「警察」
『警察組織』と呼ばれるものは今の日本には存在していない。
今から約60年前にとある事件が起きた。その事件はあまりにも凄惨で、残酷で、無慈悲で。悲劇的過ぎたその事件は今でも『9646事件』と呼ばれて人々の記憶に色濃く残り続けている。この9646と呼ばれる事件の概要は以下の通り―――。
「日本全国で警察官のべ9646人が武装した状態で無差別に民間人を襲撃。殺害された民間人の数はゆうに万を超え、日本の歴史の中で最悪の事件となった。狂行に及んだ警察官らは『全員』が死亡した。理由は、ほぼ全ての警察官がある程度民間人を襲ったあと自ら命を絶ったからだ。『正常』であった警察官や自衛隊に射殺された者も何人かはいたが、ほとんどは自殺してしまっていたという。この事件の後、警察という組織は解体されることとなった――――」
警察組織は解体され、民間人の平穏を守る存在はいなくなった。日本の治安は悪くなり、民間人が武器を持つことも随分と容易くなった。治安を守ってくれる警察が居なくなったので、人々は自分の命は自分で守るしかなくなったのだ。そのために一家にひとつ拳銃を置いている家も、いまではそう珍しくもない。
しかしそういった「武器の所持」が蔓延していく中で、どうしても避けられないのは「犯罪」だ。拳銃なども持ちやすくなってしまった昨今、犯罪の数は激増した。犯罪を犯しても、よほど罪の重い犯罪でなければ犯人は誰にも咎められない(咎める者がいないのだから当たり前と言えば当たり前だが)。大量殺人のような犯罪を犯した者は警察の代わりのようなある組織によって罰せられるが、それはあくまで重犯罪の場合のみ。ちっぽけな盗みや人殺しなんかはソレらの管轄ではない。
そんな犯罪大国となってしまった日本を嘆いた少年が居た。少年は正義感が強く、目の前で起こる犯罪を見過ごすことができない性格だった。どんな小さなことであろうと、自分に関係のないことだろうと、犯罪に対して真っ向から立ち向かい続けていた。少年は犯罪が大嫌いだった。幼いころから、犯罪を憎み犯罪を憂い犯罪を嘆いていた少年は、いつからか自分のとっている行動がかつての「警察官」のようだと感じ始めていった。自分が行っている『善』は、誇り高き警察官のソレなのだと認識し、そしていつしか少年は自ら『警察官』と名乗るようになった。
少年の名は―――――黒太刀良太。
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「――――コーヒーのおかわり頂けますか」
4杯目のブラックコーヒーを飲み干して黒太刀は言った。
「あぁ、よろこんで」
カップを受け取り、微笑を浮かべながら笠木蛇は5杯目のコーヒーをカップに注ぐ。こぽこぽと音を立てながら真っ黒に染まったコーヒーがカップを満たす。
カウンター席で頬杖をついている黒太刀は、その様子を興味なさげな眼差しで見ている。
「まったく……いつまで居座るのよ、うっとおしい……」
店の隅でぶつぶつと愚痴をこぼす凛音。彼女の愚痴をこぼさず聴いているのはその隣で苦笑いを浮かべている獏だ。
「ま、まぁまぁ……」
「あんだけ人に対して罵詈雑言を吐いといて、なに平然と客としてコーヒー啜ってるのよ! わたしは今ものすごく立腹してるわ!」
声を大きくはしていないが、言葉に怒りを込めて言い続ける凛音。本人は陰口のような気で言っているが、その抑えきれていない言葉は黒太刀はもちろん笠木蛇の耳にまでしっかり
と届いていた。しかし黒太刀はその言葉に耳を傾けてはいなかった。
「はい、コーヒーどうぞ」
「あぁ、ありがとうございます」
何食わぬ顔で、渡された5杯目のコーヒーに口をつける。まだ淹れたてで熱いはずのコーヒーをごくごくと3口ほど飲み込んだのち、つぶやきにも似た声量で喋りだした。
「どうせあのクソ探偵の耳にも届いているとは思いますが、町に現れる異常者についてはご存知ですか」
「ああ、『噂』になってるくらいだからね。私も知っているよ」
「このごろ町に現れている妖異は以前と違って、僕たちと同じように人間として振る舞い姿も人間そのままです。それに『妖異』にしては『力の種類』があまりにも違いすぎる。ずっと前に獏に憑りついていた『夢杭』や、笠木蛇さんに憑りついていた『殺女』とは打って変わって、はっきりとした形で力を現しています」
「……人間の精神に影響を及ぼす妖異ではなく、人間に対して物理的に影響を及ぼすということだろう?」
「その通りです」
黒太刀はカウンターに置いてあった角砂糖の入った瓶の蓋を外し、中から角砂糖を1つ取り出した。その角砂糖をコーヒーの中に入れて、備え付けのスプーンでコーヒーをかき混ぜる。
「以前の妖異は、こんな風に人間の精神の中に入り込み何らかの影響を与えてくるような存在でした。言ってしまえば、日本の昔ばなしに出てくるような妖怪のたぐいと何ら変わりのない存在……実体もないような奴らで、これといった意思も持たずただ自らの本能に従っているような行動が目立っていた。だがしかし、最近現れる妖異はこんなタイプではない」
スプーンを置き、角砂糖が溶けて混ざったコーヒーを黒太刀は一口で飲み干した。
「こんな風に、人間そのものに物理的に影響を与えてくる……『確固たるそれぞれの意志を持って』命を奪ってくるような妖異が明らかに増えてきている。部屋の中でぶんぶんと飛び回っている蚊を何となく殺すのではなく、山に住んでいる熊や鹿を殺す『猟師』のように確実な『意思』を持っているんだ……もう単純に妖異と呼ぶのでは物足りないかもしれない、これからは『敵』とみなして接した方がいいかもしれません」
「……たしかに、凛音ちゃんなんかはいい例だね。彼女は『何物をも溶かす左手』を持っている。彼女自身に殺意のようなものは無いが、彼女の持つ力は紛れもなく『意思を持つ妖異』のソレに違いない。こういった妖異の情報を集めるために、恵裏数ちゃんはいま鷺宮くんのところへ行っているよ」
「あの情報屋のところですか、それなら何かしら得られるものはありそうですね……だが問題は」
「その『意思を持つ妖異』があまりにも増えすぎている……ということだろう?」
「……その通りです」
黒太刀の飲み干したカップを回収して、笠木蛇は眉間にしわを寄せる。
「どう考えても、パスカルが実現させている噂の範疇とは思えません。誰かが意図的にパスカルを利用しているとしか考えられないんです」
「だが一体何のために? ……と聞くのは愚問といったところかな」
「はい、『目的』はたしかに不明瞭ですが『誰』というのはわかりきっています」
「……『巨大な眼』か」
洗い終わったカップを食器棚に戻し、笠木蛇は目を伏せて言った。その声はとても悲壮感を孕んだ声で、それでいてわずかな怒りも混じった声だった。
「いまこの町で起こっていることの大半は、『奴ら』がパスカルを利用して引き起こしているものに他なりません。2年前からずっと、僕たちのことを虚仮にするかのように……」
「……『意思を持つ妖異』を増やして、『彼ら』は何をするつもりなんだろうね」
黒太刀の歯がぎり、と音を立てて軋む。自分が何もできないのが悔しくて、やり場のない怒りを持て余している黒太刀は拳を握りしめ、ただ葛藤する。いま自分ができることはなんなのか、いま自分がすべきことはなんなのか。彼がその答えを出すのは約数十分後、9杯目のコーヒーを飲み干したあとのことだ。彼は自分がすべきことを見出すためひとり、天樛恵裏数のもとへと向かった。