きっとその音は、心臓が覚えている。
異常気象の暑さに相まって、人混みの熱気も凄かった。
隣には、母。母に連れられて、花火大会に来ている。普段着で良いと言うのに、母が浴衣を勝手に着つけてしまう。
「愛、もうそろそろ始まるよ」
「お母さん、私、こんなの望んでない」
「でもさ、自宅で観るのと、全然迫力が違うから」
“連れて来られた感” 満載で、はあっとため息をつく。
「あ、ほら。始まった!」
母の声が踊る。
どん!!
その音は、心臓をバチか何かで、打ちつけるような衝撃波だ。
どん!!
どん!!
私は空を見上げる。
続けざまに、次々、花火は上がっている。
間髪入れずに。
母の腕を握っていた手にじっとりと汗が噴いた。
「金色の柳みたいなの、凄く綺麗……あ、今度は、レインボー!!」
母は、とても興奮していて、はしゃいでいるようだった。
いつもより高い、声のトーン。
どん!!
一瞬、静寂があった。
いや、花火は続いている。
私がただ、そう思っただけなのかも知れない。
興奮していた母が、急に大人しくなり、耳打ちでもするように、そっと。
「愛、無理矢理、連れてきちゃってごめんね。お母さん、欲張りだからさ、愛といつかこうやって、花火を観られたらなあっていう、願望があってさ」
「前から言ってたもんね」
それをずっと断っていた私。
「夢だったから。愛に浴衣を着付けしたかったし、夜店で一緒にりんご飴、食べたかったし、こうして花火を見上げたかったし」
その話を聞いてしまったら、断り辛くなってしまったのだ。
「ありがとね」
どん!! ぱらぱらぱら
母が、母の腕を握っていた私の手を離させて、そして握る。
比較的、私と母は、手を握る方だ。なので違和感はないけれど、いつもより力強く、握られているように思った。
愛、ありがとう、私の娘に生まれてきてくれて。
花火の音。
観客の歓声。
それらに掻き消されてしまったけれど、母は確かにそう言った。
「さあ、まだ花火終わってないけど、りんご飴も食べたし、混む前にもう帰ろうか」
繋いでいた手を離し、そしてまた母の腕へ。
私は歩き出す前に、反対の手に握っていた、白い杖を握り直した。
どん、どん、どん!!
帰ろうとした母の足が止まった。
「わあ、今度は三連発!」
「何色?」
「赤と、オレンジと、黄色」
「良いね」
「うん、すごく綺麗だよ」
そして、人混みを掻き分けて、歩き出す。
私は、閉じているまぶたに、ぎゅと力を込めた。
母の余命はあと半年。
ずっと私に寄り添ってくれていた母を奪っていくのは、人間の叡智を掻き集め、手繰り寄せても、どうにもできない病という名の悪魔。
「愛、お母さんの我が儘に付き合ってくれてありがとうね」
「うん」
私の視覚を奪っておいて、それなのにさらに母の命までをも奪うのか。悔しくて、鼻の奥がつんと痛んだ。
どん!!
私は見えない。けれど、その音はいちいち胸に響く。
感じる。
音を。
全身で。
母との思い出の隣で。
花火は見えなくとも、繋いだ手や言葉から伝わってくるのは、母からの“愛”。
「他に、私とやりたいことない? 出来る範囲でだけど」
すると、母は笑って。
「何よ、いつも出来ないって言うじゃない」
「まあ、前向きに検討する」
「なら、スカイダイビングかなあ」
「うっわ、えぐい」
私も、はははと笑い、細くなった母の腕に、いつものように腕を絡ませた。
この花火が終われば、静寂が戻ってくる。
二人。じゃりじゃりと砂をはむ足音、母の少し荒い呼吸音、白杖が地面をとんとんと叩く、規則正しい音。
その音に混じって、鼻を啜る音。その音に気づき、私は言った。
「……お母さんの顔、一度でいいから見てみたかったな」
母は泣いていた。
「大丈夫、愛の顔、私にそっくりだから」
どんどんどんどんどん。
そして、わあぁっと歓声。
「あ、ラストっぽいね」
「うん」
そして、母はその数ヶ月後、息を引き取った。
「スカイダイビング、さすがに出来なかったなあ」
眠っているであろう母からは、もう呼吸は聞こえない。その隣に座って、私は呟いた。
*
「目を、ゆっくりと開けてください」
医療の進歩により、見えなかった目が、薄っすらだけれど、見えるようになった。
月日は流れ、私は、母が亡くなった歳をとうに越していて、アラフォーを迎えていた。
「私の顔が見えますか?」
医者の遠慮がちな声。声には敏感だ。きっと、見えなかったらどうしようと思っているに違いない。
けれど、見える。
「……はい」
「最初に見たいものを持ってきてくださいと言ったよね。これは、お母さんの写真だね。素敵な写真だ、お母さん、笑っているよ」
父が選んでくれた、母の写真。
「母の顔を見たかったので」
その言葉で、フラッシュバックのように、記憶が蘇り、母が私の耳元で囁いた。
“大丈夫、愛の顔、私にそっくりだから”
ふと、思った。ねえ、お母さん。私の目が、見えるようになる未来が見えていた?
「すみません、やっぱり鏡を貸してください」
「お母さんの写真でなくて良いの?」
私は、看護師が渡そうとしてくれた手鏡を、ありがとうございますと言って、受け取る。
「──はい、母の声が聞こえたので」
きっと耳の奥の深い深い部分に、残響のように残っているのだろうな。母の声は、この歳になっても、よく覚えていた。
蘇ってきたのは、母の声だけはなく、あの日、胸に響いた花火の音。
きっとその音は、心臓が覚えている。
「お母さん、私、今度は花火を見れるかも知れないよ」
医者の隣に立つ、父の啜り泣きが聞こえてくる。けれど、お父さん、ごめんね。
私、お母さんの顔がずっと見たかったから。
手鏡を寄せ、目を閉じる。深呼吸をし、目を開く。
そこには、私の顔。
「お母さん、会いたかった。会いたかったよ」
できることなら、生きているうちに。
涙が溢れてきて、視界がぼやけてしまう。
看護師が慌てて、ティッシュを渡してきて、刺激が強いので、あまり泣かないようにと戒める。
私は涙を拭き、鼻をかみ、そしてさっきから私と同じく、涙が止まらない、父を見た。
自分の顔も、母の顔も、そして父の顔も想像より歳を取っていて、私はなぜか、少しだけほっとした。
*
「あんまり似てなかった」
私が不服そうに言うと「娘ってのは、父親に似るからなあ」と、吹き出しそうになりながら、父が言う。
「それに、お母さんの若い時の写真だし、写真なんかはまた、印象が違うからな」
「そうなの? お父さんから見ても、私、お母さんに似てないわけ?」
「愛はどっちかって言うと、お父さん似って言われることが多かったからね」
父が、りんご飴をひとつと追加の缶ビールを、夜店で買った。
「でもな、娘ってのは、歳を重ねるにつれ、母親に似てくるんだよ。だから、これからだと思うぞ」
さっきから缶ビールを飲んでいる、父の足取りは覚束ない。私が、支えるように父の腕を取った時、またあの音が、心臓を打つ。
どん!!
どん!!
母が亡くなってから、花火は一度も見に来てはない。辛い思い出になってしまっていたから。
わあっと、歓声が上がった。
はっとして、顔を上げる。
ぱぱぱっと色とりどりの火花が散って、漆黒の空を染めては、消えていく。
続けざまに次々と、空高くへと上がっていき、ぱっと花開く。
「──綺麗」
母がはしゃいでいたのもわかる。今、私はこの目で、あの日の母と同じ景色を見ている。
どん!! ぱらぱらぱら
金色の柳や、レインボーだったっけ?
涙が。
あの日の母の涙に重なって、こぼれ落ちていった。
花火の音は、重く変わらず、胸に響く。
この心臓に残っている音に、重なり合うように響いてくる。
ねえ、お母さん。
今、私、お母さんと一緒に、花火を見ているよ。
お母さんと一緒に、生きているよ。
私の手は、母の温もりを探しているのか、無意識のうちに宙を行ったり来たりしていて。
その手をそっと握り締め、美しく染め上げられていく夜空を見上げた。




