女子高生と情報屋③
お待たせしました。続きです。
まさかもう一度、この目が開くとは思わなかった。
横たわっていた囲炉裏麻霞は目を覚ました時にそう思った。瞼を動かしてから、次に右手を意識して動かしてみた。しっかりと動く。親指から小指まで順に折っていき、手のひらを握ったり開いたりも出来る。左手も同様だ、次に両足を試してみる。しかし足の末端、つま先に力を入れることは出来ない。足自体の感覚はしっかりとあるものの、意識的に動かすことは叶わないようだ。身体の状態を確認し終え、次に自分が今いる状況を確認してみる。
どうやら自分はいまベッドに横たわっているらしい。頭を少し動かしてみると、後頭部からじゃりじゃりという音が聞こえる。ビーズが詰まった枕の音だ。身体全体を低反発のマットレスが優しく支えてくれている。掛け布団はかぶっておらず、少し寒気がする。それもそのはずだ。自分はいま、肌に何もまとっていない。服はもちろんの事、驚くことに下着すら身に着けていない。
囲炉裏麻霞は、全裸でベッドに横たわっていた。
頭を少し浮かし、顔を身体の方へと向けてみる。見える色は肌色一色だ。控えめに膨らんでいる胸があり、そしてその先にあられもない自分の恥部が見える。男性がいま囲炉裏の姿を見れば、目のやりどころに困ってしまうだろう、だが囲炉裏の瞳は自分の身体のただ一点をまじまじと見つめていた。自分の左胸だ。
左胸の鳩尾に近い部分に、縫合した後が残っている。しかもかなり目立つ。傷痕としてしっかりと認識できるくらいに、雑な縫合がなされていた。自分からは見えないが、恐らく背中側にも同じような縫合痕が残っているのだろう、囲炉裏がそう思っていると、視界の外から男が現れた。
「お、おはようさん」
野菜ジュースのパックを片手に持ちながら、男は自分のすぐ隣まで近づいてきた。男の顔をまじまじと見て、しばらくした後に囲炉裏は口を開いた。
「鷺宮空十」
「ほいほい天才情報屋の鷺宮ですよ。ご機嫌……じゃなかった、ご気分はどうだい女子高生」
「何故助けたんですか」
若干食い気味に囲炉裏は言った。感情がこもっているようには思えない単調な口調で、しかしそれでいて語勢は強く。鷺宮は囲炉裏の問いにひるむことなくこう答えた。
「そんなもん考えりゃわかんだろ」
「答えになっていません」
「アンサーは出さん。だが応えてはやってるだろ? ……お前さんをあのまま死なせてもよかった、それも俺には出来たことだ、何の苦労もせずにな。逆に医療の知識に乏しい俺がお前の治療を行う方が骨が折れる。実際お前の傷を縫合するときに、慣れないことするもんだから指に針を刺しちまったんだ、ほればんそうこう貼ってあるだろ?」
鷺宮は右手の中指に貼られた絆創膏を見せつける。針が刺さった程度、そこまで大げさなモノではないのだが、鷺宮は痛そうな顔をしてみせる。
「……」
「まぁそんな怖い顔すんなって」
「怖い顔してますか?」
実際、囲炉裏は先ほどから表情を全く変えていなかった。ずっと感情のないような無表情のままで、自分の裸体を見られているという羞恥や、ふさげた回答をする鷺宮への怒りも、彼女の表情からは感じられない。
「なんとなく怒ってそうだったからな。だが安心しな、お前ずっとポーカーフェイスのまんまだから」
「でしょうね、私も表情が変わるなんて滅多にありませんから」
そこから二人は無言になった。鷺宮は囲炉裏の顔を見つめたまま、野菜ジュースのパックを手で軽く潰しながら中身を啜っている。ストローからジュースが空気を混じらせながら移動する音だけが辺りに鳴り、それ以外は無音である。
囲炉裏は少しの間目を閉じた。自分の置かれている状況をもう一度振り返り、そして鷺宮の意図を探るため、目を閉じて考えた。雑音が耳を嫌らしく触ってくるが、なるべく気にしないようにして思考に集中する。そして何秒か経過したのち、目を開けて口を開いた。
「情報屋、きっと私から何かを聞き出すつもりですよね?」
「Fuckin'A、その通りだ女子高生」
野菜ジュースを全て飲みきったのか、鷺宮はパックを完全に握りつぶして近くのゴミ箱へと放り込んだ。
「いいか女子高生、これからは俺のターンだ。俺が気になって仕方ないことをお前さんの口から喋ってもらいたい……できればお前さんの意思でな」
鷺宮は服のポケットから煙草の箱を取り出した。中から煙草を一本取り出して火をつける。すると部屋の中に煙と共に煙草の匂いが一気に広がった。鼻をつくような煙の臭いに囲炉裏は少し気を悪くした。鷺宮は吸い込んだ煙草の煙を鼻から抜くと、話の続きをはじめた。
「まずは一番大事な事だ、お前さんのボス、連翹方斬は一体どこに棲る?」
「知りません」
返事が返って来る時間はひどく速かった。鷺宮の言葉を喰うようにして出された囲炉裏の回答に、鷺宮は表情を変えないまま続ける。
「知りませんじゃ済まないんだよ女子高生? こっからは俺様の昔ばなしになっちまうがな、2年前に連翹の野郎とコトがあってから、アイツはもちろんの事アイツの直接の仲間なんか出会ったことが無かったんだ。俺たちが今まで見てきたのは、舞台上で踊る操り人形ばっかりだった。それを操る奴の姿は一度も見ることができなかったんだ、哀れな観客としてな」
鷺宮は囲炉裏の目から視線を外さずに話し続ける。彼の吐いた煙が質量を持たずに囲炉裏の顔へと当たり、辺りを漂う。薄白い煙のカーテンを挟みながら、鷺宮の昔話は続く。
「2年前の因縁は、正直なところ俺は関係していない。連翹がやらかしたことは俺にとって不利益な事じゃなあない。町に妖異が溢れようが、町に住む人々の日常が脅かされようが、俺にとってはどうでもいいことだ。そんな俺が、なぜ連翹のことを敵視していると思う?」
鷺宮は問うように言ったが、帰ってくる返事は先ほどと同じだろうと思ったのか、それとも最初から返事なんて期待していなかったか、囲炉裏が口を開くことを待たずに話をつづけた。
「俺様はプライドが高い。東京タワーや富士山よりももっと高い。俺のプライドは軽く成層圏を突破する。そんな宇宙規模の俺のプライドがな、許さないんだよ、連翹のような奴の存在をな。……悪の組織が世界を脅かしている? その脅かされてる『セカイ』ってのに、この俺も含まれてるってのか? 冗談じゃない、俺を脅かしていいと誰が許可した? たとえ誰だって赦しはしねぇ。とどのつまり、連翹がやっていることは俺のプライドを傷つけているのさ。それが俺は赦せない、赦すつもりもない。そんな身勝手で個人的な理由で、俺は連翹の企みを潰してやろうと考えてるのさ、理解できたか女子高生? 理解できなくても構わんがな」
囲炉裏は鷺宮の話に呆気にとられた気分だった。そんな取ってつけた様な、そんなどうでもよいことで、この男は連翹に立ち向かっているというのか。鷺宮の言うように、理解など到底できそうにない。使命めいたことも理想めいたことも無しに、ただ「気に食わないから」という理由で、この男は行動しているというのだ。連翹に対しての遺恨は欠片も持っていないのだ。
この男がやろうとしているのは、無差別的な行動だ。気に食わないという理由は、人間の心の中でも最も悪魔めいたものだ。恨みや憎しみの伴っていない殺人は、誰もが理解できずに誰もが損をする。本人すらも、その行為を理解できない。心とは無意識の集まりだ。自分が意識できていないものは、自分の所有物ではないし、ましてや干渉できるものでもない。子供が自分の習っていない数式を与えられて、その解を必死に求めようとしても、その答えが出ることは決して無い。心とはそんなものだ。
目の前にで煙をくゆらせている男は、無差別的な行為を堂々と正当化しているように囲炉裏には思えた。
「……昔話は終わりだ、さて女子高生もう一度尋ねよう。連翹の居場所を答えるんだ」
「……知らないんです」
囲炉裏の答えは変わらなかった。しかし、その声色と心境には明らかな変化があった。目の前にいる男の本質が、無差別殺人犯のような危険極まりないものだということと、男にとっては全ての生物、すべての出来事を判断する基準が、自分の中にある身勝手な無意識なのだということ。それを今の話で理解した囲炉裏は、鷺宮空十という男の闇を感じ少しばかり恐怖を感じていた。
連翹の居場所は、囲炉裏にとって解くための公式を知らない数式だった。
「さっきも言ったよな、知らないじゃ済まないと」
「ほ、本当に知らないんです、知らないことは知らない……答えようがないんです」
鷺宮は煙草を床に落として、足で踏みにじった。彼の表情はほとんど変わらないモノだが、囲炉裏にとってはそんな彼の無表情が、ひどく苛立ちを感じているように見えた。
「……じゃあこれ」
「……?」
傍にあった小さなテーブルの上に置いてあった「ソレ」を手に取り、鷺宮は囲炉裏に見せつけた。「ソレ」は一目見ただけでどういった用途か判断できるもので、そして「ソレ」を使われると一体どうなってしまうのかということも、囲炉裏はすぐに理解した。
「その顔、これがどんなものか分かってるって顔だな」
「……」
囲炉裏ははじめて表情を大きく変化させた。恐怖に動揺がまじりあった感情は、彼女の顔色を青ざめさせ、冷ややかな汗を一滴頬に伝わせた。瞳孔は軽く開き瞳は細かく振動している。心臓の鼓動が早まり、呼吸も少なからず乱れ始めた。まるで心臓が喉元にあるかのように脈動がしっかりと伝わってきていた。
鷺宮はそれ以上何も言うことは無く、ゆっくりと囲炉裏に近づいていった。
「……ぃ、嫌……」
眉をひそめて、囲炉裏は小さな震えた声で嘆いた。上手く動かすことができない身体を必死に動かそうと力を入れるが、身を捩ることさえできない。ベッドのシーツを両手でつかみ、強く握りよせようとしているが、それは何の意味もなさないということを今の彼女はわかっていない。ただ恐怖に思考を支配され、正確に考える余裕がなくなっているのだ。
鷺宮は躊躇することなく、「ソレ」を彼女に打ち込んだ。
この時、鷺宮は気づくことができなかった。もうすでに囲炉裏麻霞という少女の何者かによる洗脳が、ほとんど解けきっているということに。自分が、何の抵抗もできない無力な少女をただ恐れさせ、拷問まがいのことをしてしまっているということに。気づけていれば、他の方法を試そうとしたかもしれない。
―――だがその注射器は、容赦なく少女の体内にその中身を吐き出した。




