レイチェル
サークルで書いてボツにしたものです。書いた時のタイトルがラストのネタのもろばれだったのでちょっと変えました。
窮屈な室内に、押し込まれるようにして入った身体ひとつ。
ヘルメットの内部に息がかかり、白い靄を生じさせる。胸元が圧迫されて苦しい。少し無理な姿勢のせいか、腰も痛かった。踏んだり蹴ったりだな、と私は苦笑した。すると、耳元で通信士の声が聞こえてきた。
『具合はどうだい?』
最悪、と私は応える。通信士は苦笑したようだった。
『無理矢理設えたものだからね。本来は君が入るようには出来ていないんだ。急造品ですまない』
謝ってもらってもどうにかなるものじゃない、と私は少しむくれた。通信士が取り成すように言った。
『頼むからそんな怒ったような声を出さないでくれ。帰ってきたら、君の好きなものを買ってあげるから』
じゃあティファニーのネックレスで、と私が言うと通信士は『高い物は勘弁してくれよ』と笑った。じゃあ好きなものを買ってやるなんて言わなきゃいいのに。
『こうして話せるのも残り僅かな時間なんだ。もう少し建設的な話をしよう。二人のこれからのこととか』
そういうのはよして、と私が呟く。この通信も誰かに聞かれているかもしれない。私の不安を察知したように『心配はいらないよ』という少し笑みを含んだ声が聞こえた。
『個別回線で繋いでいる。君との仲を知っている同僚がわざわざ用意してくれたんだ。その同僚には感謝しておいたよ』
余計なお世話、と私が答えると、『折角の機会ってわけさ。思えばこうして話すのはしばらくぶりかな』と通信士は笑った。
『しばらく会えなくなるんだ。寂しいよ』
寂しいなんて、男が言うものじゃないと私は思ったけれど口にはしなかった。本心では私も少し寂しいし、不安だ。
そう? なんて平気そうな声で聞き返してみる。その声に対して通信士は何度も『寂しいな』と繰り返した。
『どうして僕と君とが別れなくてはいけないんだろう』
別に今生の別れというわけではないじゃない、と言うと『どうなるか分からないから、不安なんだ』と通信士は呻いた。頭を抱えて、苦悩している様子が目に浮かんだ。彼はいつでもそうだった。私が姿を見かけると平静を装うのだが、見えないところではいつも思い悩んでいた。未来に対する不安は私もあった。だけど、彼ほどではなかったし、怯えるよりかはなるようになると思っているほうがいいことを私は知っていた。『君は、平気そうだね』と通信士は呟いた。
『僕と別れても、君は大丈夫そうだ』
そんなことはない、と言おうとしたが弱さを見せるのも気が引けて、そうかもね、と強がりを吐いた。通信士は『あんまり強がったりしないでくれよ。僕の方が辛くなる』と言ってため息をついた。
『いや、あんまり暗くなっても仕方がないね。もう決まったことなんだから。君は、これから行く場所がどんなところなのか知っているかい?』
何度も説明を受けたし、訓練もこなしてきた。もちろん分かっている。私はこれから宇宙に行こうとしている。衛星軌道に乗るまで打ち上げられて、そこから約二十日間宇宙に滞在することになる。
『決して安全とは言えないんだ。僕は君を候補に出した上司を殴ろうかとさえ考えた。今回、君が乗るロケットは試作型なんだ。一般の人間が乗るためのロケットの叩き台というわけさ。第一の被験者だ。実験と同じだよ。そんなことに君を巻き込むのは、僕は嫌だったんだ』
仕方ないじゃない、と私は通信士を慰めた。押し殺した嗚咽の声が聞こえてくる。私の方が危ないのに、これじゃ彼がロケットで宇宙に行く被験者に選ばれたようだ。私の不安も、彼が肩代わりしてくれているようで私は少しばつが悪そうに言った。
そんなに言っても決まったことなんだから、と。
『分かっている。嫌でも逆らえないって。でも、いくら人類の未来を切り拓くためでも、僕は君にそんな重荷を背負わせたくないんだ』
重荷、などと考えたことはなかった。私が宇宙へと行くのは、太陽が東から昇るくらい当然のことなのだと思っていたからだ。私しか出来ない、と呟いてみたが本当にそうなのだろうか。彼の言葉を聞いていると私が選ばれたことが、ほとんど悪夢に近いような気がしてくる。通信士は泣き声に近い声で、私に語りかけた。
『ロケットは第一宇宙速度を越えて、大気と重力を振り切って宇宙に行くんだ。僕からしてみればとても遠いところだよ。だって僕みたいな普通の人間は重力も大気も振り切れないんだから。その呪縛から解き放たれた場所に行くってことは、もう前と同じ君には会えないってことさ』
私は多分変わらないと思うけど、と言っても彼の癇癪が止まるわけではなかった。宇宙とはそんなに遠いのだろうか。訓練は受けたが、実際にはどれほど過酷なのか想像も出来なかった。前と同じ私ではない、という部分だけが引っかかった。私は変わってしまうのだろうか。宇宙に一度出て、外側から地球を眺めたら、もう元の場所には戻れないのだろうか。
『泣いても仕方がない、よね』と彼は言い、ひとつ大きく息を吐いた。気持ちを落ち着けているのだろう。私の方が緊張するべきなのに、何だかおかしなものだと思った。
『もう時間はない。僕はすぐに戻らなくちゃ。その前に、ひとつ言っておきたいことがあるんだ。君はライカという名前を知っているかい?』
突然の質問に私は少し戸惑いながらも、知っている、と返した。知らないはずがない。それは地球周回軌道に打ち上げられた初の動物だ。私はその記念碑を見たことがある。
『ライカはソ連の時代にスプートニク2号に乗せられて打ち上げられたんだ。でも、彼女は打ち上げられた時、キャビンの加熱と過度のストレスで数時間後には息を引き取っていたという。君が彼女と同じ運命を辿らないか、それだけが心配なんだ』
私は、大丈夫、と努めて明るく言った。大体、それはもう七十年も前の話だ。今のロケットはもっと安全だし、何より彼がそんな話題を持ち出すことが理解できなかった。だって、それは、
『とにかく、君はもうすぐ宇宙へ行く。僕とはしばらく離れ離れになる。それでも、君に対する僕の思いは変わらないから。愛しているよ、レイチェル』
私も、愛していると返しかけたが、少し気恥ずかしくて何も言えなかった。通信が切られ、無音の時間の中を漂う。恐らく宇宙の孤独とはこれ以上のものなのだろう。だが、それにも耐えられる。私は、彼に勇気をもらったのだから。彼は頼りないけれど、でも最後まで私のことを心配してくれた。彼にとって私が特別だと分かっただけでも充分だった。
数時間後、再び通信士の声が耳朶を打った。だが、今度は無機質な、感情を押し殺した声である。そろそろ打ち上げられるのだろう。機械的な言葉の羅列が、耳で認識する前に消えてゆく。カウントダウンが開始される。10、9、8……。
私は目を閉じた。今更になって恐怖が湧いてきたのはどうしたことだろう。手の震えも止まらない。もし失敗したら、そんな思いに駆られて私は叫ぼうとした。その時、カウントダウンの声に混じって、彼の声が確かに耳に届いた。
『愛している』
その声で私の恐怖にささくれ立った心は凪いでいった。彼が見てくれている。それだけで私は生きて帰れる気がした。カウントダウン、3、2、1。
前からGが圧し掛かり、胃の腑へと振動が落ちてゆく。身体が仰け反りそうな衝撃に、普段ならば悲鳴を上げていたであろう。でも、私は落ち着いていた。きっと、宇宙に行っても帰ってきて、また会えるから。変わらずに、また一緒に。
愛している。そんな言葉で宇宙まで繋がれる。たとえ酸素が消え、重力を振り切り、無音の世界に取り残されても、その声だけは残っている。
愛している、と私も返した。
2027年、世界初の一般人向け遊覧宇宙船の実験のための試作機が打ち上げられた。実験のため、有人ではなく動物実験が行われた。その動物は二十日間の宇宙での滞在に生き残り、後に有人での実験も成功し2040年には遊覧用の宇宙船の実用化が始まる。選抜された動物の名はレイチェル。三歳の犬であった。
この小説の元タイトルは「犬」でした。とんだネタばれです笑