第3章
「……ふぅ」
良治と別れ、ヒカリは再び一人、ツリーの上……正確には、ツリーの上の星の上に座り、それまでと同じようにただ時が過ぎるのを待つ。
ツリーを見上げるたくさんの人々の笑顔が全て自分に向けられているような気がして、なんだか動物園の動物になったような気分になり、少しだけ恥ずかしかった。
「あ、そうだ」
その恥ずかしさから逃れたかったからなのかどうか、定かではないが、ヒカリはあることを思い立つと、星の上に立ちあがり、ふわりとジャンプする。
およそ体重を感じさせないほどに、やわらかにストンと着地をすると、そのまま走り出す。
目的は、あのケーキ屋ではたらく、少女の元だった。
「いらっしゃいませー!」
ケーキ屋で働く少女……確か、その名を楓と呼ばれていた少女は、先ほど見たときと同じように、素敵な笑顔を店内に振りまいていた。小さな店の中はたくさんの人でごったかえしているが、その誰一人としてヒカリのことを見ることはできないし、触れることもできない。ヒカリが触れようとしても、それこそまさに、“幽霊”のようにすり抜けてしまうことだろう。
だからヒカリ別に、何食わぬ顔でお店の中に入っても誰に気を止められるわけでもないのだ。けれどもヒカリは敢えてそうしようとはせず、お店の外側に立ち、その少女の横顔をじっと見つめていた。
「……かわいい笑顔」
無意識のうちにポツリと呟いた言葉。
それほどまでに、ヒカリは楓の笑顔が、とても愛しい誰かを失ったばかりのソレには、見えなかったのだ。けれど、ついさっき彼と一緒に見たときの笑顔と、今自分が一人で見ている笑顔との違いも、ヒカリにはわからなかった。
それからおよそ1時間後、冬の空気はますます冷え込んできたにもかかわらず、眠らぬ街は相変わらず衰えることのない人波を運び続ける。
「お疲れさまでした―!」
まだ店に残る他のスタッフやバイト仲間に頭を下げ、明るい声と共に、楓は店の外へと出る。藍色のダッフルコートを身に羽織り、白い息を吐き出しながら。
「さっぶーい」
コートでは防ぎきることのできない寒さに、楓は小声でそう呟きながら一度その場で震えると、自らも人波の一部となり、帰路につく。
その三歩後ろを、クリスマスの妖精がそっとついてきていることなんてこと、知りえるわけもなく。
「ただいまー」
店から歩くことおよそ15分、楓は無事に帰宅した。楓は、一人暮らしだった。小さなアパートの決して広いとは言えない1DK。けれども、高校生の女の子が生活していく分には不自由しない程度の広さではあった。
まさかまだ学生の楓が一人暮らしだとは思っていなかったヒカリは、そのことに驚きつつも、同時に安心している面もあった。それは、家族の存在だ。
ヒカリがその恋人である男性を消したのは、楓の記憶の中だけのはずだ。なぜなら、良治がそう願ったからだ。楓の家族や、友人、その恋人であった男性を知る人間の記憶全てから彼を消すようなことを、良治は願わなかったはず。
つまり、ヒカリが突然その彼を忘れたことによって、周りの人間に不審な目で見られてしまうのではないか、という心配がヒカリにはあったのだ。
けれども、一人暮らしなら少なくとも家族から変な目で見られるような機会はあまりないだろう。友人からも、恐らく気の毒な目で見られるようなことは今後あるかもしれないが、あまり深く突っ込まれるようなことも、多分、ないだろう。と、ヒカリは思う事にした。
楓の部屋からは、女の子にしては随分落ちついているような印象を受ける。ピンクといった明るい色は見えず、茶色や、黒や、白といった、全体的に非常にシックな色で家具が整えられている。人形等も無く、物も全体的に少ない。 ベッドと、クローゼットと、机と、テーブル。それから、本がぎっしりと詰められた本棚が壁の一面を占拠している。さらにこれまた珍しく、テレビがない。代わりに机の上につけっぱなしのノートパソコンが置かれていた。
楓はコートを脱ぎ、クローゼットのハンガーにかけると、机の前の椅子に座った。それから、パソコンのメールソフトを起動しメールをチェックする。ヒカリは、その後ろに立ち、ひょっこりとパソコンの画面を除く。
高校生の、しかも女の子なのに、携帯のメールじゃなくてパソコンのメールをまずチェックするなんて、なんだか渋いなーとかそんなことをぼんやりと思いながら。
そんなヒカリの目に、あるものが止まる。
それは、ノートパソコンの横、机の隅に置かれた、木でできた可愛らしい一つの写真立て。
そして、その中に飾られている写真に写っているのは、ほんのりと頬を染め、はにかみ気味にぎこちなく、けれども見ている人の心をも暖かくさせてしまうような、そんな幸せそうな笑みを浮かべるひと組の男女。
照れたような笑みを浮かべる女の子は、楓。
そして、楓の隣に立ち、同じようにぎこちない笑みを浮かべる男の子は、まぎれもなく荒木良治だった。
「……そんな」
そのことに気づいた瞬間、ヒカリの脳裏に、彼の言葉が、表情が、明滅する。
――……“人”の願い、ねぇ
あの言葉は、そしてあの 卑屈な笑みは、そういう、意味だったんだ。
――いや、あんたが人間じゃないってことはまぁわかるよ。あんなツリーの上に座ってたんだから……しかも、僕以外の人は誰もあんたのことが見えていないようだし
確かにその時、街を歩く大勢の人々は誰も“二人”に注目していなかった。
――だから、てっきり“幽霊”かなんかかと思ってたんだよ。でも、まさか妖精と来るとは思ってなくて
ストンと、ヒカリの膝が折れる。
気づかぬうちに、ヒカリの両目から一粒の涙がこぼれる。
私は、なんて願いを、彼に願わせてしまったんだろう。
最後の最後、彼は「ありがとう」といって笑った。
あの言葉の裏側で、あの笑顔の裏側で、彼は一体どれほどの悲しみを受け入れようとしていたのだろう。
人は死んでしまったら、人の記憶の中でしか生きてはいられない。
それなのに、自分の存在を消してしまうような願いを、愛する人の中から存在を消すような願いを“叶えさせられて”、彼は、一体、どれほどの寂しさを、受けとめようとしたのだろう。
それほどの寂しさを抱えながら、最後に、笑ったのだろう。
それは到底、ヒカリには……いや、他の誰にも、測り知ることのできないものだろう。
「私、一体、なんてことを……」
意識的にか、無意識的にか、ヒカリはポツリと、誰にも届かぬ言葉を一言こぼす。
同時に、瞳から雫が零れる。
「ごめんなさい……」
それは、目の前の少女に向けてのものだったのか、それとも、良治に向けてのものだったのか、それは、ヒカリ自身にもわからなかった。
けれども、そんな風に座り込んだままただ涙をこぼすヒカリの耳に飛び込んできたのは
「ただいま、良治」
と、頬杖をつき、写真を見つめ、ヒカリと同じように静かにその目から一粒の雫をこぼす、楓の声だった。
その声に、ヒカリは弾けるように顔を上げる。
「……今、なんて?」
尋ねる声は、けれども楓には届かない。
「今、リョウジって……」
と、ようやく楓はあることに気がつく。
「……私、あの人の名前、聞いてない」
願いを叶えることに必死になりすぎて、彼の名前を尋ねるのを失念していたのだ。
けれど、写真に映る男性は間違いなく先ほど自分が願いを叶えた男性で、そしてその男性が映る写真を見つめながら、楓ははっきりと言ったのだ。
ただいま、リョウジ、と。
涙をこぼしながら、言ったのだ。
混乱する頭で、ヒカリは、ただじっと写真を見つめる楓を、じっと見つめる。
「さっ、ごはんごはん」
自分を鼓舞するかのように、他に誰がいるとわかっているわけでもないのに、楓はそう空元気としか思えない声を出すと、イスから立ち上がりキッチンへと向かう。
けれど、ヒカリは相変わらずそこから立ちあがれないまま、彼女の呟いた言葉の意味を、正確にいえば、どうして彼女の口からその言葉が出たのかを、考える。
「……そっか」
そうして息ついた答えは、単純で、残酷なものだった。
「私、馬鹿だ……」
そう呟くや否や、ヒカリは先ほどまで崩れていた膝に力を込め、まっすぐに立ちあがると、音をたてないように気を付けながらベランダへと続く窓ガラスを開き、冬の空へと文字通り飛びだすのであった。