アルトの故郷
私は奴隷だった。
今でも首にはめられていた忌まわしい隷属の首輪の感触を覚えている。
だけど、今は奴隷じゃない。それは隣で火をつけようと躍起になっているサトル様のおかげだ。
もうすぐ夜になろうかという光と闇がせめぎあう時間。こんな時間はいつも昔を思い出しそうになって体を丸めるようにしていたはずだった。
「なんでこんなに落ち着いていられるんでしょう」
木と木を一生懸命こすり合わせているサトル様を見ていると、気持ちがふわふわしてくる。
そしてそのまま、忌避していたはずの思い出したくもない過去を思い返し始めていた。
私が暮らしていた村は山の奥に隠れるように存在していた。獣人は差別の対象だから、獣人が人里で暮らすという事はほとんどない。私の住んでいた村もそんな獣人たちが作り上げた場所だった。
獣人は子供でも運動能力が高い。私も女ながらに腕白で、男の子たちに混ざって山や川を縦横無尽に駆け回ったものだった。そう、ちょうどあの日も素手で捕まえてきた魚を手に、光と闇の狭間の時に家に帰ってきたのだ。
両手に抱えるくらいの魚を取ったのは初めてだった。友達の熊人であるクアルが器用に獲っていたのを見よう見まねで真似してみたが上手くいった。
「今日の夜ごはんはお魚だー。お父さんもお母さんもこれを見たら驚くぞ」
口元をゆるめながら家への道を歩いていく。お父さんが木こり兼見張りをやっているので私の家は村から少し離れたところにあるのだ。もっと近かったらもっといっぱいみんなと遊べるのにと考えたことが何度もある。そんな時は自然と遅くなる歩みも、今日ばかりは早くなった。
「ただいま」
大きな声を出しながら、扉を勢いよく開ける。手が魚でふさがっているから足で蹴るしかなかったけど気にしない。早く二人に魚を見せたかった。
「おかえり。今日はえらく元気だな。ってその魚どうしたんだ」
ちょうど帰ってきたところだったのか、汗をぬぐっているお父さんが挨拶を返してきた。私に遺伝した赤毛を短く刈り、木こりとしてずっと斧を振ってきたその体は筋肉質で大きい。虎人であることもあって目つきは鋭い。ここは似なくてよかったと思う。
そしてお父さんは目を丸くして私の獲ってきた魚を見ている。
その反応に気を良くして、私は得意げに胸を張る。
「私が獲ったんだから。こう右手でざぶーんて川を……」
アクション付きでどうやって獲ったのかを説明しようとして、魚を落としそうになってしまった。何とかお父さんが支えてくれて難を逃れた。
「そうか。よくやったぞ、このお転婆娘。流石父さんの子だ。お母さんにも見せてやろう。お母さん、驚くぞ」
そう言って魚を支えていない方の手で、ゆっくりと頭をなでる。私の頭を丸ごと掴めるような大きな手はごつごつしていて固くて、お世辞にも気持ちのいいようなものではなかったけど、どこか心が温かくなった。
「これで私も大人の仲間入りだよね」
「おう、そうだな」
お父さんはさらに強く頭を撫でてきた。
それからまたきっちり私に魚を持たせて、奥で料理をしているお母さんの元へ急ぐ。
白い割烹着を着て何かを煮込んでいる様子のお母さんは虎人ではなく、狸人である。目は優しく垂れていて、綺麗な茶色の髪を肩ぐらいまで伸ばしている。肌は色白で体は小さく、日に焼けて黒いお父さんと並ぶとちぐはぐだ。
「二人してどうしたの。ご飯ならもうちょっと待ってくださいね」
「お前、これ見てみろよ。我らがお転婆娘の初獲物だ。それも大物だぞ」
お父さんが嬉しそうに言う。私もぐっと両手でなんとか持った魚をお母さんの方へと差し出す。
「これ私が獲ったんだよ」
「あら、大きいわね。アルトも狩猟をするようになったのね。やっぱり虎人だわ。狸人ならこうはいかないもの。それじゃ今日はこれも食べましょうね」
私が頷くのを見て、お母さんは魚を受け取った。
獣人と一括りにしてもその種はいっぱいある。子供がどの獣人になるかは基本的に両親がどの獣人かによって決まる。私の場合はお父さんと同じ虎人だった。かっこいいから気に入っている。
その後三人で一緒に夜ごはんを食べた。それが家族で食事をする最後になるとは、露ほども思っていなかった。
物音がして私は起きた。何か物が落ちた程度の音ではなく、まるで家の壁を何かが叩いているような音だった。
「アルト、静かにしているんだぞ」
同じ様に起きていたお父さんが私とお母さんを一度抱きしめる。そしていつも木を切るのに使っている斧を構えて、音がする方へと向かう。
どんどん大きくなっていく音に体を震わせる。抱きしめて大丈夫よと繰り返すお母さんにしがみついていることしか、このころの私にはできなかった。
そしてその時は一瞬でやってきた。
「ぎぎぎ、がっ」
壁を破って入ってきたのはこの辺りに生息するモンスター、アーマーベアーである。村の付近では一番危険なモンスターだが、普段は山のさらに奥の方に暮らしており、この村に出るのは十年に一度もない。しかし、出た年には必ず死者を出している。その特徴は名前の通り体に纏った防具の様な形をしている硬い毛。それは矢も剣も通さない上に、攻撃でもその威力を上げる。
こんな情報、当時はまったく知らなくて、それでも恐ろしいことだけは分かった。
「ナーシャ、アルトを連れて逃げろ」
お父さんがそう言った。後ろから見ていても分かる、お父さんは臨戦態勢を取っていた。戦えば死ぬと分かっていて、それでも私の頭を撫でてくれたごつごつの手で斧をしっかりと握って離さなかった。
「あなたっ! ……わかりました。アルト、行くわよ」
お母さんもそれは感じたようで、一瞬息を呑んだ。それでもすぐに落ち着いて、私の手を強く握って走り出した。
「おとうさんっ」
私はお父さんの背中を見つめて、叫ぶことしかできなかった。
家から出て村へと向かう。いつも使う道が異様に長く感じた。それでも二人で走った。
家の方が急に明るくなった。
「前を向きなさい。走るの。村まで走るのよ」
お母さんは足を止め後ろを向きそうになる私を叱咤した。その声はどこか涙が混じっていた。
しかし、私達が村にたどり着くことはなかった。なぜなら……
「あっ……アーマーベアー……」
ちょうど道を塞ぐようにもう一匹のアーマーベアーが現れた。
固まる私たち目がけて突進してくるのがはっきりと見えた。
もう駄目だと思った。ここで死んじゃうんだと確信した。
「ごめんね、こんなことしかできないお母さんで。もっと護ってあげられたらよかったんだけど」
ぎゅっと抱きしめられた。
「我は木々の精霊に願い奉る。力を強く固めて半円とし、攻撃を通さぬ盾となし、我が子を守りたまえ」
詠唱がなされた。そして生まれた魔力の盾は私だけを覆っていた。
「お母さん、出して。私はお母さんといたい。一人は嫌。死ぬ時はお母さんと一緒がいい」
「馬鹿言わないの。私の魔力じゃ、あのバカ力から長く耐えられる結界は一人用しかないから。それに私もお父さんも結構強いのよ」
アルト、あなたも強く笑って生きなさい。一度しかない生を楽しみなさい。
そう言ってお母さんはアーマーベアーに向き合った。
次の日になって私は他の村人に助けられた。お父さんが家に放った火を見て駆けつけてくれたらしい。
お父さんとお母さんは死んだ。お父さんは火に焼かれていて顔も分からなくなっていた。お母さんはアーマーベアーに目の前で八つ裂きにされるのを見た。バラバラになった体は何とか五体満足といった状況だった。
正直その時のことはあまり覚えていない。放心していた。
ただお母さんを殺したアーマーベアーは私には手を出さなかったらしい。虚ろな間をして座り込む私の周りをただぐるぐる回っていたのだそうだ。そのため不意を打つことが出来て簡単に殺せたらしい。
しかし、もしそうなら何故両親は死んだのか。今ならわかる。あの二匹は私に引き寄せられていたのだ。そして私を殺す気もなかった。それなら何のためにお父さんは私とお母さんを逃がし、お母さんは私を守るために立ち向かったのか。それから一月ほどは記憶にない。心を取り戻すには全然足らないけれど、それでも動いていたかった。動いている間は忘れていられる気がした。
それにお母さんは最後に言ったのだ。強く笑って生きろと。だから私はたった一人でも笑顔を絶やすことはしなかった。
村で私は忌避されるようになった。
このころから私は出歩くたびにモンスターに襲われるようになった。モンスターは私に襲いかかることはなく、私に注意がいっている時は他の人を襲うことはなかった。それでも私の周りに人が来ることはなくなった。
「どうにか撒けたかな」
さっきまで追ってきていた低級なゴブリン達の姿は見えなくなっていた。最近は追って来るモンスターから逃げ回ってばかりいたために、逃げ足ばかりが速くなっていく。
「今日もこんな山の奥に入っちゃったな。早く戻らないと」
またモンスターに会わないように、気配に気を付けて村の外れにある私の家へと向かう。この時もわざと遠回りして村を横切らないようにすることも、あのことがあってから2年もすれば慣れてしまった。
山に入れば食べられる野草や木の実はあったし、野生動物を真似て狩りの方法も何とか身に着けた。小動物程度ならもう自力で捕まえられる。私のモンスターを引き寄せる能力は野生動物には効かないらしく、もしうさぎやなんかも引き寄せられたら狩りがし易くなるんだけど。そう上手くは行かない。
モンスターとただの動物の違いは魔力の有無だそうだ。詳しいことは……もう教えてくれる人がいない。
「私が狩りができるようになったって知ったら、お父さんは喜ぶかな。お母さんはやっぱりお父さんの子ねって呆れるかな」
誰とも会話できない寂しさ、孤独は両親を想って独り言をつぶやくことしかできなかった。
何とか他のモンスターに見つからず家の近くまでたどり着いた。ここまでこれば一安心だ。
「あっ、親殺しだ。親殺しのアルトだ」
「うっ」
家の前にみんながいた。前は一緒に走り回っていた友達。今はただのいじめっ子だ。
「アルト、お前がアーマーベアを呼び出して親を殺させたんだろ。親殺しの最低野郎」
私は耳を閉じて丸くなることしかできない。たまに彼らはやってきてひどい言葉を投げつけ、時には蹴ったりしてくる。どうやら村の大人たちが私を要らない者扱いしているらしく、いじめても怒られないと知ったからかここ最近は特にひどい。
「おい、こいつうさぎを二羽も持ってんぞ」
「まじかよ。よく一人で山に入れるよな。モンスターは友達だってか」
笑う声が聞こえるけれど、耳を閉じているしかない。体中に走る痛みはどんどん増していく。唯一の救いは獣人特有の高い回復力でこの痛みが明日に残らないことだ。もしそうなっていたら仮にも行けず、衰弱していっただろう。
「よくうさぎを獲ってきました。それを讃えまして、これは俺らがおいしくいただきます」
背負っていた重みがふっと消えた。こんなこともしょっちゅうだ。
(せっかく二羽も捕まえたのに)
家にはもう今日の分の肉はない。狩りができるようになったからといって毎日上手くいくほどでもない。でも多勢に無勢。私にはどうすることも出来ない。
「よし、また来てやるから。ちゃんと獲物をしとめておけよ。じゃなきゃさっさと出ていくか、死ぬかしろよ。親殺し」
そう言い捨てて、彼らは去っていった。
「私は親殺しなんかじゃ……」
親殺しと言う言葉が頭を埋め尽くしそうになるのを否定するように、強く頭を横に振る。
「私は大丈夫。笑顔笑顔。うさぎ盗られちゃったし、きのこでも探しに行こうかな」
空元気でも声を上げて、今来た道を少し戻った。
次の日家に村長がやってきた。村長だけは私を気遣ってくれて、たまに食べ物を分けてくれたりする。
「ごめんな。わしに力があればお主の悪い噂を払って一緒に暮らせるのじゃが」
鹿人である彼は長い角をどこかシュンとさせながら、私の前に座っている。
「いえ、村長のおかげで私はここで暮らせていますから全然大丈夫です。今日は何の御用事ですか」
「明日でちょうどバルマとナーシャが亡くなって二年じゃ。墓に備える花も必要じゃろう」
バルマとナーシャというのは私の両親の名前だ。
「墓に行かせてもらえるんですか!」
「ああ、何とかみんなを説得しての。少しの時間だが……」
この小さな村で墓は聖域だ。そこに親殺しの私を入れることはできないと言われ、私はまだ両親の墓を参ったことがなかった。
「ありがとう、村長さん」
「いや、遅すぎたぐらいじゃよ。今からでもキルカの咲く丘に行ってきなさい。ちょうど見ごろじゃよ」
「はい」
私は挨拶もそこそこに家を飛び出した。
村と人里との中心にあるキルカの丘。ここは人里に近いから大人と一緒にしか行ってはいけなかった。だから一応お目付け役として村長の息子である犬人のドルステンさんが怖い顔でついてきた。
きれいな黄色の花を咲かせるその花を両親の墓に備えてあげたかったから、そんなことは気にならなかった。
「お母さんのために一杯持っていこう。お父さんは……お花よりお肉かな。鹿とか狙ってみようかな」
初めての墓参りに私は気分が高まっていた。それは周りの様子が全く目に入らないほどだった。
キルカの丘で花を摘んでいると、人間たちが現れた。荒くれ者といった感じの奴らばかりだ。
そしてそのうちの一人が何かつぶやくと男の足下に魔方陣が現れて大きな黒い狼が現れた。
「ほら、そいつを襲え」
その声に従って狼たちが私に襲い掛かる。驚いた私は一歩も動くことが出来なかった。この狼もモンスターの一種のようで私の周りをぐるぐる回り、時に私の顔をそのざらついた舌で舐めてくる。
「へー、本当にモンスターに襲われないのな。情報通りだ」
「これは高く売れそうだな。ちょっと貧相すぎるが、まあ今回は関係ないな」
その男たちはにやにやと笑いながら近づいてくる。
「ここは村の人しか知らないはずなのに……」
(そうだドルステンさんは? 村に逃げたんだろうか)
一緒に来たはずのドルステンさんがいない。私が捕まったのを見て、村に応援を呼びに行ってくれたんだろうか。
「ん? もしかしてお前ドレステンだとかいうワンちゃんの心配してんのか。それなら安心しろよ。お前を売ったのがそのワンちゃんだから」
「えっ……売った……」
その言葉に私はひどく納得していた。いつか出て行けと言われるのではないかと身構えていたのだ。売られるとは思っていなかったが。
「はは、可哀想にな。まあ、安心しろ。お前みたいな特殊な商品は高く売れるからな。乱暴にはしねえよ」
そう言うとさっき狼を召喚した男が近づいてきた。手には禍々しさを感じる首輪が一つ。
「これは隷属の首輪だ。これをはめればお前は奴隷だっていうことだ。忘れんな。これをはめている限りどこへ行こうとお前は奴隷なんだ」
恐怖に震える私は首にその首輪をはめられて、その日初めて人里に下りた。
そういえばこの時、私は喚くことも泣くこともなかった。いや、両親が死んだあの日から私は泣けなくなっていたのかもしれない。ただこの時も笑顔でいた。
意外とあるとの過去が悲しくなってしまいました。サトルにあった時の彼女はまだ空元気ですが、これからもっと可愛く楽しくさせていきたいです。