。深瀬さんは相変わらずにこにこしている。この環境にいられることが本当に嬉しいのが伝わる。
それにしても、執事長だ。これだけ好意を向けられて、昔の上司と部下だから仲良くしていると思い込める精神が凄い。
ただ執事長からすれば、後輩でもあり、妹のような存在に見えるのだろう。意識するには、深瀬さんの入り込んでくる距離が近すぎる。そう言った点で深瀬さんも恋愛が下手な人だという気がした。僕も他人のことはあまり言えないが。
神様さん達に遅れる。僕は頭を下げて奥へ引っ込んだ。
着替え終わって扉が閉じた店先に赴くと、私服に着替えた神様さんときみかさんが僕を待つように立っていた。
「お待たせしました」
「塚田君、そんな待ってないって。……執事長なにかしてた?」
きみかさんは不安げな感情を隠しきれない声で訊ねてきた。僕は励ますように一笑に付した。
「相変わらず後輩だなあって言ってただけですよ。深瀬さんが料理作れないから夕食食べさせてから帰らせるって」
「一宏君、車で送るとか……」
「そういうのないっぽい。というか、執事長の上がり待ってたらかなり遅くなるから、一人で帰れってこと」
なるほど、ときみかさんが頷く。そのきみかさんの手を引いて、神様さんが一歩踏み出した。
「それより喫茶店行きましょう。きみかさんとお話したいんです」
「なんか双葉ちゃんいつもと違って積極的だなあ。まあ、行こうか」
と、彼女は微笑を浮かべながら歩き出した。僕もその後にゆっくりと付く。
夏の夜は暗がりが広がっているはずなのに、その向こうにまだ明るさが残っているように思える。それは真っ暗な絶望の中に、微かに消しきれない希望を抱えてしまう、そんな感情に似ている気もした。
この時間帯に駅前で開いている喫茶店はチェーンのコーヒーショップだ。店内は五割くらいの入りで、ゆっくりしても怒られない感じだ。
「双葉ちゃんと塚田君は何がいい?」
店に入って開口一番、きみかさんが告げた。僕と神様さんは慌てて手を振った。
「自分で払いますから! ね、ね? 一宏君!」
「これくらい払わせてよ。さすがにバイト三昧なのにそんなのも払えない大学生ってのは間抜けだから」
彼女に押し切られ、僕達はぽそりと「紅茶で」「コーヒーで」と呟いた。きみかさんはその言葉を聞いてから、すぐに注文していった。
席を確保して、僕達はトレイに載った紅茶やコーヒーをそれぞれ置いて席に着いた。きみかさんもこの気が置けない距離感が心地いいのか、最近見せてなかった優しいお姉さんの顔に戻っていた。
「で、二人が聞きたいことって何?」
開口一番、分かりやすい質問をきみかさんの方から投げられてしまった。僕達が彼女と雑談したいという体で進めていたのに、本音の部分はバレバレだった。
僕は口を閉じ、何を言おうか悩んだ。すると横から、神様さんがゆっくり訊ねていった。
「あの、きみかさんは深瀬さんのことどう思ってるんですか?」
「ん……? いい人だと思うよ。少なくともあんなにお店が混むなんてこと、私が働き出してから見るのは初めてだし」
彼女は動揺した様子もなく自然に話す。そこに嘘はない。
遠回りする質問は、多分無意味だ。僕は改めて彼女に向かい合い、静かに訊ねた。
「その、深瀬さん、多分執事長のこと好きなんだと思います。きみかさんからしたら、あんなに執事長とべたべたしてたら、不快に思わないかなって」
申し訳なさそうに僕が呟くと、彼女は頬杖を突いてアイスココアに刺さったストローに艶のかかった唇を触れさせていた。
彼女はわずかに天井を見る。そしてその視線を僕達に戻して、薄い笑顔を作った。
「仕方ないよ」
「仕方ないって……」
「双葉ちゃんは深瀬さんのファンなんでしょ? いいと思わないの?」
そう言われると、返す言葉がなくなる。神様さんは少し口を閉じてから、一つ頷いた。
「確かに私、深瀬さんも好きだから、深瀬さんが執事長とうまくいったらいいなって思ってます。でもそれより前からきみかさんが執事長のこと好きなのも知ってます。だから……どっちを応援していいのか分からなくて」
神様さんが困り切った声を響かせる。するときみかさんはそうね、と呟いてからまたストローに口づけた。
「私の恋は完全な片思い。でも深瀬さんは両思いになれるんじゃないかって思ってる。執事長があんな感じで話す人、見たことないもん。やっぱり昔の仕事仲間は強いよ」
彼女は顔つきこそ笑っていたが、それは諦観の入り交じった寂しいものでしかない。やはり数度告白して、その度に振られたのは相当堪えているのだろう。




