縷々ヶ瑠璃凛音
生まれてから三日の間に、わたしは13人の人間と3匹の猫を殺した。
死体や死骸は残らなかった。滅んだ肉体や、魂の抜け殻となったそれらの残骸はぜんぶ、ぜんぶ水のように溶けていってしまったから。わたしに殺された人や猫たちは、自分が死んだという感覚を持たずして殺されていったに違いない。痛みとか、苦しみとかそういうものが一切なく、一瞬にしてその人のすべてが失われていったのだ。それらの命に『死んだ』なんて言葉は使いたくない。死んだというのは他人事だ、自分が関わらずにその人がその人の人生を終えることを死んだというのは、ただの他人事でしかない。わたしは、13人の人と3匹の猫に死んだという表現は使えない。わたしが殺したのだから、殺されたと言うべきなんだ。あの人たちは、あの猫たちはわたしという化け物に殺された。一瞬のうちにすべてをわたしに奪われた。わたしの忌々しく禍々しい力のせいで。
わたしの左手は、触れたものをそれが一体なんであろうと水のように溶かしてしまう。モノであろうと人であろうと、関係なく一瞬のうちに形を崩し、水のように流れ落ちる。最初はあまりの『出来事』に、思わずその場で嘔吐した。だって、目の前で人間が水になってしまえば、誰だって理解できなくて混乱するにきまってる。眼前の凄惨な光景が自分の力のせいだと気づくのは、たしか7人目の人間を殺した時だった。目の前で人間が水になるのはいつも、わたしが対象に触れている時だと気づいた。その時やっと、自分の左手は人を殺す凶器だと認識できた。それからは、出来るだけ左手でモノに触らないようにしてきた。だけど手なんてちょっとした動作でなにかに触れてしまうものだ、振り向いたとき、かがんだとき、人にぶつかったとき。自分で気を付けていても、どうにもならなかった。自分で左手を切り落とそうとも考えたけれど、包丁の刃が手首に少し食い込んだところで自分の左手が無くなるイメージが頭の中で飽和して怖くなって、とても自分で切り落とすなんて出来なかった。そうやって誰とも関われなくて途方に暮れているときにある人に出会い、嬉喜鬼蟻探偵事務所を紹介された。藁にも縋る思いで、わたしは事務所を訪ねた。
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「左手で触れたものを水のように溶かしてしまう力、ですか」
凛音の力によって液体となったぬいぐるみを恵裏数はじっと見つめ、凛音の語った『力』について考えていた。今までにこういった特殊な力を持っている『依頼者』の対応は何度もしてきた恵裏数だからこそ目の前で起きた出来事を冷静に分析できているが、異常な力に変わりはない。恵裏数がいま何を思い、自分の事をどう思っているのかと内心びくびくしながら、凛音は申し訳なさそうにうつむいて自分の左手首を右手で握りしめている。
「……こんな力、やっぱりどうにもできないわよね」
自嘲気味に自らをせせら笑う凛音。
「たしかに、私ではあなたの力をどうこうすることはできませんね」
特に躊躇もなく、恵裏数は即座に答えた。
「……そうよね、わたしみたいな化け物なんて、どうせ…」
「化け物じゃないです!」
黙って話を聞いていた白髪の獏が急に声を大にして言った。
「え……?」
「凛音さんは、化け物なんかじゃないですよ!」
獏は少し潤んだ目をしながら続ける。
「凛音さんは、妖異っていう特殊な人なんです! 自分の事を化け物なんて言っちゃダメです!」
咄嗟に言い寄られたので呆気にとられていた凛音。彼女の頭が理解に追いついていないようなので、恵裏数はあらためて、一から話を進めることにした。
「凛音さん、あなたは『妖異』というモノがどんな存在かご存知ですか?」
「……言葉を聞いただけで、詳しくは知らないわ」
まずは凛音の正体でもある、妖異という言葉の説明から入る。
「妖異と呼ばれる者がこの町には存在します。妖異とはその名の通り、人間とは異なる妖しい力を備えた者を指すんです。凛音さんの力がいい例ですが、あなたは左手で触れたものを水のように溶かす力を持っている、それが妖異であるという証拠です」
「も、もしかして……わたしみたいな人が、他にも居るっていうの?」
「その通りです。この町は特殊でして、妖異と呼ばれる者が多く存在しています。実際私の知り合いにも妖異の方は何人もいますよ」
恵裏数の言葉を聞いて、少し安堵したような表情を見せる凛音。自分だけが特殊な力を持ち、自分だけが他の人と違う。そんな絶望的状況ではないということがわかっただけでも、彼女にとってはありがたい事実であった。
実際、恵裏数達が住む町『四良津町』には妖異がたくさん住んでいる。人の生活にうまく溶け込み、人とは違う力を持っていることを感じさせない立ち振る舞いでごく普通に暮らしているのだ。
「……そもそも妖異とは、この町だからこそ生まれてしまった存在なんです」
「この町だからって……どういうことよ?」
「この町では『噂』が『実現』してしまうんですよ、たとえそれがどんな噂でもね」
凛音は黙って話を聞き続ける。
「噂が実現してしまう……この話自体は、あまり町の人々に知られていません。ですが、私のようにこの町に存在するその特殊なルールのようなものに気付いている人も、少なからず存在しています。その中で町の特殊ルールを悪用する輩が居て、この町は随分と歪んでしまいました」
「ちょ、ちょっと待ってよ……もしかして、わたしはその『噂』から生まれたってことなの!?」
「察しがよくて助かります」
凛音は開いた口をふさげることができなかった。自分の存在がどういったものなのかを知らされたまではいいが、自分が母親の身体から生まれ出たのではなく、根も葉もない噂から生まれたという事実が信じられなくてしょうがなかった。
「うそでしょ……そ、そもそも一体どういう噂よ! 左手で触ったモノを水みたいにしちゃう女の子が居るなんて噂が出回ってるのこの町では!?」
「いいえ、噂として出回っているのはあくまで『妖異』という存在についてです。人間とは違った特殊能力を持った者が存在する……そういう噂が流れている所為で、あなたのような方が生まれてきてしまうのです」
「信じられない……わたしが、噂から生まれたなんて……」
「まぁそういうわけですから、あまり絶望しなくていいと思いますよ。べつに変な力を持っているのはあなただけではないんですし」
恵裏数は話し終えると大きなあくびをして、眠たそうに瞼を手でこすった。
「獏、私まだ眠いので寝ます」
「えぇ!? そんな、凛音さんはどうするんですか!?」
「あなたに任せます、それではおやすみなさい」
そう言うと恵裏数はソファに横たわり、瞼を閉じてすやすやと寝息を立てはじめた。事務所を訪れた客を前にして眠るのはどうなのか、と獏は頭を掻いた。
「え、えっとぉ~……とりあえず、下に戻って話しましょっか」
ソファで気持ちよさそうに眠りについた恵裏数を後目にして、二人は喫茶店へと移動していった。喫茶店に着くまでの間、凛音は恵裏数の態度に少し機嫌を悪くしたようで、ずっと愚痴のように不満を零していた。
「なによあの態度! なんだか腹が立ってきたわ……」
「ま、まぁまぁ……」
凛音と出会ってからまだ数十分。短い間だが、獏は彼女の変化に気づいていた。最初に会って話をした時よりも、彼女は感情をあらわにして話をしてくれている。それは、すこしではあるが彼女が抱えている不安を取り除けたからであろう。凛音が抱えていた不安は、「自分一人だけが化け物である」という恐怖であったがため、妖異という存在についての説明を聞くことによってその不安を解消できたのだ。恵裏数も依頼人の不安を取り除くことができたからこそ、もう仕事は終わったと言わんばかりに眠りについたのであろう。獏はそう思った。
「ただいまですー」
喫茶店の扉を開けるとからんからんと心地の良い音で鈴が鳴る。中に入ると先ほどまでテーブル席に座っていた赤髪の双子と黒髪の男女はもうすでにいなくなっていた。
「あれ笠木蛇さん、みんなもう行っちゃったんですか?」
店の中に残っていたのは、カウンターで客に出した食器を洗っている店長の笠木蛇のみ。二人は笠木蛇の前に来るようにカウンター席に座った。
「あぁ、七ちゃんたちはデートの続きをするらしくて、良太くんたちは用事があるって言って早々に行ってしまったよ」
「残念だなぁ、もう少し七ちゃんたちと話したかったのに……あ、コーヒーお願いできます?」
「あぁ今淹れるよ、そちらのお嬢さん……たしか凛音ちゃんだったかな、君ももう一杯どうだい?」
「……じゃあ、私も」
笠木蛇がコーヒー豆を挽いている間、凛音は自分の左手があやまって何かに触れてしまわないようにずっと胸に両手を当てていた。彼女の表情からはやはり恐怖に似た危機感のような感情が見てうかがえる。もし万が一この左手が物ではなく隣に座っている少女や、目の前の喫茶店の店長に触れてしまったら、「それら」は有無を言わさず水になる。これまでに何度も経験してきた凛音だからこそ、誰よりも自分の左手を怖がっているように見える―――。獏はそう感じていた。
「ねぇ、凛音さん」
「ん? なによ」
凛音はあくまで自分で感じている恐怖を表に出さないようにしていた。それは彼女のプライドの問題なのか、話しかけられても不機嫌そうに返事をするだけで、彼女がいまとてつもなく怖い思いをしているとは一見気がつかない。
「そのぉ……あんまり、気にすることないと思いますよ」
「……そりゃ、わたしだってもう自分が妖異ってことはそんなに気にしてないわよ。実際わたしみたいな異常な奴は他にも居るみたいだし?……だけどさ、わたしの『力』は危険すぎんのよ。なんであろうとちょっとでも触れちゃえば水みたいに溶けて……気にするとかしないとか、そういう問題じゃないのよ」
「そ、そうです…よね」
「おまたせ」
カウンターにカップが二つ置かれる。中に入っている特製のブレンドコーヒーはとても香ばしい香りをはなっており、まだ飲んでいないのに鼻孔から香りが侵入し胃の中にコーヒーの味が広がるような感覚に二人はおちいる。
「ほんとに、いい香りね」
凛音の表情が少しやわらぐ。コーヒーの香りは人の心を安らがせる効果があるというが、それはあながち間違いではない。コーヒーに含まれるカフェインは依存性が少なくなく、飲むたびに安心感が増幅していきあまり飲み続けると依存症になってしまい身体に害を及ぼしてしまう。だが飲みすぎないように気をつければ、コーヒーというモノは一種の精神安定剤の代わりを務めるのだ。
「コーヒーはいいものだよ、人を安心させてくれる」
美味しそうに、しかし熱いのでゆっくりゆっくりとコーヒーをすする二人を見て笠木蛇は嬉しそうにそう言う。
優しく笑う笠木蛇と、隣で微笑んでいる獏を見て、凛音は小さい声でおずおずとたずねた。
「……なんで、平気なの?」
「え?」
急にそう聞かれた二人は同時に声をだし、お互いに顔を見合わせる。
「だって、わたしの左手に触れちゃったら、あなたたち溶けちゃうのよっ? あとかたもなく、死んじゃうのよっ? なのにどうして……どうしてっ、平気で笑って話してくれるの?」
震えた声で、小さな体を震わせながら、凛音は言った。この時点で、縷々ヶ瑠璃凛音という少女の『脆さ』が、二人には十分に伝わっていた。かたくなにプライドを崩すまいと周りには強気な態度で接しようと努力しているが、心のなかではずっと自分の恐怖心と戦っている。そうやって心の中と心の外で違う態度をとっているがため、彼女の心はひどく『脆い』。ときたま、こうやって自分の心の中に負けてしまい、彼女の弱さが露呈する。凛音の心は不安定なのだ。内側と外側から別々のアプローチを受け、窮屈そうに心は委縮し、いずれは心が保てなくなってしまうだろう。そうなってしまえば、彼女がとる行動は一つしかなくなる。心で起きる地震に耐えきれず、誰の助けも借りることができず自らの命を絶つ―――。
凛音は、それほどまでに脆い女の子なのだ。
「私も獏も、これまでに妖異の被害にあったことがある」
拭いていた食器を置いて、笠木蛇が話し出す。
「言ってしまえば、私たちは妖異というものに慣れてしまっているんだよ。君みたいに私や獏は妖異そのものではないが、だからといって君を蔑ろにしたり、忌んだりしないさ。心配しなくていいよ」
「あ……」
笠木蛇はカウンター越しに凛音の頭を撫でた。優しい笑みを浮かべて、慈しむかのように優しく、髪の毛を手のひらでなぞるように撫でた。獏も凛音の顔を見て微笑みを浮かべている。
二人は凛音を受け入れた。言葉にして理解させるのではなく、行動で示した。君は悪くない、君を拒絶しないと、頭を撫でる笠木蛇の手はそう語っていた。頭を撫でる手が往復するたびに凛音の心の圧力は解消されていき、彼女は緩んだ表情で頬を赤くしてうつむき、そして……溶け入りそうな碧い瞳から、大粒の涙を零した。