准教授、サイサイセオリーに興味を示す
夜の「彩」に、再びあの三人が姿を見せた。
重厚な扉を押し開けて入ってきた武田に続き、甲斐と広中がゆっくりと階段を降りてくる。
「……また来ちまったな」広中が笑う。
「前回の味も雰囲気も、どうにも忘れられなくてよ」
「隠れ家は、一度知ってしまうと癖になる」甲斐は静かに頷いた。
カウンターの空気が引き締まる。
そのとき照明が少し落ち、高橋が椅子に座り、アコースティックギターを抱えた。
爪弾かれたのは、リンキン・パークの「Numb」。
かつて爆音で鳴らされた曲が、静かなコード進行に置き換えられて響き渡る。
ギターの音は柔らかいのに、歌声には抑えきれない痛みと解放感が宿っていた。
「……!」
武田はグラスを止め、眉をひそめながらも深く聴き入る。
広中も拳を握り、無言でリズムを刻んでいた。
甲斐は目を閉じ、歌詞に込められた「疎外感」と「叫び」を丁寧に受け止めている。
やがて演奏が終わり、静寂を切り裂くように拍手が起こった。
武田は短く「見事だ」と呟き、広中は「……沁みたな」と肩を揺らした。
その中で、甲斐が静かに口を開く。
「……この店の音楽と会話、そしておまえらの理論。すべてが不思議に重なっているように思える」
甲斐が理論に興味を示した直後、厨房から山城が顔を出した。
「演奏どうだった?結構頑張ってアレンジしたんだぜ」
そう言いながら彼が持ってきた皿には、湯気ではなく瑞々しい光沢を放つロールキャベツ。
「……生ロールキャベツ?」白鳥が眉をひそめる。
山城は胸を張って言い切った。
「そうだ。俺の持論だがな、“生”ってつければ何でもうまそうに聞こえるんだよ。生ビール、生チョコ、生春巻き……だろ?」
理沙が思わず吹き出す。
「なるほど! でも先生、“生ロールキャベツ”はちょっと斬新すぎじゃない?しかも中はウズラの麻薬煮卵と牛蒡の醤油ピクルス?」
「まあ食ってみろ」
促されて仲間たちが箸を伸ばす。キャベツはシャキッと歯ごたえを残し、卵にニンニク醤油と胡麻油の香り。
出汁と油が絶妙に絡み、噛むごとに甘みが広がった。
「……美味しい」西村が驚きの声を漏らす。
「……“サイサイセオリー”について教えてくれないか?」
甲斐が静かに問いかける。
仲間たちの視線が自然と西村に集まる。
彼女は眼鏡を押し上げ、落ち着いた声で答えた。
「簡単に言えば――人間の行動を“欲求エネルギー”としてベクトルで捉える理論よ」
甲斐が頷くのを確認してから、彼女は続けた。
「エネルギー源は五つ。
ライフ――快楽や生存の喜び。
セフティ――安全や安心を求める力。
ユナイト――仲間や所属を求める力。
ランク――承認や順位を求める力。
ラーニン――学びや新しい知識を求める力。
人の行動は、これらが合力として働くことで決まるの」
甲斐は目を細め、興味深そうに耳を傾ける。
「……つまり心理を“力学”に置き換えて説明するわけか」
「そう。けれど摩擦もある。
恐れ、不安、後悔……そうした摩擦がベクトルを妨げる。
だから人は進みたいのに進めない、という状況に陥る」
静かな解説に、広中が「なるほどな」と唸る。
「理論っていうより、体感に近いな。俺でも分かる」
甲斐は深く頷いた。
「……面白い。詩や音楽に込められた感覚を、こうして理論として整理する。
これは確かに“学問の芽”だな」
西村は微かに笑った。
「ええ。でも学問というより、私たちの生きる“実感”に近いのかもしれない」
地下の隠れ家には新たに知的空間に相応しい客がカウンターに増えてきていた。




