溶け出す力
深い闇の中、夢を見た。この場合、夢を見たというよりかは夢を聴いたと言った方がいいのかもしれない。何故かって、夢の中は深淵の闇が広がっていて自分が目を開いているのか閉じているかの区別すらつかず、見えているというのは間違った表現だからだ。
私は夢を聴いた。深い深淵の闇の中でその音を聴いた。一人の少女のすすり泣く声を聴いた。その少女は延々と泣いていた。私の夢の中でしくしくと、粛々と泣いていた。少女の泣き声は儚げで、それでいて甘美であり猟奇的でもあった。
深淵の闇の奥深くから聴こえてくる少女の泣き声。それはまるで静寂が支配する夜の海にそよ聴こえるさざ波の音や風の音のような雰囲気だった。私は少女のすすり泣く声を闇の中でずっと聴いていた。それに意味はあるのか、少女はなぜ泣いているのか、なぜ少女がそこにいるのであろうか、とても不思議な夢だった。
人の見る夢には必ず意味が存在するという。人間の見る夢の大半は自己の脳髄の記憶の整理であると頭の慧い大人たちは嘯いていて、その話によるとどうやら夢というモノは自分の頭の中の一部を覗いているにすぎないらしい。逆に言えば自分の頭の中を覗ける唯一の手段とも言えるのだろう。だけど私が聴いた夢は、私の頭の中に存在する記憶なんて一切関係のない夢だ。そこに意味なんてない。ただの夢。意味がないからこそ、私の聴いた少女の声はもしかしたらあるいは、夢なんて呼べる代物ではなかったのかもしれない。
「―――さん、―――さんってば」
「……ん」
「起きてくださいよ、恵裏数さん!」
「……あぁなんだ、獏ですか」
「何だじゃないですよ恵裏数さん、今何時だと思ってるんですか?」
「13時24分48秒」
「相変わらずですね……その時計を見ずに時刻をすっぱり言い切る技」
「22年間時間と共に生きてきてたら、今が何時かなんて手に取るようにわかります」
「秒まで言えるのは人間技じゃないですけどね……」
―――町の外れにある裏通りの一区画に、一棟の廃れた三階建てのビルが建っている。一階は常連客や一部のモノ好きしか訪れないような名の知れない喫茶店「今人」。日に客が10人以上来ることはなく、喫茶店にも関わらずメニューのドリンクの欄には見事にコーヒーしか書かれていない店だ。三階は「黒相楽金融」という名前の悪徳金融業者の事務所があり、本来信用のある金融会社に金を借りる人たちが真に追いつめられ、多額の負債を背負った場合に訪れるようないわゆる「ブラック」な金融会社である。そしてその間に挟まれた二階。一人の少女と一人の女性が会話している部屋は「嬉喜鬼蟻探偵事務所」。一階の喫茶店と同じく、客が全く訪れない廃れた探偵事務所である。
その探偵事務所の部屋に彼女、「天樛恵裏数」と少女、「返枕獏」の二人は居た。
「それで獏、何の用ですか? まだ13時ってことは下で笠木蛇さんの手伝いをしているはずじゃ?」
「そうなんですけど、お店の方に恵裏数さんに会いたいって人が来てて……」
「私に会いたい人?」
恵裏数は身体をあずけていたソファから身を起こし、まだ眠気が抜けきっていない頭脳と体を引きずるようにして部屋を出た。階段を下りる時も寝起きなせいで、一段一段の幅がうまくつかめず体の重心が右へ左へと階段を下りるたびに大きく傾く。
「え、恵裏数さん大丈夫ですか? 転んだりしないで下さいよ…?」
「そんな馬鹿なことしないです。左介さんじゃあるまいし……」
そう言う恵裏数の表情は、起きた直後よりも少し曇っていた。
「……それで、私に会いたい人というのはいったい誰なんです」
「それが……どうも妖異の事で相談に来たみたいで」
「また妖異ですか」
「最近、多い気がしますよね。二年前はこんなに頻繁じゃなかったのに……」
二人は階段を降り切り、「今人」と書かれた扉を開いた。からんからんという鈴の音が鳴り、中に居た喫茶店の従業員が恵裏数たちに気付く。
「あぁ恵裏数ちゃん、よく来てくれたね」
「どうも笠木蛇さん……って、今日は結構人が居ますね」
若干狭い店の中にはカウンターに立っている店主の笠木蛇囃子以外に、テーブル席に見慣れた顔が4人。そしてカウンター席に一人、恵裏数が見覚えのない少女が座っていた。おそらくこの少女が自分に会いに来た人物だろうとすぐに合点がいった。
「こんにちは恵裏数さん!」
早速カウンター席の少女に話しかけようとした恵裏数だったが、テーブル席に座っていた血のように赤い髪の毛の少女にそれを阻まれた。
「こんにちは六、今日はお姉ちゃんとデート?」
「えっ恵裏数さん! そんなデートだなんて……!」
「うん! 今日は七お姉ちゃんと遊びに来たの!」
「いつも仲が良くて羨ましいですね」
テーブル席で身を寄せ合い座っていたのは血のように赤い髪色をした二人の少女。顔がそっくりな双子の彼女たちは、互いの手をひしと握り合いとても仲が良さそうな雰囲気だ。六と呼ばれた少女はにこにこと笑って、七と呼ばれた自らの姉の頬に自分の頬を押し当てて頬ずりをしている。
「もう…六ったら……」
「六と七と……珍しいですね、あなた達も来ているなんて」
赤髪の双子の正面にくる位置に座っていたのは一人の青年と一人の少女。正面の赤髪の双子とは打って変わって、どちらも真っ黒な髪の色をしている。
「僕達がここにいちゃ何か問題あるのか、天樛恵裏数」
「私たちは今日はたまたまここに客としてきているだけですから、お気になさらずに」
「……ここは事務所じゃなくて喫茶店ですから、居てもらっても構いません。ただ仕事の邪魔になるようなことは控えてくださいね二人とも」
「わきまえている」
恵裏数はテーブル席からカウンターへと視線を戻し、席に座っている少女へと近づいて声をかけた。一体この少女が自分にどんな依頼を持ち込んできたのかはわからないが、探偵という仕事をかれこれ4年近くやってきているのだ。依頼人から話を聞くのにももうすっかり慣れているから、話しかけることに躊躇することはなかった。
「私に用があると聞きましたが……どちら様でしょう」
恵裏数が話しかけると、カウンターに座っていた少女は飲んでいたコーヒーカップをテーブルに置き、恵裏数の目をじっと見つめてきた。少女の目は溶け入りそうなほど碧く、恵裏数はその見つめてくる大きな瞳に少したじろいだが、少女は何秒か恵裏数の瞳を見つめるとすぐに視線を自分の飲んでいたコーヒーの入ったカップへと戻し、呟くようにして言った。
「縷々ヶ瑠璃凛音」
少女は自分の名前を一言告げると、そのまま黙り込んでしまった。必要なことについては答えたということだろうか。縷々ヶ瑠璃凛音と名乗った少女は恵裏数の方を一切向かずにじっとカップの中のコーヒーを見つめている。
「……単刀直入に聞かせてもらいます凛音さん」
「妖異に憑りつかれましたか? それとも、『あなた自身が妖異ですか』?」
恵裏数のその質問に、凛音は少し肩を震わせた。よほど恵裏数の質問が的確だったようで、目の前の依頼人は唇を震わせてますます黙り込んでしまった。恵裏数は凛音の答えを待ったが、一向に彼女は返事を返してこないのでもう一度声をかけた。
「答えてもらわないと、こちらも何も対応できませんよ?」
少しの間のあと、凛音はようやく口を開いた。
「……後者よ」
「なるほど」
すると凛音は再び碧い瞳を恵裏数に向けて、歯切れ悪く言葉をつづけた。
「誰にも、こんな体質の事を話せなくて……」
「貴女なら、なんとかしてくれるって……紹介を受けて……」
凛音の訴えかけるような眼差しと、わずかに震えている声は凛音の抱える問題の大きさと重要さを言葉にせず物語っており、恵裏数もその様子を見て凛音の肩に手を置いた。肩に手を触れさせると思った通り、肩が小刻みに震えていた。凛音という少女はそれこそ、目つきだけは凛としており怯えているような眼はしていなかったが、実際はこの震えている肩のように心はとても動揺しているのだろう。恵裏数は詳しく話を聞くために、凛音を事務所まで案内することにした。彼女の話を他の人に聞こえるように話すのは失礼だろうし、なによりこれ以上喫茶店にいた二人の黒髪の男女に仕事の話を聞かせるわけにはいかなかった。こうして碧い瞳の少女、縷々ヶ瑠璃凛音は恵裏数に連れられて、嬉喜鬼蟻探偵事務所へと入っていった。
「獏、なぜあなたまでついてくるんですか」
「笠木蛇さんにお店の方はいいからって言われちゃって……」
探偵事務所に入ると、まず第一に頭に思い浮かぶ言葉は「暗い」だろう。事務所の中はまるで日陰をほうふつとさせるようにかげっており、足元が見えにくくおぼつかない。薄暗いなかを恵裏数と獏は慣れた足取りで部屋の奥まで進んでいくが、ここに初めて訪れた凛音は一歩一歩床を確かめながら歩くしかなく、ゆっくりと部屋の奥へ向かう。しかし床を確かめながら歩いていたにもかかわらず、床の感触が突如として変わり凛音は思わず驚いて声をあげた。
「きゃっ! なにこれ!?」
驚いた凛音を見て、既に部屋の奥の椅子に座りくつろいでいた獏が笑いながら床を指さす。
「ああ大丈夫ですよ、それぬいぐるみですから」
凛音は自分が踏んでしまったものを拾い上げてみると、たしかにそれが内部に綿の詰まったぬいぐるみだということがわかった。ぬいぐるみは猫の形をしており、しかも黒猫を模したものであったがために余計にこの暗い部屋の中では気づきにくい。凛音はぬいぐるみの正体に半ば不機嫌そうに呆れながら、黒猫をそのまま抱きよせてようやく部屋の奥へとたどり着いた。
「どうぞ、そこへ座ってください」
恵裏数にうながされるがまま、凛音は真っ黒に塗られたソファに座る。ソファは小さめのテーブルを挟んで二つ置いてあり、恵裏数は凛音が座ったソファの正面に置かれた、これまた真っ黒なソファにどさっと座り込む。
「さて、それじゃあ……凛音さん、まずはあなたの正体を説明してもらいましょうか」
凛音は胸に黒猫のぬいぐるみを抱き寄せながら、自分の正体について話し出した。
「三日前のことよ、私は雨が降りしきる中で目が覚めたの」
「目が覚めると自分のこと以外なんにも覚えてなくて、最初は自分が居る場所がどこかもわからなかった」
「目が覚めて最初に思ったわ……なんでこんな化け物として生まれたんだろうって」
「絶望しながら生まれてきて……雨で全身ずぶぬれで……これからどうしようって思っていた時に、あの人が声をかけてきてくれたの」
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『雨に晒されたままでは風邪をひいてしまうよ、妖異のお嬢さん』
『……あなた、誰? どうして私が、化け物だって……』
『化け物なんて言うもんじゃない、君は妖異という種族だ……この町にある嬉喜鬼蟻という探偵事務所を訪ねてみなさい、そこに居る恵裏数という女性なら君のことを世話してくれるだろうからね』
『……嬉喜鬼蟻、探偵事務所…』
『それではね、妖異のお嬢さん』
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「……なるほど」
足と腕の両方を組みながら、恵裏数は凛音の話を聞いていた。凛音があらかた話を終えると、それまではじっと黙って話を聞いていた獏が口を開いて話し出す。
「妖異ってことは……何か、特殊な力が?」
「獏、妖異と言ってもその性質は様々です。身体的特徴があっても、妖異としての力はなにも備えていないモノもいます、決めつけはよくないですよ」
「う…すみません……」
「……そこの白髪の女の子の言う通りよ、私には妖異としての力が備わってるわ」
「じゃ、じゃあ一体どんな力が……?」
獏の質問に少しの間を置いた後、凛音は答えた。
「……触れたものが、溶けて水みたいになっちゃう力。」
そう凛音が告げると、彼女の胸に抱きしめられていた黒猫のぬいぐるみは音を立てることなく、一瞬にしてその形を崩し、水のように溶け流れてしまった。