最終章
キィと、さびれた鉄のこすれる音が、たった一つしかないさびれた扉が開閉したことを告げる。けれども良治は振り返ることはしなかった。なんとなく、また会うような予感はあった。
「探しましたよ、良治さん」
コンクリートの上に胡坐を組んで座る自分の背中に声がかかる。
けれども、相変わらず良治は振り返ることはせず、ただじっと、星空を見つめる。
綺麗な、星空だった。これはきっと、明日も晴れるだろう。
「となり、失礼しますね」
腰まで届くほどに長い黒髪。
なぜか一昔前のセーラー服に身を包んだ、おおよそ妖精という言葉とは程遠い一人の少女が、良治の隣にそっと腰を下ろす。
なぜだろう、そんなわけはないのに、清楚な香りが自分の鼻をそっと突いたような気がした。
「……どうして、ここがわかった?」
ポツリと、星空を見上げたまま良治が呟く。
「妖精の情報網をなめちゃいけません。クリスマスの妖精は、私だけじゃないんですよ」
えっへんと、ヒカリは胸をそらす。
なるほどな、と良治は乾いた笑いを返す。
二人がいる場所は、良治がかつて通い、楓今も通い続けている高校の屋上だった。
「星、綺麗ですね」
屋上から見上げる星空は、他の人工的な灯りにさえぎられることなく、自然なままの姿で二人の瞳に届く。
一面の、星空だ。
「……そういえば俺、名前、教えたっけ?」
「え?」
「いや、俺の名前」
「あっ……その」
「……楓が、言ったか?」
「……はい」
「そっか……」
ぼんやりと、良治は呟く。
うすうすは、わかっていた。
きっと、俺の願いは叶っていない。いや、そもそも――
「良治さん……あなたは、願わなかった。いえ、願えなかったんですね」
良治は、ヒカリの声に小さく自嘲してしまう。比例するように、あるいは反比例するように、ヒカリの顔は悲痛の色に染まる。
けれども、ヒカリは言葉を続ける。
夜空を、見上げたまま。
「私達妖精のおまじないは、あくまでも、その人の強い願いを、まっすぐに願われた願いだけを叶えるもの。あなたは、自分が彼女の記憶から消えてしまうことを、強く願うことが、できなかったんですね」
「……」
良治は目をつむる。
「願えるわけ、ないじゃないか……」
「リョウジ、さん……」
「願えるわけない! だって、俺は楓のことが好きだから! 誰よりも、誰よりも好きだから! ……わかってるんだ。あんたの言うとおり、楓は俺のことなんて忘れた方がいいんだ。俺のことなんて忘れて、さっさと次の恋人見つけて、幸せになったほうがいいんだ。それがあいつにとって一番いいことなんだ。そうだよ頭ではわかってるよ。俺だってそう思うよ。だけど! それと同じぐらい、あいつに苦しんでいて欲しいって思っている自分がいるんだ! いつまでもいつまでも俺がいなくなったことを悲しんでいてほしいって思っている自分も確かにいるんだ!」
良治は立ちあがり、ヒカリを見降ろしながら、慟哭にも似た叫びをあげる。
「リョウジさん……」
ヒカリはただ、彼の叫びを、その心を受け止める。
「今日だって、ケーキ屋で働いているバイトをしながら、俺のことにつまずかないでいつも通り笑顔で働いてくれてよかったって思っている自分と、なんでいつも通り出勤してるんだよ、なんでいつも通りの笑顔なんだよって思っている自分がいて……」
気づけば、良治は涙をこぼしていた。
「怖いんだ……このままいったら、楓の事を嫌いになってしまいそうで、怖いんだよ……」
まるで子供のように、かくすこともせず、恥じることもなく、ただ己の感情があふれるままに、けっしてコンクリートを濡らすことのない涙を、誰にも触れられることのない涙を、こぼし続ける。
そして、誰にも触れられないはずの涙をそっとぬぐったのは、ヒカリだった。
立ちあがり、指を伸ばし、そっと、良治の涙をぬぐう。
それから、にっこりとほほ笑むと、
「リョウジさん……あなたの願い事を、教えてください」
そう、告げる。
「え……?」
ヒカリの言葉に、良治は、まるで子供のような声を上げる。
「私達妖精の姿を見ることができる人は、必ず、心の底に強く叶えて欲しい願いがあるんです。でなければ、私達の姿を、あなたが見ることはできません。願いを、言ってください。そして、心の中で願ってください」
「願い……」
良治はヒカリの言葉をかみしめる。
願い……本当に、叶えたい願い。叶えて欲しい願い。
それを自分の内側に探していたら、自然と、良治の顔は星空を向いていた。
一面に広がる星空は、耳を澄ませば汽笛さえ聞こえてきそうなほどに、美しく瞬いている。
そして、良治はその中に、答えを見つける。
「俺を、あの星空の向こう側まで、送ってほしい」
「……はい」
ヒカリは何を問うこともせず、良治の言葉に……その願いに、ただ頷く。
妖精は、一部の例外を除いて、ただ人の願う願いを叶えるだけの存在なのだから。
そうして少年は願い、妖精は、彼の願いをかなえるためのまじないを、心の中で唱える。
「はい、オーケー……」
妖精がいつも通り明るい声を上げながら目を開くと、そこには既に、彼の姿はなかった。
当然だ。それが、彼の願いであり、その願いを叶えるのが、自分の使命であり、仕事なのだから。
「……さようなら」
一人ぼっちとなった屋上で、星空を見上げながら、ヒカリはただ一言そう呟くのであった。
* * *
「はぁ……」
翌日、ヒカリは昨日と同じように、星の上に座っていた。
時折ため息をつきながら、ただじっと。
そうしてただぼんやりと、ツリーを囲む人々を眺めていると、ふと、たくさんの笑顔の中に一つだけ、凍りついたような表情でこちらを見ている少女の姿を見つける。
「……もしかして」
ヒカリは少女をじっと見つめ返す。少女もまた、一切視線を逸らそうとしない。
そして、ヒカリは彼女に尋ねる。
「私のことが、見えるんですか?」
「――と、いうわけで。私達妖精は、あなた達人の願いをかなえるための存在なんですよ」
「そ、そうなの」
少女はやや戸惑いながらも、ヒカリの言葉に耳を傾ける。
「ま、まぁ確かにあなたが人間じゃないってことは確かみたいね。誰もあなたのことに注目してなかったし……ってことは、さっきまで私周りの人からぶつぶつ独り言呟いてる変な人に見られてたのか……あはは、恥ずかしい。どうりで視線をひしひしと感じると思ったよ」
と、少女は苦笑いを浮かべる。
場所は、先ほどまで居たメインストリートから外れた、小さな公園。少女とヒカリは、誰もいない公園のベンチに二人並んで座っていた。
「それで、ですね。早速本題なんですが」
と、ヒカリはいつものように切りだす。
「私に叶えて欲しい願いは、なんですか?」
まるで自分に願い事があることがわかりきっているかのようなヒカリの口調に少女は戸惑いながらも
「実は……」
と、ゆっくりと口を開く。
そして、願いを告げる。
「忘れたい人が、いるんです」
――心からの、願いを。
「……」
「あの、妖精さん?」
突然笑顔を固まらせ、黙ってしまった妖精に、少女は困惑気味に首をひねる。その声に、ヒカリは我に返ると、慌てて、義務的な笑顔を作る。
「あ、すいません。ちょっとぼーっとしてしまいました。えっと、わかりました、願いは、その人を忘れたい。そういうことなんですね?」
「はい。そうです……できますか?」
「もちろんです! 私達妖精の力をもってすれば、ちょちょいのちょいですよ!」
と、ヒカリは大きな声を出しながら、胸を逸らす。
そのしぐさに、目の前の少女は微笑む。
「私は、どうすればいいのかな?」
「簡単です。心の中で、強く、真っすぐに願って下さい」
「それだけでいいの?」
「はい。そしたら私が、その願いを叶えますから」
「なるほど。わかったよ」
「いつでもいいですよ。心の準備ができ次第、はじめてください」
ヒカリがそう告げると、少女もまた、ヒカリが何を言ったわけでもないのに、そっと目を閉じる。
彼女が目を閉じるのを確認すると、ヒカリは小さくため息をついた。目の前にいる少女の耳にも届かないほどに小さく、けれど夜空にまたたく星空の向こう側には届くほどに確かな溜息。
それからヒカリは自らも目を閉じ、そっと人間の言葉では表すことのできないまじないを、心の中で呟く。
それは、12月からクリスマスまでの間だけ使える、奇跡の呪文。
そうして呪文を唱えながら、一方で、ヒカリは別のことを考えていた。
――そうだ。私は、クリスマスの妖精なんだ。
――12月からクリスマスの間にだけ現れて、人の願いを叶えるために存在する妖精であって、それ以上でも、以下でも、無いんだ。
「はい、オーケーです!」
まじないを唱え終えると、妖精は目を開き、笑顔を作り、快活な声を上げるのだった。