結婚式の日に花婿が攫われましたが、まあどうでもいいです
晴れやかな空の下、純白の衣装に身を包んだ若い男女が歩いてくる。
真紅のカーペットの上を、ゆっくりと。
今日は二人結婚式。若い夫婦の新たな門出を祝う、沢山の人々に手を振りながら。
(あら…………?)
華やかな礼服を纏った招待客の中に、一人だけ場違いな服装をした者がこちらを見ていた。
(いえ、見ているというよりは……睨まれている?)
質素なワンピース姿のその女は射殺さんばかりの眼差しをこちらに向けてくる。
そして思い切り息を吸うような仕草を見せた後、周囲の歓声に負けぬほどの大声を張り上げた。
「リック―! アタシよ! ドリスよー! 迎えに来たの! 一緒に逃げましょうー!!」
女は場違いな台詞を喉が張り裂けんばかりの声量で叫ぶ。
突然の出来事に皆驚いてその場に固まってしまったが、一人だけその声に反応した者がいた。
「ドリス! ああ……僕の最愛! 迎えにきてくれたんだね!!」
満面の笑みで女の元に駆け寄り、その手をとるのはエーリック・アルバン。
彼は今しがた花嫁のディアナ・セレネと教会で永遠の愛を誓い合った。
なのに、数刻も経たぬうちから別の女を「最愛」と呼び、手に手を取り合って逃げていく。
あまりにも唐突な出来事に誰も何も出来なかった。
花嫁も、招待客も、親族でさえも。
逃げていく花婿と闖入者の後ろ姿を呆然と眺めていた―――。
*
「……説明してもらおうか、アルバン子爵殿。あの花盗人と貴殿の子息の関係を」
静かだが怒りに満ちた迫力のある声音でディアナの父、セレネ伯爵がそう問いかける。彼にしてみれば娘が公の場でとんだ恥をかかされたのだ。怒らないはずがない。
(まあ、お父様ったら『花盗人』だなんて、随分と洒落た言い回しですこと……)
一方のディアナは父親の上手い表現の仕方に感心を覚えていた。
花婿を盗んだから『花盗人』だなんて洒落ている。
いつか自分も使ってみたい言い回しだ。
だがこんな稀有な体験は一生に一度あるかないかだろう。
結婚式で花婿が別の女に攫われるなんて―――。
「あ、あのっ、セレネ伯爵閣下、此度はどう詫びてよいやら……。ディアナ嬢にもとんだ恥をかかせてしまい……」
花婿の父は可哀想なほど狼狽し、顔も気の毒なほどに青白くなっている。
彼にしてみれば息子が公の場で前代未聞の愚行を犯したのだ。
狼狽えるのも無理はない。
「謝罪はいい。謝られたくらいで済む問題ではないのだからな。何なんだあの薄汚れた阿婆擦れは? 貴殿の子息の情婦か?」
「い、いえっ、その……アレとは手を切らせたはずでして……」
「アレ……? 貴殿はあの女を知っていたということか?」
「はっ……はい。ですがっ! 私は愚息がとっくにアレと縁を切ったものと……!」
「つまり……アレは子息と関係のあった女ということか? 縁を切っただけで満足するとは……ふん、貴族家当主にしてはぬるい考えだ。儂ならば縁を切れなどと言わず、物理的に斬っておくがな……」
確かに父ならそれくらいはやりそうだ。
きっとこうするだろう、と願望と放置を違えたようなぬるい対応をしていて痛い目をみるのは自分なのだから。
父は常日頃からそう子供達に教えてきたし、ディアナ自身もそう思っている。
「言いたいことは山ほどあるが、儂からは貴殿に慰謝料を請求するとだけ言っておこう。内容は事前に交わした契約書の通りだ。すぐにでも措置をとらせていただこうか」
「そ、そんな……お待ちくだされ!」
「待つ? これは異なことを、貴殿は話し合いを伸ばすつもりか? 後に控えている御方に対し、よくもそんな無礼なことが言えたものだな……」
「へ……? 後、とは……?」
唖然とするアルバン子爵にセレネ伯爵は蔑んだ顔を見せた。
「貴殿は貴殿の子息がやらかした事の重大さを理解しておらぬのか? あの愚行を誰に見られていたと思っている?」
セレネ伯爵が目で合図を送ると、それを受けた従者が部屋の扉を開ける。
あの後、自分達は話し合いのためにこの控室へと集まったのだ。
動揺する招待客達は使用人に命じて一足先に披露宴会場へと誘導した。
ただ二人を除いて……。
*
「セレネ伯爵、話し合いはもう済んだのか? 随分と早いな」
控室の扉から入ってきたのは国王ならびに側妃であった。
突然現れた貴人を前にしてアルバン子爵とその一家は礼をとることも忘れ、ただ口をパクパクと無意味に開く。対してセレネ伯爵家一同はすぐさま頭を下げた。
「いえ、陛下ならびに妃殿下をお待たせするわけにもいきませんので」
「そうか、気を遣わせてすまないな。ディアナ、此度はとんだ災難だった。其方は何も悪くない故、気を落とすでないぞ」
慰めの言葉を優しくかける国王にディアナは「勿体ないお言葉です」と返す。
それにハッと我に返ったアルバン子爵は先ほど以上にひどく狼狽え始めた。
「な……っ、なぜっ、国王陛下がここに……?」
息子の愚行だけで失神寸前なのに、言葉も交わしたことのない高貴な方が目の前に現れた。しかもこんな状況下で。最悪過ぎる展開にアルバン子爵は気を保っているのが精一杯のようだ。ちなみに彼の細君は息子が逃げた瞬間に気を失ってしまった。
「何故って、ディアナは我が妃の姪ぞ? 姪の結婚式に招待されることは何らおかしくなかろう」
本来であれば許しも得ずに発言をするアルバン子爵の行為は不敬に当たる。
だがこんな事態なので国王はそれを不問にした。
どうせアルバン子爵家は今日を限りに二度と国王に謁見する機会は訪れないのだから。
「め、姪……? あっ…………!?」
アルバン子爵は今思い出したとばかりに驚愕の表情を見せる。
自分の息子の妻であるディアナ・セレネ伯爵令嬢の父方の叔母は国王の側妃だ。
結婚式に招待されるのは当然である。
「で、ですが……先ほどの教会では……」
「ああ、警護の問題であの場で招待客の間に紛れるわけにもいかなくてな。離れた場所より眺めさせてもらった。……其方の子息がどこぞの女と駆け落ちした瞬間も、しっかりとな」
人間の顔色ってここまで青白くなるのだなと驚くほどにアルバン子爵は血の気が引いている。
まさか国王にあんな醜態を見られていたことによる羞恥と絶望でどうしようもない。
「追って正式な書状は送らせてもらうが、先に伝えてだけおこう。其方の家、アルバン子爵家は貴族の称号を剥奪すると」
「な……っ! は、はくだつ!? 何故でございますか! 確かに愚息はよりもよって結婚式でディアナ嬢に対してとんでもない愚行を犯しました! ですがっ! それで爵位剥奪はあまりにも重すぎるかとっ……!!」
「……其方、何を言っておる。それが理由なわけがないだろう? 其方の子息は女の手を取る前に何をしておった?」
「え…………?」
何、何って、確か教会で誓いの言葉を交わしていたはず……。
そこまで考えてアルバン子爵はハッと何かに気付く。
そうだ、息子は神の御前で永遠の愛を誓ったのだと。
「あ……、ま、まさか……」
「ようやく気付いたか? そうだ、其方の子息は神の御前で誓ったことを、舌の根の乾かぬ内に破った。これは神に偽りの誓いを立てたとし、立ち合いをした神父から教会本部へとすぐに連絡が届くだろう。そうなればどうなると思う?」
「教会本部より……教皇の名で破門状が届きます……。貴族ですので……個人ではなく、家がその対象に……」
そこまで口にした後、アルバン子爵は糸の切れたマリオネットのようにだらんと四肢を床に落とした。
事の重大さに耐えられない。そんな様子がヒシヒシと伝わってくる。
「そうだ。破門先の名称は『アルバン子爵家』だろう。そうなるとその名はこの先永久に使えぬこととなる。領民のためにも領地は名を変え、領主も変えねばならぬのは分かるな?」
「はい…………」
国教に定められている先の教会本部から破門を受けた貴族家はその名を永久に使用できなくなる。破門された名など忌むべきものだと認識され、領地は神からの祝福も届かない呪われた土地だとされてしまう。
そうならないためにも統治者は万が一にも貴族が教会より破門された場合にはすぐさまその名を廃す義務がある。
そうしないとその領地の民に混乱が生じてしまうから。
「それにしても『破門』など、最後にあったのは二代前の王の御世だったか……」
「……………………」
国王は言外に『それくらい滅多に起こらないことだ』とアルバン子爵を責めた。
教会としても別に愛の誓いを破る行為を批判し、離婚を阻止しているというわけではない。
結婚式の後、日が経ってからの離婚だとすれば破門はしなかった。
離婚程度でそんなことしていたらこの国は破門者だらけになってしまう。
だが、今回は愛の誓いをした直後に起こったことだ。
これでは「初めからその誓いは嘘だった」と宣言しているようなもの。
しかも目の前でそれをやられてしまっては、神父も流石に見過ごすことはできない。
せめて家に帰ってからやってくれたのならここまで大事にしなかったのに、と神父は呆れながら上に報告をしていることだろう。
ここまでくると、恥をかかされたディアナ本人もアルバン子爵を怒る気にはなれない。
この人達は今日を持って爵位を剥奪され、平民となる。
それを思うと怒るよりも可哀想になってくる。
「ディアナ嬢、一度誓いを立ててしまったので結婚自体を無かったことには出来ない。かといって平民と貴族は夫婦になれぬのでな、何の罪もない其方に傷がつくのはどうかと思うが……」
平民という言葉をやけに強調する国王。
それは爵位を剥奪されるアルバン子爵家を揶揄しているのだろう。
その言葉を聞いた子爵がビクッと肩を震わせた。
「いいえ、お気遣いいただきありがとうございます」
こうしてディアナは結婚し、すぐに離婚するという王国史上でも珍しい体験をすることとなった。
嫁入りしたその日に婚家が無くなるという、史上初の経験も。
*
アルバン子爵家が王国の貴族名鑑から消えてからしばらく経ったある日のこと。
セレネ伯爵家の門前では二人の男女が座り込んでいた。
「お願いだ! ディアナを呼んでくれ!」
「お願いします、ディアナ様とお話を……!」
薄汚れたボロボロの服を身に着けた男女は必死にディアナの名を叫んでいる。
「無礼者が! 平民がお嬢様の名前を口にするなど何を考えている!!」
門番がその二人の不敬に怒り、腰に携えた剣を抜く。
抜き身の刃が眼前に晒された彼等は情けなく腰を抜かし「ヒイイッ!?」と悲鳴をあげた。
「ぼ、ぼくはディアナの夫だぞ!? 夫が妻に会いに来て何が悪いと言うんだ!」
「はあ? お嬢様は未婚だぞ? 夫なんているわけないだろう」
男の不可解な言葉に門番が顔を顰める。
するとそこに柔らな声がかかった。
「騒がしいわね。どうしたというの?」
外出着を身に着けたディアナが門前へと姿を現した。
今日はこれから馬車で外出する予定だというのに、騒がしいので気になって様子を見に来たようだ。
「これはお嬢様! 申し訳ございません、いますぐこいつらどかしますので「ディアナ? ディアナだね!? 僕だよ! エーリックだ!」」
門番の言葉を遮り、男の方がディアナを見て叫ぶ。
ディアナは見知らぬ男が自分の名を呼ぶことに怪訝そうな顔を見せた。
「エーリック……? どちら様かしら?」
なんだかどこかで聞いたことのある名前だ。
よく見れば男の顔もどこかで見たような気もする。
どこで見かけたかしら……とディアナが記憶を辿る間に、ただならぬ気配を感じた侍女と門番が彼女の前に出た。
「お嬢様! 不審者の前に姿を見せてはなりません!」
「そうですよお嬢様! 御身に何かあったらどうするのですか!!」
侍女と門番の必死の形相にディアナは肩をビクッと震わせた。
「……ごめんなさいね。なんだか知っている声のような気がして……」
「ディアナ! 忘れちゃったのかい!? 僕だよ、君の夫でアルバン子爵家嫡男のエーリックだ!」
門番に剣を突き付けられ威嚇されていても、男は必死で言い募る。
そして家名を告げられたディアナはやっと思い出したように手の平をパンと鳴らした。
「ああ! アルバン子爵家の! 生きていらっしゃったんですね?」
ディアナの辛辣な台詞に男は「うっ……」と言葉を詰まらせた。
だがすぐに気を取り直し、縋るような目で彼女を見つめる。
「ごめん……怒ってるんだよね? 君が怒るのも無理はない。あの日……僕は君を裏切ったのだから……」
「そこ、馬車が通るのに邪魔だからどいてくださる?」
なにやら芝居がかった態度を見せ始めた男にディアナはきっぱりと言い放った。
「え? え……? ディ、ディアナ? そんなに怒っているのかい?」
「? いえ、別に怒ってはいませんよ? 邪魔だからどいてほしいだけですの」
ディアナの端正な顔からは確かに怒りなど感じられない。
ただ純粋に障害物にどいてほしいというだけのようだ。
だが男にとっては怒っていないのだからそれでいいというわけではない。
むしろそれが逆に不気味に思えた。
「い、いやその……聞いてくれ! 僕はあれから苦労の連続で、金にも困る生活を……」
「お金? ああ、なるほど。物乞いにいらしたのね?」
同情を誘うように話すも、ディアナの反応は男が想像したものとは全く違った。
話を遮り、物乞いと決めつける。
呆気にとられた男の眼前に、侍女が小さな袋を投げつけた。
袋の中身は硬貨なのか地面に当たるとチャリンと音がする。
「それを持って立ち去ってくださいませ。では御機嫌よう」
男の話を聞く気もなく、さっさと終わらせて馬車の方へ向かうディアナ。
その華奢な背に追いすがるように男は手を伸ばすも、門番によってその手を掴まれる。
「い、いてててっ!? 何するんだ!」
「ほら、邪魔だって言ってんだろう? 今からここを馬車が通るんだよ、さっさとどけ!」
男は門番によって道の端へと追いやられた。
それを見て今まで呆然としていた女がハッと我に返る。
「リック!? 大丈夫?」
「あ、ああ……ドリス、ありがとう……」
道端で寄り添う二人の前を一代の馬車が通り過ぎてゆく。
煌びやかな装飾の馬車は持ち主の財政状況を表しているかのようで、二人はそれを見て惨めな気分になった。
「話と違うじゃない……。ディアナさんはまだ貴方に未練があるって……」
「い、いや、あれはきっと照れているだけで……」
「どこがよ!? いかにも『どうでもいいです』って顔していたじゃない!」
「で、でも! 僕が彼女の夫であることは間違いないし……」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人に門番が近寄り、侮蔑の表情を浮かべる。
「ディアナお嬢様に夫はいないと言っただろう? そのような出鱈目を吐くのは止めてもらおうか」
「出鱈目なんかじゃないっ! 確かに僕は彼女と結婚式を挙げたんだ! 神の御前で愛を誓い合った仲だぞ!?」
いけしゃあしゃあと言う男を門番は睨みつけた。
まるで「お前が言うな」とばかりの鋭い眼差しで。
「ああ、確かにお嬢様は数か月前に式を挙げられた。花婿となった男は歴史に名を残すほどの愚か者でな。哀れに思った国王陛下が即日中に離婚を認めてくださったのだ。なのでお嬢様は経歴に傷こそついてしまわれたが、今は未婚の身。決して愚者の妻などという不名誉な立場ではないわ!」
「は……? はぁ!? 離婚だって? 馬鹿な! 僕はそんなの認めていないぞ!?」
男の返答に門番は声を立てて笑い出した。
馬鹿が馬鹿なことを言っていると。
「何故、神の御前で偽の誓いを立てるような罰当たりの許可がいるのだ? さあ、とっとここを立ち去れ。お優しいお嬢様からお恵みを頂いただけ有難いと思え!」
門番の言葉に疑問を感じたものの、彼が刃を振るい男の髪先を切ったことでそれは吹き飛んだ。
彼は本気だと命の危機を感じ、男は女の手を掴み逃げるようにその場を立ち去る。
手にはしっかり投げられた硬貨の袋を握って。
*
「ねえちょっと……どういうことなのよアレ……」
王都の安宿にて女がベットに腰掛け、苛立ちを含んだ声でそう問いかけた。
女の名はドリス。
数か月前にセレネ伯爵家とアルバン子爵家の結婚式に現れた闖入者である。
花婿エーリックの長年の恋人であった彼女は、数か月前までは優越感に満ちていた。
貴族のお嬢様よりも彼が自分を選んでくれたこと、そしてそのお嬢様に恥をかかせたことで。
だが、今の彼女はあの時の自分の行動をひどく後悔していた。
「分からない……。けど、きっと拗ねているんだよ。僕が何も言わずに姿を消したから……」
「拗ねるって態度じゃなかったわよ!? どう見ても貴方、あの女に存在すら忘れられていたじゃない! どういうことよ!?」
楽観的な思考なのか、それとも自惚れが強いのか、男は現実を見ようとしない。
それがドリスを更に苛立たせた。
「そんなに怒らないでよドリス、ほら、ワインでも飲んで落ち着こう? おつまみにチーズもあるよ?」
ワインもチーズも露店で購入した安価な物だ。
それでも口にするのは実に数か月ぶり。ここしばらくは固いパンと薄いスープしか口に出来なかったから。
「……美味しい、けど……前飲んだ物の方が美味しかった……。二人でよく飲んだあのレストランの方が……」
「うん……そうだね。でも、ディアナとよりを戻せば、また連れていけるから」
「……………………そうね」
ドリスはモソモソとした食感の塩辛いチーズをワインで流した。
油断すると出てきそうな相手への罵詈雑言と共に……。
(よりを戻せる? 拗ねてる? あの態度を見て、どうしてそんな楽観的な考えが出来るのよ!!)
エーリックの楽観的な思考にドリスは嫌気が差してきた。
この、ディアナとよりを戻そうというのは彼が考えたことだ。
庶民の暮らしに嫌気が差した彼が。
駆け落ちし、市井で暮らし始めた二人だが生活は早いうちから破綻していた。
そもそも身の回りのこと全てを誰かにしてもらっていた貴族が庶民の生活なんて無理だ。
狭い家も、粗末な食事も、彼は数か月で音を上げた。
「明日、もう一度伯爵邸に行ってみよう」
「……大丈夫なの? 今度こそ門番に切り捨てられるんじゃない?」
門番がこちらに剣を向けてきた恐ろしさは忘れられない。
人生で刃を突き付けられる経験はあれが初めてだ。
出来ればもう二度と味わいたくない。
「大丈夫だよ。なんたってディアナは僕に惚れているのだからね!」
「………………」
この人のこの自信はどこから来るのだろう。
それとも、ドリスが知らないだけで貴族の男は皆こうなのだろうか?
エーリックはセレネ伯爵家のディアナに自分が見初められて婚約したと言っていたが、果たしてそれは真実なのだろうか。先程の彼女の顔から恋慕の情など微塵も感じなかったのに。
「……明日は、貴方一人で行ってもらえないかしら?」
「え!? ど、どうしてだい?」
何でここで「どうして」なんていう言葉が出てくるのか、とドリスは心底呆れた。
だがそれを隠し、彼が好む庇護欲をそそる表情を見せる。
「だって……アタシがいない方が話を聞いてくれるかもしれないもの。アタシはほら、ディアナさんにとっては恋敵だし、いない方がいいでしょう?」
こんなの嘘だ。自分がいようがいまいが関係ないとドリスはもうとっくに理解している。
同じ女だから分かる。ディアナはエーリックに愛情などこれっぽっちも抱いていないことを。
彼女のあれは路傍の石を見る目だった。
普通、結婚式の日に逃げた夫が再び姿を現したならあんな目はしないのではないか。
愛情にしても憎しみにしても、何かしらかの温度をもった反応をするはずだ。
あの時は何故あんなことをしたのか、と怒りを露わにするなり、今更何の用だと蔑んだりと感情を見せてもおかしくない。
なのにあの……まるで『存在自体がどうでもよかった』という無感情な反応は何だ。
怖い、とただそれだけを感じた。
もう関わりたくない、とも。
「……そうか、そうだね。ディアナがいくら僕を好きでも、僕が愛しているのはドリスただ一人だから……」
この勘違いも甚だしい態度に苛々する。
あの反応の、どこをどう見たらそんな勘違いを出来るのか。
「うん。だから明日は貴方一人でディアナさんの所に行って、話をしてきてね? アタシはここで待っているから」
あの時恵んでもらった袋には銀貨がいっぱい詰まっていた。
安い宿に数日宿泊してもおつりがくるほどに。
「分かったよ、僕に任せて。ディアナと話がついたら迎えに来るからね!」
きっとそんなことは無理だ。
そう分かってもドリスは敢えてそれを飲み込む。
「頑張ってね、リック! アタシはここで貴方の健闘を祈っているわ」
無邪気を装いドリスはエーリックに抱き着いた。
彼は愛しい女性の可愛らしい行動に鼻の下を伸ばす。
彼女が蔑んだ表情をしていることも知らずに……。
*
ドリスはアルバン子爵家の下級メイドだった。
ありがちな話だが、ひょんなことからその家の跡取りであるエーリックと恋仲になり、互いに添い遂げたいと思うまでとなる。
貴族と平民は夫婦になれない。
なので二人が添い遂げる方法としては、エーリックが身分を捨てて平民になるか、ドリスを愛人として囲うかのどちらかだ。
だがエーリックはそのどちらの方法もとらなかった。
というよりも、何の行動もとらないと言った方が正しい。
『アルバン子爵家を継ぐためには婚約者と結婚しなきゃならない。でも僕が愛するのは君だけだよ、ドリス』
婚約者よりも自分を選んでくれたことは嬉しかった。
だが、結局彼は自分をどうするのかは分からずじまいだ。
愛人として囲うつもりならばメイドを辞めなければならない。
そうすると収入源は何も無いので、家を買ってもらい生活費も貰わなければ。
だけど彼は一向にそうする気配がない。
家を買ってほしいと頼んでも『そんなの父上が許さないよ』と言うし、身分を捨てるのかと問えば『それは母上が許してくれないだろうし……』と言う。
煮え切らない態度に苛々したが、彼のことが好きだったのでドリスもそれ以上は何も追及しなかった。
そしてあれよあれよという間にエーリックが婚約者との結婚式を迎えることとなる。
婚約者が嫁いでくる家で呑気にメイドをやってなんかいられない。
焦ったドリスは結婚式場まで乗り込み、花嫁から愛しい彼を奪い去るという強硬策に出た。
結果、彼も自分を選んでくれた。
横にいる綺麗なお嬢様よりも、平民の自分を―――。
それはドリスに震えるほどの優越感を覚えさせ、その快感が脳内を麻痺させるた。
貴族の結婚式をぶち壊すことがどれほど恐ろしいのか。それを考えさせないほどに。
頭が冷えて現実を自覚したのはすぐだった。
働くことも、自分の身の回りの世話すらも出来ないエーリック。
何も出来ないお坊ちゃまを抱えて市井で暮らすことがどんなに大変か。ドリスは全く想像していなかった。
(結局アタシが外で働いて家のこともして……この人はただぐうたらしているだけ。そんな生活が嫌で、王都まで来ちゃったけど……完全にそれは間違いだったわ)
肉体労働も出来ない傅かれる立場のお坊ちゃまが市井で職にありつけるわけがない。
かといって、家事が出来るかというとそれも全くだ。
結局、ドリスが昼間外で働き、夜は家事とエーリックの世話をする毎日。
寝る暇も休む暇もなく、心も体もすり減ってしまった。
質素な生活に嫌気が差したのかエーリックは「このままここにいてもドリスに苦労させるだけだ」「ディアナの所に戻り、君を愛人として囲う」と言い出した。
「何の為に駆け落ちしたと思ってるのよ!? ふざけないで!!」
激高したドリスにエーリックは「君を日陰の身にさせるのは心苦しいよ、でもそうすれば何不自由なく優雅に暮らせるんだよ? 服も宝石も好きなだけ買えるし、ご馳走だって食べ放題だ。家事も仕事もしなくていいんだよ?」と宥めた。
苦労をしなくていい。優雅に暮らせる。
この言葉は今のドリスにはひどく甘美なものだ。
それに疲弊しきった頭では碌に考えられず、二つ返事で彼に従いセレネ伯爵家の門前で懇願するとまで至った。
しかし、冷静になった今なら分かる。
その提案は『ディアナがエーリックに惚れていて、彼の言うことなら何でも聞く』という前提がないと成り立たない。
むしろその前提があったとしても、ドリスの存在はディアナにとって憎き恋敵だ。
優遇されるなんて期待する方が間違っている。
「エーリックが戻ってくる前にさっさと逃げましょう。まあ……戻ってはこないかもしれないけど……」
ここ数か月でドリスはすっかりエーリックへの気持ちが冷めていた。
生きていく上で彼は完全にお荷物だ。何の役にも立たないのに、やたら世話がやける。
「愛している」と口にするだけで、それを行動では示さない。
彼が行動できることといえば、高い食事を御馳走するとか高価な贈り物をするとか、お金を使うことだけだ。それ以外は何も出来やしない。
「なにが『ドリスも一緒にディアナにお願いしよう! 愛し合う二人の姿を見ればきっと分かってくれる!』よ! 馬鹿だわ! 馬鹿! 馬鹿! 彼女をどれだけ甘っちょろい女だと見くびっているのよ!? 婚約者だったくせに……何も分かっていないんだわ!」
あの、こちらを路傍の石としか見ていないような彼女の目。
隙があるように見えて、いざ手を出したら完膚なきまで潰されそうな威圧感。
あれが本物の貴族なんだ。
甘っちょろいエーリックとは大違い。
当主夫妻は息子が使用人の女と恋仲になっているというのに、口頭で注意するだけでドリスを排除しようと動くことすらしない、生温い人種とは根本から違う。
「ああ、もう……あいつが帰ってくる前に逃げなくちゃ……」
荷物を纏め、ドリスはさっさと宿を出た。
行くあてなどないけれど、お荷物さえいないなら一人でどうとでも生きていける。
「駆け落ちなんてしなければよかった……」
後悔の言葉を呟き、ドリスは足早に宿を去った。
*
「あら? 乞食がまた物乞いに来たのね?」
案の定門番に捕縛されて地面に転がされるエーリックをディアナが一瞥する。
その目は相も変わらず路傍の石を眺めるような温度のないものだった。
「ディアナ……まだ怒ってるんだね? 分かるよ、夫が別の女性と愛の逃避行をしたんだもの。君の怒りは正当なものだ……」
やたら自分に酔った口調で語るエーリックに門番は侮蔑の表情を浮かべる。
こいつは何を言っているんだと。
「昨日恵んであげたお金はもう使ってしまったのかしら?」
だがディアナはエーリックの気持ち悪い発言に反応することはなかった。
それはまるで『お前には喜怒哀楽の感情を使う価値もない』と態度で表しているかのよう。
その温度のない表情に流石のエーリックも背筋が寒くなり、慌てて謝罪し始めた。
「ご、ごめんねディアナ! あの、僕が君よりドリスを選んだから怒ってるよね? でもそれには理由があって……」
「ドリス……? ああ! 貴方の恋人ですか? 今日は一緒じゃないんですね?」
「え? あ、うん……やっぱり彼女がいたら君も気分が悪いだろうし……」
「いえ、別にそんなことはありませんよ? それよりまたお金が欲しいのですか?」
「い、いや僕は……君と夫婦としてやり直そうと……」
「わたくし達は夫婦ではありませんよ? それはそうとして、こうお金を強請りに来られても困るんですよね……。物乞いすればお金が貰えると噂にでもなったら、当家の周りに乞食が増えてしまうではないですか?」
「はっ……? いや……え、え……?」
何を話してもディアナに会話の主導権を奪われてしまうことにエーリックは困惑した。
婚約していた頃、ディアナはこちらの話をただ聞くだけの大人しい令嬢だったはず。
こんな、歯に衣着せぬ物言いなんて決してなかったはずだ。
「ディアナ……いったいどうしたというんだ? 君はもっと大人しく……慎ましい女性だったじゃないか?」
「はい? 貴方がわたくしをどう見ていたかは知りませんが、今はそんな話はしておりませんわ。お金を強請りに来るのは困ると申しているのです。もう貴族ではないのですから、きちんと働いてお金を稼ぎませんと。乞食行為ばかりしては、ドリスさんに呆れられてしまいますよ?」
「は……? 僕が貴族ではない? どういうことだ!?」
「どうもこうも……アルバン子爵家はお取り潰しになりましたもの。ならその家の子息である貴方はもう貴族じゃありませんよね?」
「なっ……アルバン子爵家が取り潰し!? そんな……どうして……」
「どうしても何も、陛下が決めたことですもの。仕方ないんじゃありませんこと?」
「陛下が……? どうして陛下が我が家を……?」
「まあ、簡単に言えばアルバン子爵家は教会から破門宣告を受けたからですね。教会から見放された貴族が爵位を保てるわけもないですから」
「は、はもん……? 教会が? なんでそんな……嘘だ!」
生家が取り潰されたことがよほど衝撃だったのか、エーリックは虚ろな表情でディアナを見上げる。
ディアナはそんな彼を何の感情もない顔で一瞥した。
「信じないのは結構ですけど、ここに来られるのは困るんですよ。もうわたくしは貴方と何の関係もないですし……」
「関係ないだって……? 君と僕はそんな簡単に切れてしまうような関係だったのか?」
「……? 仰っている意味がよく分かりませんわ? わたくしは貴方と関係を深めた覚えはございません。婚約中も会ったのは二度ほどでしたし、そちらの屋敷にお邪魔したこともありませんしね」
そのディアナの言葉にエーリックはハッとなった。
アルバン子爵家には最愛のドリスがいたから。
婚約者という存在を、彼女は嫌がるだろうから敢えて屋敷には招待しなかった。
「ご、ごめん……その、屋敷にはドリスがいたから……」
「そうですか。別に構いませんよ。こちらも貴方と必要以上に仲を深める気もありませんでしたし」
「え……? いま、なんて……」
ディアナが何気なく呟いた言葉にエーリックは耳を疑った。
聞き間違いでなければ、今彼女は自分と仲を深めるつもりはなかったと言わなかったか?
だがディアナはそんなエーリックの質問に答えず「それにしても」と話を変えた。
「貴方の家も大概ですよね。当家から多額の融資を受けておきながら、わたくしをぞんざいに扱うんですもの。恩知らずにも程がありますわ。そんな家に嫁がなくてすんだのですもの、ドリスさんにはむしろ感謝したいくらいです」
アルバン元子爵家はディアナに対して何の気遣いもしてこなかった。
屋敷に招いてもてなすことも、彼女が嫁入りする前に息子の恋人をどうにかすることも。
融資をされておいてとんだ恩知らずだ。あの両親にしてこの子ありとはまさにこのこと。
どちらもディアナ及びセレネ伯爵家への気遣いが全くない。
「え? 融資? 我が家が?」
「あら、知らなかったんですの? アルバン子爵家の財政状況なんて火の車でしたのよ?」
「そんなの知らない! 僕は昔から金に困ったことなどないぞ!?」
「まあ借金を重ねて体裁を整えていたようですから。当家が融資しないことには貴方の代で潰れるところでした。まあそれより早く潰れてしまったようですけど……」
項垂れるエーリックを見てディアナは呆れた。
よくも自分の家の財政状況も知らずに後継者を名乗れたものだと。
「……もうお帰り下さい。ここに来ても貴方の居場所はありません」
「そんな……僕は、これからどうすれば……」
「ドリスさんと慎ましく暮らせばよろしいのでは? 駆け落ちから数か月経っているのですもの、住んでいる家くらいはあるのでしょう?」
「いや……家はもう引き払ってしまって……」
「あら? じゃあ昨晩はどうしたんですの? 野宿でもしたのですか?」
「いや……宿をとった。その、君に貰った金で……」
「なら、宿に戻ってドリスさんと今後についてお話されたらよろしいのです。あなた方は駆け落ちまでした仲なのですから」
もう話すことはないとばかりにディアナはエーリックに背を向け、そのまま邸内へと入ってしまった。
残されたエーリックは門番によって追い出され、仕方なくトボトボとした足取りで宿まで帰っていく。
駆け落ちまでした最愛の女性が、すでに行方をくらませたことも知らずに……。




