左手とこれから
時刻は現在、午後16時31分59秒。恵裏数が事務所のソファで眠りについてから約3時間ほどが経過していた。事務所で目を覚ました恵裏数は依頼人を獏一人に任せてしまったことを今更ながら不安に思い、寝起きでまだはっきりしない頭脳を引きずって足早に一階の今人へと向かっていった。階段を下りる途中で寝ぼけて転びそうになったが、なんとかバランスを持ち直して転落には至らなかった。
「やっぱり、手すり付ける工事をしてもらうべきでしょうか……」
手すりの取り付けられていない壁に手をつき、ため息交じりにそんなことを一人つぶやきながらも気を取り直して階段を下りきり、今人の扉を開けて中に入っていく。
店の中に入った恵裏数の目に飛び込んできたのは、痛々しいくらいに異様な光景だった。ドアを開けたときに店の外まで水があふれてくるほど床は水浸しになっており、そして店の中では左腕を後ろ手に縛られた少女とその少女を取り囲むようにして息を荒げている見知った顔。
「こ、これでいいんじゃないですかね……」
「ず、ずいぶん食器を無駄にしてしまったけど……なんとかなったみたいだね」
店内に溢れている水たまりは、恐らく凛音の力で生まれたものだろうと恵裏数は思った。バケツか何かから水を零したというのであれば壁やテーブルなども濡れているはずだが、店に置いてある家具や壁には水滴一つすらついておらず、不自然に彼女らの足元だけが水たまりになっているのだから。
「……なにをしていたんですか一体」
「お、おや起きてきたのかい恵裏数ちゃん……実はいままで、凛音ちゃんの力をどうにか制御できないか試しててね……」
「い、一体どれだけの食器が犠牲になったことか……」
笠木蛇と獏は遠い目をしながら着ている服の端を両手で握って、服にしみ込んだ水分を絞り出した。その格好のままでプールにでも飛び込んだのかと疑いたくなるくらいに彼らの衣服からは大量の水がしみだしてきていた。
「……とにかく、この水をどうにかしてください」
数十分後、約30枚の雑巾と4つのバケツを用いて店内の水たまりは処理された。笠木蛇は処理中、店がきれいになって良い。などと言っていたが実際フローリングに水がしみこんだりしていて、少し問題があるのではないか心配なくらいである。
「で、凛音さんの力を抑えることは結局出来ずじまい。苦肉の策でせめて左手の力が発動しないように対処した、と……」
四人は店内のテーブル席で座って話を進めていた。テーブルの上には笠木蛇が淹れたコーヒーが四つ、湯気をたたせながら香ばしい香りをただよわせている。
笠木蛇と獏はどこかの誰かさんが爆睡している間、凛音の力をどうにかできないか試行錯誤していた。左手のどのあたりまでモノが触れたらいけないのか、目を隠しながら少しだけモノに触れてしまっても力は発動するのか、左手の甲に当たるだけならモノは水にならないのか……。色々と試してはみたが結果、左手首から指先にかけてまでが力の及ぶ範囲であり、目隠しをしていてもモノは溶け、左手の甲に触れたモノもまた、水と化していった。
「左手を後ろ手に縛っておいたら、モノに触ることも少なくなるのではないかと思ってね。なかなかいい対策だろう?」
「……もし彼女が満員電車にでも乗ってみてください、電車が揺れるたびに彼女の背中はびしょ濡れになりますよ」
冷静に状況分析して告げる恵裏数の言葉は、考えに考えて対策案を練った二人にとってはとても重く響くものだった。
「そんなことをするよりも、もっと簡単な方法があるでしょうに」
「な、なんなんですか簡単な方法って」
頭をもたげながら獏がたずねる。
「凛音さん、左手の縄をほどきますからその手で自分の胸を触ってみてください」
「え? え、えぇ……」
その行為の意味するものを理解しかね、縄をほどいてもらうあいだ凛音は眉毛を「は」の字に曲げていた。そして恵裏数が縄をほどききると、凛音は言われた通りに自分のたわわな胸に左手をあてがうように触れる。
「……で、なんなのよ」
「気づきませんか? 『左手で触れているのに』何も起きませんよ?」
「――あっ!」
恵裏数の一言で、三人はひどく吃驚した。たしかに凛音の左手で触れているにも関わらず、彼女の服、しいては彼女自身が水のように溶けることはない。彼女の左手に触れたモノは例外なくすべて溶けてしまうはずなのだが、どうやら彼女自身にその力は作用しないようなのだ。
「詳しくはわかりませんが……貴女の力は貴女自身に作用しないのですから、その左手はポケットにでも突っ込んでおけばいいと思いますよ」
「えぇ……わかったわ」
凛音は左手を穿いていたジーンズのポケットに突っ込む。やはり力は作用することなく、触れているのにジーンズは溶けない。
「まさかこんな簡単なことにも気づかないなんてね……我ながら馬鹿だったわ」
「いや、すまないね凛音ちゃん…無理に腕を縛ったりしてしまって」
「いいのよ、私のためにしてくれたことなんだしむしろありがたかったわ、一生懸命になってくれて」
「ははは……そう言ってくれると助かるよ。コーヒーのおかわりを持ってくるから待っててね」
「あ、笠木蛇さん、私にもお願いしますー!」
「はいはい、恵裏数ちゃんは……」
「私はまだ飲み切っていないので、大丈夫です」
「そうか、なら二人分だけだね」
笠木蛇はカウンターへと入っていき、コーヒー豆を挽く準備をしだした。
「はぁ……それにしても、これからどうしようかしら」
「心配ですよね、これからどうやって生活していくか」
「ええ、こうやっている限りは左手が他のモノに触れることもないでしょうし、今までみたいに怖がって街中を歩くことはないだろうけど……住むところとか、知り合いとか、一人もいないし……」
「おや、心外ですね凛音さん。知り合いならここに三人もいるじゃないですか」
「えっ」
「そうですよ! 私と恵裏数さん、それに笠木蛇さんも! もう凛音さんとお知り合いですよ、お知り合い!」
テーブルに身を乗り出して主張する獏。凛音と彼女たちが過ごした時間は先ほどまでの数時間の間であるが、類は友を呼ぶというかなんというか、同じ『妖異』の話で通じ合えるためか彼女たちはウマが合う。
獏や笠木蛇は実際に、何年か前に妖異の被害を受けたことがある。妖異の影響を受けて困っているときに、声をかけてくれたのはほかでもない恵裏数だ。みんな彼女に感謝して生きている。凛音もこの数時間ですっかりと、天樛恵裏数という女性の『理屈無き魅力』に惹かれてしまっていた。
「獏……それに恵裏数も……ありがと」
凛音は前髪を右手でいじりながら、照れくさそうにほほ笑む。もう彼女の表情には不安や恐怖といった感情は映っておらず、いま彼女が浮かべている微笑は正真正銘、安心と喜びの感情をありありと示していた。