非日常と日常と壊日常
縷々ヶ瑠璃凛音が嬉喜鬼蟻探偵事務所を訪ねてから約9時間後―――。町の外れにある人気のなくなった公園で、二人の男女が話をしていた。
「……大方、話は理解したカ?」
「ある程度はな、イマイチ話そのものに信憑性がないが」
時刻は22時45分。空には雲が蔓延って月や星の光をさえぎっており、近くに民家もないためあたりは真っ暗闇。公園に設置されている街灯だけが、薄汚れた半透明のカバーを通してうす暗く公園内を照らしていた。この時間ともなると、公園の近くに足を運ぶ人もおらず、辺りはまるで夜の暗闇にすべての音声が飲み込まれているかのように静寂が広がっていた。
「信憑性も何もない、お前が信じればいいだけダ」
「まぁ疑いはしないさ、疑う余地なんてドコにもない」
男はまだ幼さが残っている顔立ちをしており、体つきや服装から判断するにまだ高校生くらいの年齢だろう。男は学校指定のモノと思われるカッターシャツを着ており、ズボンもチェックの柄が入ったモノを着用している。一方、女の方は少女というにはあまりにも不釣り合いな冷ややかな目つきをしており、さらに見ただけで口を開きっぱなしにしてしまうくらいに、大きな胸をしていた。女は暗闇に溶け込むような色のスーツを着ており、彼女の顔の白さがより引き立っていた。端正な顔立ち、長いまつ毛、切れ長で目じりの上がった瞳、高い鼻、一文字に締められた口許、艶のある髪の毛。彼女は、女性が好んで読むようなファッション雑誌のに載っているどんなモデルよりも綺麗な女性だった。
「じゃあ私の話以上、また用がある時に会いに行ク」
「ああ待ってくれ、アンタの名前をもう一回聞かせてくれないか? 人の名前を覚えるのがどうも苦手でね」
「……二度も同じことを言うの、無駄。一度でいいのだから一度で済ませロ」
「悪かったよ……次でバッチリ覚えるからさ」
「……リャオ・リンだ、三度目言わせるなヨ」
「オーケー、リャオだな、覚えた……俺の名前も念のためもう一度言っといた方がいいか?」
「私、一度で済ませれる。お前の名前特殊だから覚えやすイ」
「そーですか、じゃあまた今度会おう、リャオ」
「……それじゃあまたナ、上方慚愧」
リャオと呼ばれた女は上方に背を向け、音を立てることなくつま先で軽く跳躍し闇の中に消えてく。地面を蹴る音も跳躍した時の風の揺らぎも無かったので、まるで最初からそこに誰もいなかったかのようだった。
「……噂が現実になる、ねぇ」
「オレが夜の殺人鬼なんて呼ばれてるとは、驚きだな」
上方はため息をつきながら、右手に握った刃渡り20センチの包丁を街灯の明かりに照らしてみる。血でデコレーションされたその包丁は、街灯のうす暗い明かりに鈍く赤色に光を反射させていた。
「この町を『ひっくり返す』……さっきの奴が言っていたことも面白そうだし、協力してやるとするか……えーっと」
「あれ、さっきの奴なんて名前だっけ? ……りゃ、りゃ。リャン? リョン? ……まぁいいか」
右手に握った包丁を空に掲げて、空中を斬りつけるように腕を振る。ひゅんと風を切る音と同時に、空を覆っていた灰色の雲がまるでエレベーターの扉が開くかのように二つに分かれていった。雲が二つに分かれ隠れていた月が顔を出し、薄黄色の光が上方の瞳に映りこむ。
「今日は満月か……いや、今日『も』満月、明日も満月、その次の日もそのまた次の日も満月」
「死ぬにはいい月だ」
縷々ヶ瑠璃凛音という依頼者の悩みを恵裏数が解決した後、恵裏数を取り巻く環境はまたガラリと覆る。2年前より静かに、時計の針が進むのよりもずっと遅く、しかしそれでいてメトロノームのリズムのように正確な間隔で進行していた悪夢がいま、彼女たちを魘そうと牙を剥きながら近づいてきていた。
パスカルという力が魅せる悪夢。それは妖異という怪奇的存在の起こす怪奇的現象のことであるが、人為的に起こされる猟奇的現象も悪夢の一部に含まれている。そう、もうすでに恵裏数たちの住む四良津町の日常は壊れていっていたのだ。
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カランカランと、店の扉に取り付けられた二つの鈴が音を鳴らす。それはつまりお客さんが来たことを知らせる合図で、わたしはテーブルをふく右手を止めた。
「い、いらっしゃいませ」
緊張して声がうわずってしまった。無意識に身体に力がこもるのがはっきりとわかり、それを意識してしまってさらに表情までもこわばってしまう。
「どうもです」
「ってなによ、恵裏数じゃない」
店にやってきた客が恵裏数だとわかると、自然と身体の力が抜けて表情も安堵で緩んだ。恵裏数いつも着ているあの真っ白な白衣みたいな服を着て、いつもと変わらない眠たそうな細い目をこちらに向けてきている。
「いらっしゃい恵裏数ちゃん」
カウンターでコーヒー豆を挽いていた笠木蛇さんが笑顔で話しかける。そのあとに追いかけるように獏が大きな声で「こんにちは!」と言う。店に響くくらいの元気な声だったのだけど、店内を見回してもお客なんて一人も居ないからそれを咎めることは誰もしなかった。実際今日はこれがはじめての来客だ。昼前まで客が一人も来ないのは正直言って、店の経営状況が心配になってくる。
「はい、お水」
右手だけで手早くコップに水を注ぎ、カウンター席に座った恵裏数に差し出す。
「どうも」
ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら恵裏数はわたしが出した水を勢いよく飲んでいく。あっという間にコップの中の水を飲み切って、そのままおかわりと言わんばかりにコップを突き返してきた。
「なによ、口で言わないとわかんないわよ」
「美味しかったです、ごちそうさま」
「なっ…!」
真顔で恵裏数に感謝される。いっつも不愛想にしているのに、急に素直になられると困る。自分ではわからないけど、きっと今のわたしのほっぺたは少しだけ赤みがかっているに違いない。
「あー、凛音さんが照れてる」
隣にいた獏にさえからかわれてしまった。笠木蛇さんも私の方をみていつもの優しい笑顔を浮かべている。だめだ、さらに顔が赤くなった気がする。
「も、もうっ! からかわないでよっ!」
恵裏数にわたしの力のことを相談しに行ったあの日から、今日でちょうど2週間が経つ。わたしは笠木蛇さんの提案で、彼が経営している喫茶店『今人』で働かせてもらうことになった。もともと行く当てがなかった私にとっては嬉しい提案だったし、それだけじゃなく住むところも提供してくれた。場所自体の提供をしてくれたのは恵裏数で、この雑居ビルの地下一階の部屋を私に明け渡してくれた。以前までは誰かが住んでいたという話で、家具もある程度はそろっていたので生活するのに不自由はしないだろうと言われ、遠慮なく使わせてもらっている。
けれどただで衣食住を提供されるのも申し訳なかったから、わたしは自分から笠木蛇さんに店を手伝わせてほしいと頼み込んだ。人手は足りてるんだけどね、と言いつつも笠木蛇さんは快くわたしの要望にこたえてくれた。だからこうして現在、今人でエプロンを着け働かせてもらっているのだ。
「それはそうと」
少しだけ口角を上げて微笑んでいた恵裏数が笠木蛇さんに言った。
「笠木蛇さん、今日は『情報屋』のところへ出かけてきますので事務所の方にお客が来たら適当に対処しておいてください」
「ああ、わかったよ」
「……情報屋?」
聞きなれない言葉に思わず口が反芻していた。
「探偵たるもの、いろいろな情報を手に入れなければなりません。そういった情報を今から買いに行くんですよ」
「あぁなるほどね……そういやアンタ『探偵』だったわね」
ときたま彼女が『探偵』という職業であることを忘れかける。探偵なんて具体的な仕事内容はわからないし、彼女が探偵らしい仕事をしているところを見たこともない。
「それじゃあ行ってきます、留守は任せました」
そう言うと恵裏数は足早に店から出ていってしまった。急いでいるのだろうか、なんだか慌てていたような気もする。
「久しぶりですね、恵裏数さんが鷺宮さんのところに行くのって」
「そうだね、最近は鷺宮くんも忙しかったみたいだし」
「……その鷺宮って人が、情報屋なの?」
「ああ、彼女がいつも頼りにしているこの町の情報屋でね。『鷺宮空十』って名前なんだけど」
「ふーん……探偵なんて仕事も珍しいけど、情報屋なんて実在するのね。てっきりドラマとかの創作内だけに存在してる仕事だと思ってたわ」
恵裏数が飲んだ後のコップにもう一度水を注いで、自分で飲みながら思った。恵裏数がやっている探偵って仕事はとても胡散臭いなぁと。さっきも言ったみたいに、探偵なんて職業は現実に存在していることすら怪しく、小説や映画の中だけの架空の職業と思えるくらいだ。探偵にくる仕事と言えば人探しとかばっかりで、漫画の探偵なんかはもっぱら殺人事件なんかも解決していってるけど、現実にそんな探偵なんて存在するはずがない。笠木蛇さんが言った「情報屋」という職業もまたしかりだ。
情報屋なんて普段暮していて名前すら聞かないような職業、名前からして想像はできるけどあくまで想像できるというだけだし。できればどんな人がそんな仕事をしているのかこの目で見てみたいものだ。
からんからんと、店のドアがまた開かれた。
「お邪魔します」
入ってきたのは真っ黒に染まった服を身にまとった、真っ黒な髪の男の子。歳は私と同じくらいだろうか、10代には違いないが、20代というには顔が幼すぎる印象を受ける。
「いらっしゃい良太くん、今日は一人かい」
「えぇ、黝は別の仕事の最中なので」
話し方はそれこそ敬語だが、彼の言葉はひとつひとつに棘を感じる。まるで腹の中では敬意の欠片も持ち合わせていないような話し方。
「……あっ!思い出したわ、アンタ前にここに来てた客ね」
以前、わたしがここへ訪れた時に一緒に店内にいた男の子だということに少し遅れて気づく。
「なんだ、この間の『妖異』の女か」
「ちょっと、なによその刺々しい言い方」
「あまり気安く僕に話しかけるなよ、僕は妖異が嫌いなんだ、同じ空間にいるだけでゲロ吐きそうなくらいにね」
「わたしと居るとゲロ吐きそうですってぇ!?」
「ああつまりはそういうことだ、だからせめて黙っていてくれないか。ゲロ吐きそうだから」
「さっきから失礼な奴ね! いきなり人に向かってむちゃくちゃ言ってくれちゃって! アンタ一体なんなのよ!」
わたしが大声で怒鳴ると、彼はあきれたようにため息をついた。
「僕の名前は黒太刀良太、市民の安全を考え、平和を乱す輩を糺す」
「警察だ」