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帰ってきた、クヌギのある家

 真上から、強く冷たい風が落ちてきた。

 以前はここでこんなものを感じることはなかったのに。僕は高々とそびえる脇の高級マンションを恨めしげに見つめた。

 一人で行ける。迷うような歳じゃない。

 そうは言ったものの、この変わり果てた街にちょっとばかり困惑する。

 あの公園の隣は確か、田畑だった気がするのだが、綺麗な分譲住宅が建て並ぶ。

 駅前の再開発も随分と進んで、大きなビル群がずらりと並ぶ。先へ進んでも住宅、道路。およそ田舎の雰囲気はなく、ここに以前僕が住んでいたということに疑念をよこすほどだった。

 スマートフォンの地図アプリを使い、目的地へ黙々と進む。進行方向として迷っていないはずなのに、僕の頭脳がついていかない。

 ああ、そうなんだ。

 僕の口から独り言が漏れた。地図に、巨大なマンションを示す色が映った。

 確かに、あれだけの土地はもったいないよな。

 僕は少し笑って、前を向いた。

 綺麗に舗装された道路。時折脇道に見えるコンビニ。十年の歳月が、僕と彼の埋められない事実を突きつけてくる。

 僕の足が止まった。地図で見る分には、ここのはずだ。何軒か家が建つ中、僕は視線を右へ左へ走らせた。

楠儀(くすぎ)

 そんな表札が掲げられた家を、僕はじっと見た。

 最近改築したのがすぐに分かる、汚れていない壁の白色。金属の類も錆などなくて、新築のようだった。

 でも、何となく昔の面影がある。僕は息を少し吐いてから、チャイムを鳴らした。

 誰も出ない。留守だろうか。

 僕はもう一度チャイムを鳴らした。やはり誰も出ない。仕方ないと肩を揺らして、僕はその小さな庭先を塀から見える範囲で覗き見た。

 クヌギの木が、一本茂っている。僕の記憶には、あの場所にあの木はなかった。

 でも、そのクヌギから感じられる柔らかな温かさが、僕をあの自然へ誘ってくれる。

 ここで――僕はまた生活し始めるんだ。

 それを意識すると、そぞろに胸が揺さぶられる。きっと大丈夫、そう信じよう。

 と、扉の端が少し開いた。さっきチャイムを鳴らした時に反応がなかったのは、居留守だったらしい。

 扉の隙間から長い黒髪を覗かせ、少女の目が僕を捉えてきた。

「……どちら様、ですか」

「えっと、君……もしかして」

 僕がそう言うと、向こうは一寸目を丸くした。扉の隙間をより一層狭くして、僕に合わせていた目を隠す。そんな姿がおかしくて、僕は軽く笑った。

右左(うさ)、久しぶり」

「え……えっと……どちら様、ですか」

「君のこと、こんな風に久しぶりって今日言うの、多分僕しかいないと思うよ」

 彼女は何とかとぼけてみせようとするが、そんなのがうまくいくはずもない。そもそもここで一時間二時間稼げたところで、最終的には今日からここで、共に生活するのだ。

「あの……えっと……か、一宏さん(かずひろ)、ですか」

「うん、君の兄の、塚田一宏だよ。久しぶり」

 僕が言うと、彼女はまた扉の隙間を狭くした。とりあえず門の中には入っていいかなと、僕は門を開けて一歩扉に近づいた。

「右左、中に入れてくれないと困るんだけど」

「その、お……一宏さんのことを何と呼べばいいか分からなくて」

「何でもいいよ。とりあえず、引っ越し荷物どうにかしないと」

「……はい」

 僕に諭され、彼女はようやく扉を開いた。うつむきがちな顔は僕の目を捉えようとしない。それでも長い黒髪に透き通るような白い肌は、昔と何ら変わらない。

 いや、それどころか知らない間に随分と大人の女の人になったのだなと思わされる。

 玄関先に、いくつも段ボール箱が積まれていた。昔は彼女と一緒の部屋だったが、今はそうもいかないだろう。

 僕は横にいる彼女へ振り返った。彼女は後ろを向いたまま、僕に顔を合わせようとしない。

 昔と変わらない、引っ込み思案な妹だ。

「僕の部屋、どこかな」

「二階の……突き当たり。戸が開いてるからすぐ分かると思いますけど……」

「分かった」

 僕はそれ以上言わず、段ボール箱を運び始めた。

 新しい生活が始まるのだろうか。それともノスタルジアに侵食され、昔に帰るのか。

 今考えたって何も分からない。

 僕はそっと目を閉じ、美しくなった妹の姿を脳裏に蘇らせていた。



 段ボール箱の中身を出し、箱も折りたたんで片付けが無事に終わる。

 以前は専用の部屋などなかったが、さすがにこの歳にもなると互いのパーソナルスペースが必要らしい。

 教科書を一通り本棚に並べ、軽く頷く。予想通りだが指定されたものがまったく用意できていない。

 明日は購買に行って挨拶巡り、それで終わりそうだ。

 愛して、すれちがって、嫌悪して別れた。

 そのくせに、今更よりを戻す、勝手な大人。

 離婚したのに、もう一度再婚しそうな雰囲気を醸しだし、時折二人で逢瀬している。

 以前ならいい加減にしろよと思っただろうが、今回は少し許せた。しばらく関係が離れていた妹の右左とまた家族になれたからだ。

 以前共に生活していた時の右左も引っ込み思案だった。でも玄関先であったそれは、困るんじゃないかと心配するレベルだ。

 だから僕がここへよこされた。あんな両親であっても、娘の面倒を見られないことには罪悪感を覚えるらしい。

 時計が6時30分を差す。そろそろ夕食時だ。僕は扉を開け、階段へ向かった。

 階段の向かいにある、閉じられた扉。人のぬくもりは感じるけど、何となく寂しい。

 僕は扉をノックした。

「はい」

「右左、夕食は僕が作ろうかなって思うけど、それでいいのかな」

 軽い調子で声をかける。しばらくすると新聞の勧誘を避ける住人のように、わずかな隙間から右左が僕を覗いてきた。

「あの……か、一宏さんは……普段どうしてるんですか」

「料理は得意だよ。父さんがいない時は自分で作るしかなかったし」

「でも、ファミレスとか色々……」

「なるほど、右左はそういう食生活をしてたのか。じゃあこれからは、毎日僕が料理の担当をするね」

 見えるように笑ってみせると、右左は赤面したままうつむいてしまった。

 やっぱり、僕の記憶にある右左だ。よかった。

 頭の中に流れるのは、懐古に彩られたメランコリィ。気持ちが強くないと、火の熱さに負けて炒め物ができない。

 僕はとんとんと額を指で叩きながら、ようやく階段を降りた。


 台所周りのチェックをする。家になかなか帰ってこない母がかつてここに立っていたはずなのだが、部屋の彩りが変わったせいか今ひとつ思い出せない。

 海外へ転勤するから、妹の面倒を見ろ。

 ああ、母親は便利な口を持っているのだと、笑いさえ起きなかった。

 包丁はある。あまり使い込んでないせいか、刃こぼれはないがどこか安っぽい。

 まな板は抗菌のプラ製。でもこれも危険なので、熱湯をかけて一度綺麗に洗おう。

 サラダボウルや皿がまるで手が付けられていないかのごとく綺麗に棚に並んでいる。料理が出来るにこしたことはないが、右左の食生活がさすがに心配になった。栄養の偏りそうな外食ばかりであれほどの美人を保てるのだから、遺伝子というのは怖いものだ。

 冷蔵庫を開ける。ペットボトルの炭酸飲料と紅茶、そんな甘い飲み物やお菓子がぽつんぽつんと置かれている。まともな食材はない。

 行く途中にスーパーを見かけた。変わった街並みを知らなくとも、道順の記憶力は現在進行形で保たれている。

 鍵と財布を手に、僕は玄関へ向かった。相変わらず右左は出てこない。

 行ってきます

 新しい生活で、始めてその言葉をもらした。

 夏も過ぎたこの時期になると、暗くなるのが少しずつ早くなる。気付けばいつもの街並みを暗がりの中歩いていたなんてこともあった。

 そっと空を見上げる。マンションや住宅が増え、街が煌々としている。

 夕闇の中で、小さな星は言葉を失い、強い星がわずかに笑う。

 それでもあの頃見た星空の印象はまだ残っている。料理をする母の記憶がないのに、夜空を見た記憶をしっかり持っているのは、我ながら変なものだ。

 曲がり角を過ぎて、コンビニの前の大きな道を真っ直ぐ行けば巨大なスーパーに行き当たる。昔もあったはずなのだが、僕がこの街を離れている間に背丈を伸ばしていた。七五三でうろちょろしていた子供が、すっかり見ないうちにすらりとした大人の男になっていたのに似ている。

 夕暮れ時で、ちらほらと制服姿の学生が見える。違うものもいくつかあって、あの中に僕と融和するものもあるのかなと、ふとつまらないことを思った。

 スーパーはそれなりにものが揃っている。上階には電化製品もちょっとばかり売っているし、質さえ気にしなければ日常の買い物に困ることはなさそうだ。

 野菜売り場でトマトを手にすると、右左の健康状態が赤色の前で踊り出した。暴飲暴食をするようなタイプではないだろうし、病的な顔色でもない。体の肉付きがやや悪いのは、食生活ではなく持って生まれたものだと推測できる。

 だがやはり、食生活を改めさせた方がよい。食は欠かせない行為だ。僕がついているのにそれが足りないとなると、保護者代理として送り込まれた意味がない。

 トマト、レタス、ツナ缶。カロリーを適度に取らせるためにシーザードレッシングもいる。ああ、そういえば苦手なものとかアレルギーがどうとか聞かなかった。もっとも、アレルギーなら避けて作るし、苦手なものは克服してもらうだけなので、何の問題もない。そうだろうと鮮魚売り場に並ぶ切り身の魚に目で訊ねたが、答えは返ってこなかった。

 結局、サラダと魚で一日目は様子を見ることにした。右左ががつがつ肉にありつく光景はあまり想像できないが、まずは栄養バランスだ。

 ――そういえば、小さい頃の右左はシチューが好きだったな。

 レジで支払いを終え、また来た道を戻っていく。そんなに時間をかけたつもりはなかったのに、夕闇だった街の色は濃い黒に変わっていた。

 右左が好きそうな料理。一体何だろう。

「何だろうね」

 僕の考えに呼応するような言葉が聞こえ、はっと振り返った。家路につく人達の中、僕と同じように立ち止まる影が一つだけあった。

 サイドアップというのだろうか、髪を横に結った僕と似た年齢に見える少女が笑っている。

 僕はレジ袋を握りしめ、彼女の目を捉えた。彼女は目をそらさない。

 じゃあそれでいいか。僕は視線を外し、歩き出そうとした。すると僕の服の端から、抵抗するような逆方向の力が働いた。

「おじさん、ひどいよ」

「いや、君と同い年くらいだからおじさんじゃないし、そもそもおじさんってひどい言い方だよね」

「だって名前分からないし」

「名前が分からなかったら君の中ではおじさんになるの?」

「んーじゃあ、きみかな?」

 彼女のくすりとほころぶ顔が、妙にくすぐったい。往来の真ん中は迷惑だ。僕が道の脇に行くと、彼女は二回ほど小さなステップを踏んで僕の側に来た。

 彼女はビルのコンクリート壁を背もたれにして、何の荷物もない両手を下で組む。

「遅いからちゃんと家に帰った方がいいよ」

 ありきたりでいて、効果抜群の魔法の言葉を発してみる。彼女は予想通り頬を膨らませ僕に突っかかってきた。

「けーさつとかせんせーとかほどーいんみたいなこと言うんだね」

「僕はそういうのに世話になったことがないから、そう言われるなんて知らなかったよ」

「きみ感じ悪い」

 感じが悪いと言われても、元をただせばただ偶然振り返って無視しようとしただけだ。彼女の目的が分からず、僕はただ目を上方へ向かせることしか出来なかった。

「何してたの」

「きみ、私が今日何してたか興味あるの?」

「いや、あんまりないけど。黙ってるよりはましだから」

 軽く受け流すと、また彼女はむくれた。考えてみれば、僕はこの手に握る食材で、再会した妹にまともな食事を与えなければならない。

「きみさあ、私がどんなことしてるとかどんな子とか気にならないわけ?」

「気にならないこともないけど、気にすることでもないから」

「聞くの怖い? 引っ込むタイプ?」

「うーん、そういうわけじゃないけど、なんて言うのが正解かちょっと分からない」

「じゃあ聞いてみようよ?」

 彼女は僕に、己が何者か聞くのを促してくる。前のめり、前のめり。大きな真円が僕の顔を捉え続ける。

 仕方ない。僕はため息を一つこぼして訊ねた。

「君、僕と同い年くらいだけどこんなところでふらふらしてていい人なの?」

「嫌な聞き方だなあ」

「とはいえ、名前を聞くのも変だと思うしね」

「まあそっか。私はね」

「うん」

「私、かみさまだよ」

 彼女の口から「カミサマ」というありきたりな単語が漏れた。僕はそれを反芻して、音が表すものの意味を考えた。

「上って書いてかみさんって読む名前なのかな?」

「ちがーうっ! そんなわけないでしょ。か・み・さ・ま! 偉くて霊験あらたかで拝むと凄くいいことがある、その神様!」

 彼女はつばが飛びそうな勢いで僕に食ってかかった。だが当の僕もそれを額面通り受け止められるわけもない。先ほどの言葉は冗談ではなく、自分なりに真剣に考えた結果なのだが、彼女にとってはそうではないらしい。

「じゃあ神様さん、なんでこんなところをうろいついてるの」

「それはね、それは本当に本っっっ当に深い事情があってね……」

「じゃあ事情はいいや。神様さんは普段はどこで寝泊まりするの。昔から気になってたんだよね。神社とか森の中とか? 一軒家? アパート?」

「って最後の何だーっ! 信用してないだろ!」

 僕はふと上空を見上げた。月の角度が行きより随分と変わっている。

 彼女にかまってやりたい気もするが、右左の食事は重要な案件だ。

 僕の気がそぞろになっていることに彼女も気付いたのか、屈みながら上目遣いで見てきた。

「きみ、戻りたそうだね」

「まあね。君は?」

「お金ないしどうしよっかなって思って」

「僕は変なことには関わり合いにならないよ」

「ひどいなあ、お金ないからってそーいうやばいことに身を落とす気はないよ。ただジュース一本くらいおごってほしかったなってだけ」

 彼女は目元を細め、くすぐったそうに言う。知らない人間にジュースを求める度胸がすごいのか、それとも僕が単にお人好しに見えるのか。

「神様さんはお賽銭でジュース買えるでしょ」

「みんながみんな、賽銭箱付きの社にまつられてるわけないでしょ。でも私、ジュース飲みたかったから、きみにお賽銭代わりにジュースもらおうかなって思って」

 屈託のない笑顔に邪気はない。芝居がかっていない故、どっちの意味で本物なのか判別つきかねる。

 困りあぐねて僕は小首を傾げながら、彼女へお賽銭代わりの提言をした。

「まあ、神様でもあんまり誰彼構わず声をかけるべきじゃないよ。そういうの、今の時代だと危ないと思うし」

「やっぱ信じてない……でもきみ、心配してくれてるの?」

「話しかけられた子が変なこと言い出したら、不安か心配のどっちかしかないけどね」

「変なことってひどいなあ。まあジュースもらえなかったけど、少し話せたから充分かな」

「……寂しかったの?」

「んーとね、寂しいってほどでもないけど、ちょっと喋りたいなって思っただけ。またね」

 彼女は僕の返答を待たずして、小走りで人混みの中に消えていった。

 自らを神様と言ったり、僕にいきなり話しかけたり、何から何まで不思議な少女だ。僕の考えを読んだようにいきなり声をかけたのは、どういった仕掛けなのだろう。それとも本当に彼女は神様なのだろうか。

 そういえば、別れ際にまたねと言っていた。この街中を歩いていれば、またあの少女に突っかかられるのか。

 いやはや、ただの社交辞令。そう捉える方が無難だ。僕は額を人差し指で叩きながら、右左の待つ自宅へとやや早足で帰っていった。


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